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ひぐらしのなく頃に:その「奇跡」の価値について

2006-08-27 22:49:04 | ひぐらし
さて、この「ボゲードンの朋友」の記事も900を数えるところまできた。まだ一年にも満たないのにこれほどの分量になったことには、我ながら驚きを感じざるをえないが、まあとりあえず900回記念として、今扱っているひぐらしの中でも重要なテーマ、「奇跡」について考えてみたい。


ひぐらしの「奇跡」について考える場合、作者の竜騎士氏が傾倒していると言われるkey作品(kanonなど)の「奇跡」と比較対照するとわかりやすい。例えばkanonにおける「奇跡」とは、簡単に言えば「信じればかなう」という個人的で、空想的で、さらに言えば宗教的なものであった。ところがひぐらしにおけるそれは、個人の想いによる奇跡ではなくて、皆で団結することそのもの、またそれによって閉塞した事態を打開できるようになったという内容であった。つまり、実際の行動に基づく奇跡であって、kanonのような宗教的救済論と紙一重の「奇跡」とは異なるより現実的なものであったと言える。


このコンセプトは皆編で繰り返し表現されているので、少し例を挙げてみたい。以下は沙都子の件で公由たちと直談判する直前のシーンにおける梨花の思考である。

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奇跡は起こせるもの。
そしてそれを起こすには、みんなの力を結束すること。
運命は打ち破れる。奇跡で打ち破れる。奇跡は結束で生み出せる。
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また例えば、「奇跡はみんなの力を合わせることでしか起きない」「運じゃない。実力で運命を打ち破る」といったものもある。あとは自分で見てもらうとして、この「奇跡」について考えてみたい。


こういった「奇跡」を見て、(こういうものに馴染みのない)プレイヤーは反感を抱くことだろう。そんな人はまず思い出してほしい。あなたが推理している時、誰が犯人か?誰の発言が信用できるか?などと考えなかったかを(というかそれをやらないと推理にならないのだが)。実はその行為が、まさにひぐらしの世界で団結を妨げているのである。つまり、やや意地の悪い言い方をすれば、誰が信用できるかを考え、時には疑心暗鬼になったプレイヤーは圭一や詩音、ことによっては村人とも「同じ穴のむじな」なのであり、彼らを笑う資格はない。そういう謙虚な考えを持てた時、ひぐらし皆編での「奇跡」を冷静に分析する端緒が生まれる。


とはいえ、ひぐらしの「奇跡」に反感を持つ人にとって上の説明ではまだ足りないだろう。そこでもう少し踏み込んで、第一回目の児童相談所への陳情の場面での発言を見てみたい。

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…レナの言うとおりだ。
沙都子の苗字が何かなんて関係ないように、…魅音の
苗字が何かなんて関係ない。

大事なのは、俺たちの仲間が虐待を受けている。
それを助けるために俺たちにできる最大限の努力
をしなければならないってことなんだ。
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単純化して言えば、個人や仲間の尊重という内容なわけだが、これはいかにも大学生や若い社会人が好みそうな内容であるように思える。いやそこまで言わなくとも、それほど違和感なく受け入れられる内容ではないだろうか。だが一方で、より広い範囲(例えば村)での協力・団結は我々にとって今ひとつ馴染みのない感覚であり、そこから違和感が生じるのではないだろうか(少なくとも私はこういった団結に馴染みがない)。これは全く無理からぬことで、今日我々が経験するのはせいぜい学校レベルの団結であり、村といった地域単位での団結にはかなり縁薄くなっているからだ。


ここでひぐらしの「奇跡」について話を戻そう。今述べたように、プレイヤーに違和感を覚えさせる危険性のあるものであった。そしてまた、ひぐらしでは「仲間」というより理解しやすいレベルでの団結と事態の打開も決して不可能ではなかった。実際それは罪編のテーマであったし、また皆編も途中までそのような方向性で進んでいたのだから。だが、ひぐらしはあえて村レベルでの団結をも描写したのだ。


ひぐらしの「奇跡」の価値は、村単位の団結というプレイヤーの違和感・反感を生み出す危険性のある内容を、最終段階で曲げずに提示したことにあると私は思う。思えばひぐらしは、同人にもかかわらず(良くも悪くも)プレイヤーのニーズに応えようという姿勢が見られるゲームだった。つまり、プレイヤーの反応に決して鈍感ではなかったのである。そのひぐらしが、あえてプレイヤーのニーズに反する村単位での団結という内容を表現してみせたのだ(しかもその内容は、沙都子を救う困難さを表現するといった目的や必然性に基づいていた)。


このようにして肝心な部分の主張を曲げなかったこと、そして祟編などを通してその主張に強い説得力を持たせていたこと。この二点がひぐらしの「奇跡」の価値であったと言えるのではないだろうか。

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