自由意思・人間理性という神話からの解放、そして・・・

2018-05-03 12:24:06 | 生活

 

「極限状況において、人間は予想を超えた反応しうるものだ」という認識は、ごくごく当たり前のことであるように思える(その例は「夜と霧」、「野火」など枚挙に暇がない)。たとえば少年・少女時代に、自分が社会人になったらどのような仕事ぶりなのか、あるいは友人始めとする周囲の人間がどのようになっていくのか、正確に予測できた人間はどれくらいいるのだろうか?あるいはパートナーとの関係性は?老人となった親との関係性は?あるいは壮年期になって想像していた老後の自己像が、実際高齢者となってみて見事に自他ともに合致するものであった人は?そして死を前にした親しい人間の振る舞いは、あなたの予想した通りのものであっただろうか?おそらく、多くの否が答えとして返ってくることだろう。

 

そうしてみると、我々の考えている「~とは・・・である」という自己ないし他者認識というものは、(もちろんそういう予期がないとそもそも生活に支障をきたすとはいえ)実に脆弱極まりないことに気づかされるのではないだろうか。それは「人間不信」ということではない。自他のコントロール不可能性という端的な事実性の理解であり、あるいは人間理性と呼ばれるもの(とその継続性)に対する穏健な懐疑的態度である(これは橋爪大三郎らの著した「ゆかいな仏教」でも触れられている世界・自己認識である)。

 

私はこのように思って生きたきた時間が長いのだが、正直こういう思考様式の人間に出会ったことが絶無に近いので、自分が圧倒的な異端(甘めに見積もってもマイノリティ)の側にいるという認識が強かった。しかし、南直哉の諸々の話・著作に触れるにつけ、改めて自分の認識の確かさを信ずることができるようになったと思う。今回の宮崎哲也との対談に出てくる話も納得がいくものばかりであったが、彼の言葉に耳を傾ける人が少なからずいるというのは、私や彼のような社会・世界認識にある程度一般性があるのだなあ、と興味深く感じた次第である(※)。

 

人によっては、たかだが南直哉とそのフォロワーの話程度で「一般性」とは片腹痛いと思われるかもしれない。しかし、人間理性というものの脆弱さについては、日進月歩で様々な知見が示されるようになっている。「沙耶の唄」という傑作に絡めて私は度々認知科学の話をしてきたが、その他にもジョナサン=ハイトの道徳心理学(「The Rightous Mind」などを参照)、キャス=サンスティーンの行動経済学(「実践行動経済学」「熟義が壊れるとき」などを参照)など様々な知見によって人間の非合理性というものが論理的(←ここが非常に重要)に検証・解明され、大いに注目もされているのである(ちなみに依存症が病気であり精神力の問題ではない、というのも人間理性・自由意思信仰から脱却する上で重要な知見の一つだろう)。

 

彼らの議論が民主主義社会の在り方を問うものであることは著作を見れば明らかだが、そもそも人間理性というものへの信頼は中世ヨーロッパ世界の神中心主義からの脱却の中で成長・定着してきたのであった(國分功一郎の「中動態の世界」はそのような変化を分析した労作の一つである)。つまり人間は物事を正しく理解し運用する能力を持っているので、正しい知識を得て、そういう人たちが集まって熟義を行えば神に代わって理想的社会を運用できるはずだ、ということである(ちなみに中世キリスト教社会では自明であったはずの「生きる意味」が揺らいだがゆえに実存主義が生まれてきたり、という変化も生じたのだが、こういった変化が遍くヨーロッパ世界の地域・階級で起こったわけではない点にも注意する必要がある。これについてはロマン主義の隆盛などを指摘すれば十分だろう。なお、中世ヨーロッパ世界とキリスト教の問題なら日本は別で、実際日本人は自然と調和して人間中心ではない生き方をしてきたではないか、と言う人がいるかもしれない。しかしご存知のように日本の宗教は多分に現世利益的であり、つまりそれは世界をいかにコントロールするかに日本人が熱心であり、言い換えればそれをコントロール可能なものとみなしていたと考えるべきだ。要するに、欧米人とは違う形だが、日本人もまた世界をコントロール可能なものと考えてきたし、また自己責任論がしばしば幅をきかせていることからも明らかなように、今もなおそう考えているのである)。こうして人間理性や自由意思への信頼が近代社会を成立・駆動させてきたのであるが、その近代社会のシステムが黄昏時を迎えているのは誰の目にも明らかとなっている(正確に言うと、国民国家・民主主義・資本主義という三位一体のシステムが、経済のグローバル化+インターネットの普及による島宇宙化&分断の促進によって崩れてきている)。

 

以上の理由で、そもそも私たちが考えてきた社会認識というものを根本的な部分から考え直さなければならない段階がきているのであり(急速な変化は無理だし避けるべきとしても、それを考えておかないと将来迎えざるをえない変化に対応できない)、その意味で南直哉の提示する世界・社会認識は「宗教」や「哲学」のレベルにおさまらず、これからの社会を考える上で、否そこで生きていく上で非常に重要な土台となるのではないか?これこそ、私が彼の話に一般性があるとみなす大きな理由であり、またそれゆえに、このような認識や議論が多くの人に共有されることを願ってやまない理由でもある。

 

私も南も「生きる意味などない(正確には生きる意味が絶対的に存在すると措定するのは不可能である)」と考えるのは共通している。しかし、南が「それでも生きる方に賭けるのが宗教者である」と静かに(しかし力強く)語るのに対し、私はそのベクトルに向かう根拠を持たない。それゆえに、現実を直視した後のセーフティネットを持たない点が大きく異なる。また私はそれを自覚しているがゆえに、おそらく人は最終的にマトリックス的生き方しかできなくなるであろうというnew-reactionism的発想へと向かうわけである(これは理想としてそう言っているのではなく、そうならざるをえないだろうという推論である。私はニーチェの言う「超人」的存在はごく一部しか生まれないと考えるし、「サピエンス全史」の著者であるユヴァル=ハラリの言う「Homo Deus」のような存在が一般的になるとは今のところ考えていない。というより、その前に人類が滅亡する可能性が高いのでは?と予測しているのだが)。ちなみに彼が幼少の時の体験もあって「実社会」からの浮遊感をもって生きてきたことが語られているが、もしかするとこのような経験が「他の人にわからないのは当然だ」というある種の悟りへと繋がっているようにも思える。一方で私が「極限状況での振る舞い」を考えたのは別に自分の特異な体験に基づかないため(倫理ではなく)論理的思考の産物であると考えていたし今でも考えているため、これが理解できない人間は思考力が貧弱なのではないか?とどこか侮蔑の感情を持っているところもまた大きな違いであろう(ちなみにそれは、「超人」も「Homo Deus」もほとんど生まれえない、なぜならその程度のことすら理解できない人間がこの世には大量にいるのだから、と考える理由でもある)。

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