『算数文章題が解けない子どもたち』:計算力ではなく国語力の問題

2024-09-03 12:16:11 | ことば関連

問 「250g入りのお菓子が、30%増量して売られるそうです。お菓子の量は、何gになりますか?」

解答例1:250×0.3=750

解答例2:250÷0.3800

一見すると、「どうしてこうなった?」という答えだが、解答例1のように答えた理由は「75だと減ってしまうから0を足してみた」というものであり、また解答例2は「ふつうなら×(かける)だけど、×だと減ってしまうから÷にして増やした」というものだそうだ。

 

すでにお気づきの読者も多いと思うが、ここでの設問要求は「250+250×0.3=?」なのに、いきなり「250×0.3」だけやりはじめ、それを答えだと誤認しており、それゆえに計算自体は正しいのに答えが明らかに直感に反する(「増量」なのに何で減るの?)から、10倍してみたり、割り算に変えてみたりした結果が上の2つというわけだ。つまりここで問題なのは、「計算力」ではなく「国語力」であることが理解されるだろう(掛け算や割り算そのものは正しく理解しているのだから)。

 

ちなみにここで「何て愚かなんだ!」と思う向きの方は、ネットでよくある「一般的な傾向の話をしているのに、自分は知っていると突如主張しだす人」を思い起こすとよい。「自分は知っている」のだから知識があるという点でまあそれなりの年齢だと思われるが、設問要求(というか話の流れ)を全く理解できずに、ただ己の知識を誤ってアウトプットするのは、大人でもしばしば見られる現象なのである。

 

はいどうも、ゴルゴンです。表題にある通り、これは算数の文章題につまづく小学生たちに対して、どういう過程で誤答を導き出してしまうのかを「ことばのたつじん」「かんがえるたつじん」という「たつじんテスト」を実施する中で、解き明かしていこうという広島県で行われたプログラムを紹介し、その知見をもって算数の生徒指導に資する、という内容である。

 

小学生がつまづきやすいものとして分数の計算などは有名だが(こちらは計算そのものを間違えやすい)、「反復さえすればできて当たり前」という思い込みの元で教師がただ力業で繰り返させたり、あるいは「できない子」にひたすら速度を合わせて授業全体を弛緩させてしまうような事態を避けるためにも、「なぜそのような誤りをしてしまうのか」「それに対する有効な処方箋は何か」が広く共有されるのは極めて重要なことと言えるだろう(喩えて言うなら、スポーツでただひたすら根性論に則って反復するのと近代の科学的なトレーニングの違いで、比較した場合後者の方が明らかに有効かつ汎用性があるのと同じことだ)。

 

まあでも分数の計算について考えると、通分は実のところ最大公約数という発想を用いているし(最大公約数は高等数学の整数分野などで扱う)、また説明には小数が有効だったりするけど(1/2は0.5で2/5は0.4といった具合で、ゆえに2つを足すと0.9=9/10となる)、そもそも少数も怪しいとかなってきて、じゃあどう説明しようか…という事態になるのは何となく想像できるところだ。

 

そう言えば、大学入学共通テストの数学ⅠAについて、数年前から人間のコミュニケーションの中で確率やらデータの分析やらが出てくる形式になったのは、公式をただ道具主義的に当てはめるのではなく、文脈の中で正しく運用できることを重要視するようになったからだろう(まあ問題設定やらで物議を醸しているのも事実だが)。

 

閑話休題。
自分がこれに興味を持ったのは、「ゆる言語ラジオ」で今井むつみの話を聞いてからだが、それと同時に(1)古典教育と国語教育、(2)『自閉症は津軽弁を話さない』の内容、あるいは何度か述べている(3)共通前提の崩壊といった諸々に関連すると思ったのが大きい(ちなみにVtuberの学力テストなども義務教育の内容なんてさして覚えてない人は沢山いるよね、てことを認識させてくれる。え、そんなの一部の人間だけでしょと思う向きは、周囲の人間に「三角形の合同条件」「花崗岩と玄武岩の違い」「輪中」あたりが説明できるか聞いてみたらよい。「義務教育の内容は理解していて当然」という認識が正しいなら、ほぼ全員がこれらを即答できるはずである)。

 

(1)に関しては、そもそも古典文法詰め込んで「読解」とか「異文化理解」とかのたまう前に、現代日本語で単一の文章を読ませて行間を読むという名の妄想ゲームをやらせるのではなく、比較対象をしてそれらの違いやなぜそのような違いが生まれるのかを考え、アウトプットさせる訓練をもっとするべきという話につながる。なお、これは前に触れた『ごんぎつね』の誤読の理由を国語力の低下に求めるのは誤りである可能性が高いとか、あるいは『かちかち山』の変化を調べたVtuber月野美兎の配信が教育上極めて有益である、といった記事とも関連する。

 

(2)に関しては、自閉症の方が現代日本語の文章読解について独自の解釈をしていた話に関わるが、これは設問要求・蓋然性・可能性といったちょっと複雑な話に繋がるので(ただし共通前提や共同幻想を考える上では重要)、別の機会にまた述べたい。

 

最後の(3)は、日本語がハイコンテクスト文化であると言われるのにも関わるが、抽象的に言えば、「社会が多様化・複雑化する中で、自分たちが何となく共有していると思っているものは幻想で、実は基本的なレベルからてんでバラバラである。ゆえに、その実態をちゃんと認識する方向で社会を運用していかないと、今後ますますストレスフルな社会になっていくだろう」という話(これは「草下シンヤ、裏社会、構造把握」で述べたこととも連動する)。

 

言い換えれば、今後「暗黙知」や「暗黙の了解」が通用する領域はどんどん減っていくし、ゆえにシステム化・マニュアル化は避けられないわけだが、その時にそもそも共通前提がゴリゴリに崩壊していっていることを正しく認識しておくことと、よくある誤認・誤解のパターンを把握しておけば、期待外れやそれによるコンフリクトの機会は減らせるだろう(まあこの領域がどんどん拡大していくと、「もうAIでよくね?」になるんだけどね)。

 

というわけで、本書は単に小学校における算数教育の問題にとどまらず、教育全般、あるいは社会におけるコミュニケーション論や共同幻想論を考える上でも非常に興味深い内容となっているのでぜひ一読をお勧めしたい(ただ、書店で見つけるのは大変困難で私も丸善本店まで行って買ったので、ネットで注文するのが良いだろう)。

 

以上。


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