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「財務省解体デモ」が起こる必然性:行政官僚制、職業としての政治、社会不安とヘイト拡大

2025-03-02 13:29:48 | 生活
 
 
 
 
 
 
 
 
「財務省解体デモ」と呼ばれる現象が一部で取り沙汰され、「いよいよこれで変わる」とか、あるいは「こんなもので変わりなんかしない」とか言われているが、多少のグラデーションがあるとは言え、前者は陰謀論的なるものの全肯定して100とみなすなら、後者のそれをただひたすら嘲笑するような態度を0とすれば、率直にどちらも不適当なものであるように思われる。
 
 
これは「その間にこそ真実がある」といった事ではなく、陰謀論的見方が広がるにはそれなりの必然性があるため、ただそれを嘲笑しても意味がないし、かと言って単純化された陰謀論的理解が正確な訳でもないから、その言行の先に望ましい変化が訪れるという予測は到底できない、という話だ。まずは前者の必然性について説明を試みたい。
 
 
なぜ財務省(だけに限らないが)にまつわる諸々の巨悪が語られ、そこにそれなりの説得力と拡散力が生まれるかと言えば、まずは表題にも書いたような議院内閣制における行政官僚制の拡大(官僚組織の肥大化)という現象が挙げられる(これに対する行政側の対抗措置が官邸の強化なのだが、そういった要素を説明し出すと話が長くなるのでここでは踏み込まない)。
 
 
政治家(国会議員や内閣など)は選挙によってどんどん変わるが、官僚はそこまで変化のサイクルが早くなく、しかも省庁の大臣は論功行賞に決まるケースも多いから、自然と財務官僚などの影響力が強くなる、という構造的な問題だ(政権トップの力が強くスポイルズシステムを採用するアメリカの大統領制などだと事情が異なるが、ここでは一旦置いておく)。
 
 
次に、マックス・ウェーバーが『職業としての政治』で述べたような、官僚(組織)の性質というものがある。それは既存のシステムの中でいかに現存の権益を維持し続けるか、あえて極論すれば国家・社会を維持しながら、いかに省益に基づいた利益誘導(いわゆる「天下り」や「中抜き」)を行うかを己のレーゾンデートルとするのが官僚(組織)という存在だと言えよう(もちろん、経産省は利権との癒着が比較的少ないと言われるなど、省庁による傾向の問題はあるが)。「官僚って優秀な大学の卒業生が多いはずなのに、何でこんな愚かな間違いをするのか?」と嘲笑されることも少なくないが、その理由の一つは、彼・彼女らの言行が「省益」という原理に基づいているからであり、組織の外側から見れば非合理的で愚昧にすら立ち居振る舞いも、その人たちにとってはしばしば「合理的」なのである(なお、私は官僚の言行を正当化するつもりは一切なく、あくまでこれが説明であることを断っておきたい。この点は、「それが『論理的』なのは、あなたの国でだけだ」という記事で書いたイランの教育で重視される発想法とその背景の説明なども参考になるだろう)。
 
 
ごく勘違いされがちだが、省庁へのヘイトが渦巻いている時、この「国家・社会を維持しながら」という要素が無視されがちなのも問題の一つで、というのも官僚の極めてブラックな働き方はもはやわざわざ指摘する必要もないし、例えば東大や一橋、早慶の学生から人気の高いアクセンチュアやキーエンスといった企業に比べれば、給料は全然安いのである(まあ結局三菱地所などを含めた天下りでプラスマイナスゼロでは?とも言えるが)。そこにはなるほど名誉欲といった要素も無視はできないが、単に己の利益追求とか労働環境の快適さといった点だけで考えれば、別の官僚以外の選択を採った方がよほど合理的と言えるだろう。まあこの点については、官僚や官僚組織を「無私の奉仕者」とみなすような、個人理解としても組織理解としても不正確な幻想は捨てた上で、「権力は腐敗する」という理解の元にチェックアンドバランスが必要、というありふれた結論に帰着する訳だが。
 
 
さて、以上のことからすれば、官僚や官僚組織というものは、そも自らの部署の為に利益誘導を図る行動原理を共有した存在であり、それは日本のような行政官僚制が拡大した政治構造においてはいっそう顕著なものとなる。そして彼らは、基本的に既存のシステムからの変化に抵抗しがちで「チェンジ」を妨げる存在であるため、世界が急速に変化し、かつ経済衰退や共同体解体の中で社会不安が高まっている状況で目の敵にされることはむしろ必然と言える。
 
 
そのような構造的問題に加え、省益に基づく利益誘導の数々が高橋洋一や森永卓郎らに指摘されているわけだから、ヘイトが燎原の炎のように燃え広がっていくことは何ら驚くべきことではないだろう(これはジャニーズ問題や「セクシー田中さん」問題ですでに十分な不信&ヘイトの対象となっていたマスメディアが週刊誌報道によって火だるまになった、先のフジテレビ問題を想起するとわかりやすい。もうすでに発火剤は十分敷き詰められていて、あとは誰が火をつけるかというだけの問題であり、そこで「週刊文春」や「女性セブン」といった固有の存在を叩いてどうにかなると思っているのは、愚の骨頂と言えよう)。
 
 
なお、ここまで述べたところで、改めてウェーバーの『職業としての政治』に戻ると、前述したような官僚・官僚組織に対し、政治家という存在は公益のため血祭りにされる覚悟で社会の掟を踏み越えることを行いうる存在だ、という趣旨のことを述べている。これだけ聞くと何を言っているのかと思われるかもしれないが、この政治家に「D.J.トランプ」という固有名詞を代入してみると、彼の非常識さや破天荒さが、むしろある種の希望として支持される背景の解像度が上がるのではないかと思う(念のため言っておくと、かつてはそのような存在にナチスとかアドルフ・ヒトラーという固有名詞が代入されたこともあったのだが。この辺りはフロムの『自由からの逃走』などを参照するのが有益だろう)。
 
