
3回前に宝くじの一等が出た売店で宝くじを購入した人間がおり、前々回一等が出た売店で宝くじを購入した人間がいた。この時どちらかが一等を当てたとして、もう片方を笑うことなどできようか?色々理由を並べ立てたところで、全て後付けに過ぎないのではないか?「結果からの正当化」とはつまりそういうことである。
もうすでに鬼編TIPS「セブンスマートにて。」でオカルト混入の論理的証明を終えてしまったので、他のものについてはどうだったか、代表的な例を考えてみたい(ちなみに画像は「違和感の萌芽」。これこそひぐらしの醍醐味の一つと言える)。
◎警察に検出不可能な薬はあるかないか[暇編以外]
(結論)証明不可
そんな薬が存在しない証拠もないが、かといって存在する論理的な証拠も無い。
いやむしろ、症状から具体例をあれこれ考えていた前者のほうがよほど説得力があったと言える。さらに人によっては、綿編の検死結果を警察のミスの具体例として上げ、その見解が鵜呑みにしていいものではないと論じていた。この二つの前では、検出不可能な薬を本文の記述などから説得力をもって証明することは不可能だったと言っていい。
◎ついてくる足音[鬼編・祟編・目編・罪編]
(結論)証明不可
これだけ取り出してオカルトありだと考えても、「気のせい」「神経過敏」「精神分裂病」などで完全に平行線。
◎二人にだけ聞こえる足踏み[綿編・目編]
(ほぼ)証明不可
存在を冒涜したことに対する「オヤシロさまの怒り」と考えることはできただろうが、そうすると怖がったり、鷹野をたしなめたりしていた詩音にもそれが聞こえていた理由がわからない。また、祭具殿に進入していない富竹にも聞こえた理由を論理的に説明することはほぼ不可能であっただろう。
なるほどこの時点で二人に共通する幻聴が生じており、それが富竹の死と詩音の暴走に繋がると論理的に考えることができた人はいたかもしれない(皮肉ではなしに神と言わざるをえないが)。しかしその場合でも、幻聴が聞こえていたと考えるのは可能だが、足踏みをする存在が現実にいたのかいなかったのかを証明することは不可能であり、この事件に関しては人為で考えるほうがより自然だったと言えるだろう。
※「セブンスマートにて。」での証明から足踏みをしているのが背後の足音の女性と同一の存在と類推するのは可能だが、それが二人にだけ聞こえた理由を論理的に説明するのがやはり非常に難しい。
さて、ここまで書いて改めて「セブンスマートにて。」を考えてみよう。この資料に対しては、「そもそも全てが圭一の妄想に過ぎない」とか「(レベルはともかく)圭一がかなりの疑心暗鬼に陥っているのは明白であり、資料としての信用性に欠ける」といった批判が当時から出ていた。なるほど確かに、そこに表れていることが客観的かどうかは非常に疑わしい。しかしその圭一の精神状態こそが、オカルト的な存在を論理的に証明する必須の前提だったのである。仮に全てが妄想であろうと、いやそうであるがゆえに背後の存在は竜宮レナでなくてはならず、それ以外ではありえないのだ。そこに「りんごを咀嚼するように理解」しなければならない存在がいるとすれば、前の記事で証明したとおりオカルト的な存在しかありえないのである。
このようにして、一見オカルトに繋がる現象を否定する根拠となっていた「異常な精神状態」を逆手に取ることで、「セブンスマートにて。」よりオカルト的存在(およびオカルト要素の混入を)を論理的に証明することができたのであった。以上。
※もしまだ疑問が残るという人のためにダメ押しをしておくと、セブンスマート内で裸足はおかしい。「レナなら靴を履いているはず」という理由から、ますます背後の存在はレナではなく、「人ならぬもの」であったという考えが補強される。
もうすでに鬼編TIPS「セブンスマートにて。」でオカルト混入の論理的証明を終えてしまったので、他のものについてはどうだったか、代表的な例を考えてみたい(ちなみに画像は「違和感の萌芽」。これこそひぐらしの醍醐味の一つと言える)。
◎警察に検出不可能な薬はあるかないか[暇編以外]
(結論)証明不可
そんな薬が存在しない証拠もないが、かといって存在する論理的な証拠も無い。
いやむしろ、症状から具体例をあれこれ考えていた前者のほうがよほど説得力があったと言える。さらに人によっては、綿編の検死結果を警察のミスの具体例として上げ、その見解が鵜呑みにしていいものではないと論じていた。この二つの前では、検出不可能な薬を本文の記述などから説得力をもって証明することは不可能だったと言っていい。
◎ついてくる足音[鬼編・祟編・目編・罪編]
(結論)証明不可
これだけ取り出してオカルトありだと考えても、「気のせい」「神経過敏」「精神分裂病」などで完全に平行線。
◎二人にだけ聞こえる足踏み[綿編・目編]
(ほぼ)証明不可
存在を冒涜したことに対する「オヤシロさまの怒り」と考えることはできただろうが、そうすると怖がったり、鷹野をたしなめたりしていた詩音にもそれが聞こえていた理由がわからない。また、祭具殿に進入していない富竹にも聞こえた理由を論理的に説明することはほぼ不可能であっただろう。
なるほどこの時点で二人に共通する幻聴が生じており、それが富竹の死と詩音の暴走に繋がると論理的に考えることができた人はいたかもしれない(皮肉ではなしに神と言わざるをえないが)。しかしその場合でも、幻聴が聞こえていたと考えるのは可能だが、足踏みをする存在が現実にいたのかいなかったのかを証明することは不可能であり、この事件に関しては人為で考えるほうがより自然だったと言えるだろう。
※「セブンスマートにて。」での証明から足踏みをしているのが背後の足音の女性と同一の存在と類推するのは可能だが、それが二人にだけ聞こえた理由を論理的に説明するのがやはり非常に難しい。
さて、ここまで書いて改めて「セブンスマートにて。」を考えてみよう。この資料に対しては、「そもそも全てが圭一の妄想に過ぎない」とか「(レベルはともかく)圭一がかなりの疑心暗鬼に陥っているのは明白であり、資料としての信用性に欠ける」といった批判が当時から出ていた。なるほど確かに、そこに表れていることが客観的かどうかは非常に疑わしい。しかしその圭一の精神状態こそが、オカルト的な存在を論理的に証明する必須の前提だったのである。仮に全てが妄想であろうと、いやそうであるがゆえに背後の存在は竜宮レナでなくてはならず、それ以外ではありえないのだ。そこに「りんごを咀嚼するように理解」しなければならない存在がいるとすれば、前の記事で証明したとおりオカルト的な存在しかありえないのである。
このようにして、一見オカルトに繋がる現象を否定する根拠となっていた「異常な精神状態」を逆手に取ることで、「セブンスマートにて。」よりオカルト的存在(およびオカルト要素の混入を)を論理的に証明することができたのであった。以上。
※もしまだ疑問が残るという人のためにダメ押しをしておくと、セブンスマート内で裸足はおかしい。「レナなら靴を履いているはず」という理由から、ますます背後の存在はレナではなく、「人ならぬもの」であったという考えが補強される。
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