 
つまり、現在の社会構造に対する鬱屈した不満・不信があり、かつてはそれを「チェンジ」する存在としてオバマという男が呼び出された。しかしそれは、確かにオバマケアなどのシステムは創出したものの、大きな社会構造を変えるにはいたらなかった。その結果として登場したのが、D.J.トランプであった。その型破りな言説は多くの人間の眉を潜めさせるものであったが、同時に多くの人間に希望を抱かせるものでもあった。「彼らなら何かを変えてくれるだろう」と(ちなみにこの背景を認識していると、調整役的な石破茂、あるいは彼を首班とする石破政権の支持が低迷している要因も理解しやすくなる)。
 
 
彼は一期でその地位から去ることとなったが、結果として出てきたのはバイデンという存在で、大統領として何かを変えるどころか、そもそもその職を全うできるかどうかすら危うい。結局そんな選択肢しか民主党は用意できないのかということで再度共和党のトランプが登場し、民主党のハリスと対決した訳だが、ここでハリスが頼ったのがセレブ含めたインフルエンサーたちだったというの象徴的だ。それは今の社会に不満・不信を抱く人々にとっては、マイノリティ重視を謳っていたはずの民主党が、むしろ社会の上澄みとつるんで現在のシステムの変革を妨げる側に回ったことを意味した・・・とまあそういう訳で、めでたくトランプ2.0が誕生したのであり、その政権運営や言行がどのようなものであるかは、すでに様々な情報がこれでもかと出てきているので、ここで繰り返す必要もないだろう。
 
 
 
(以下参考動画。東浩紀のものは非常に長いのでお時間ある時にどうぞ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以上、「財務省解体デモ」が起こる必然性の説明を、肥大した官僚組織への不信と体制を変革しそうな政治家の待望という両面から説明してみた。
 
 
ここで、冒頭の「単純化された陰謀論的理解が正確な訳でもないから、その言行の先に望ましい変化が訪れるという予測は到底できない」という部分について説明をするなら、財務省に向けられた陰謀論めいた理解が100%正しい訳では全くないし、またそれゆえその認識で仮に「解体」を行ったところで、望まれる解決には程遠い事態しか生まれないだろう(ちなみに「解体」とは何のことを言っているのかという指摘が複数からされていてそりゃ最もな議論だわと思ったが、どこまで意識しているかはともかく、こういう強いワードで不満を持っている人間が吸引されている側面はあるように思え、一方でそれは五・一五事件の実行者らと同じように、「で、成功したらどうすんの?」「うーん、まあ何とかなるさ(意訳)!」ぐらいの認識しか持っていないことを意味してもいる)。
 
 
しかし一方で、それをただシニカルに批判している面々を見ていると、実に楽観的だなあといささか呆れてもいる(まあいざとなったら自分たちは「逃げ切れる」からというのもあるだろうが)。というのも、先にマスメディアの不信の炎が噴出してフジテレビを火だるまにした一件について述べたが、不信とヘイトのマグマはどんどん溜まり続けている状況である。そして少なくとも日本の経済状況や共同体の状況(いわば精神的安定を供給しうる要素)は衰退・分裂・解体の方面にこそ向かえど、逆は難しいと予測されるので、この傾向はさらに加速していく。
 
 
となれば、先日映画「226」のレビューでも触れたように、血盟団や青年将校という組織だった形でこそないが、原敬暗殺や安田善次郎暗殺のようなローンウルフ型のテロールが連鎖的に起こったとしても、何ら不思議ではない状況が到来しつつあると言えるだろう。
 
 
そんな大げさな・・・と思われる向きはあるだろうが、ならば安倍晋三暗殺とそれへの世間の反応、あるいは岸田暗殺未遂などを想起してみるとよい(ちなみに、岸田の事件における実行者の動機の稚拙さが取り沙汰されているが、原敬暗殺の中岡 艮一も似たり寄ったりのレベルであることを指摘しておきたい)。不信とヘイトが進んでいった先に、どうして高級官僚やその家族が狙われないという保証があるだろうか?大勢の警護に守られている政府要人に比べれば警戒も薄く、さらに狙う方法は車にガソリンといくらでもあるのだ(秋葉原の事件やクリニックでの放火事件・大量死などを例に挙げれば十分だろう)。
 
 
そしてここまで事態が深刻化すると、当人たちの官僚組織への理解がどれほど偏りや誤りを含んだものであっても、当該の組織や社会が反応せざるをえない。それは(現在すでに見られる現象だが)ますます官僚を志望する人々の数を減らしてその運営能力を低下させるだろうし、あるいはそれらが大々的に海外で報道もされるだろうから、外交などはもちろんインバウンドなどの産業にも影響を与えうる。このように、財務省解体デモに見られるような不信とヘイトの噴出が1・2段階過激化すると、「結果として」そのあり方に大きな影響を与えざるを得ない、という意味において、シニカルに笑い飛ばしていれば問題ないくらいに考えている人間たちはかなり危機感が欠落しているなと思う次第である(まあ繰り返し言うが、「いつでも逃げられる人間たち」はそれでいいのだろうけどね)。
 
 
あと10年くらいでこういった事態が現実化する可能性は十分あると個人的には考えているが、それまでに計画的な包摂・ガス抜きを行っていくか(いけるか)どうかという点で、今回の財務省解体デモは一つの先触れとして象徴的な事件となるかもしれないな、と思っている次第である。
 
 
以上。

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