
前回は罪恋し編、昼壊し編も含めたひぐらし礼覚書を掲載した。ここからは、賽殺し編に絞って話を展開していきたい。なお、前掲のログにも書いたが、「賽殺し編の意図」及び「総決算としての評価」も参照のこと。
○接木として考えるのではなく、根底から違うと考えたほうがよい。
・「舞台」→(選択)可能性、「懲罰」
・「夢」…鷹野のことは悪い夢→マトリックス、12モンキーズ、ディック作品
・「キャラ」①文脈によっていくらでも変わる②キャラ小説(※)との違い
※性格そのままで舞台だけが違う
単に圭一や鷹野(特定のキャラ)がいないといったレベルではなく、そもそも雛身沢の置かれた状況が本編とは全く違う、という意味合いでこの項目を記した(ちなみに、鷹野の不在は単に舞台設定のためだけではなく、お子様ランチの旗からの連続性で考えるのが妥当だろう)。これは祭囃し編で言及された「舞台」に繋がるが、昼壊し編の原作破壊・メタフィクションとも合わせて「舞台」の可変性を示すための設定でもあろう。なお、「夢」と「ここはいるべき世界ではない」という感覚は上記の作品などに表れているとともに、メタフィクションでよく使われる手法でもある。
○不幸のない、惨劇のない世界なのに、何故物足りない?(by梨花)
1.惨劇を乗り越えてこそ…罪編の圭一の告白とそれへの部活メンバーの反応
2.梨花の独善性(懲罰を受ける必然性の確保?)
3.祭編との関係…罪のない世界、あるいは罪というものの扱い
(そもそも興味を持つからいけない→盥回し編というカウンター)
賽殺し編の内容とそれへの違和の表明は、「罪が無ければそれでいいのか?」という祭囃し編に対する反発・反論を受けてのものだと考えられる(「魅音と小此木が戦う意味」も参照。なお、これについてはいずれ「大団円症候群」でも触れることになるだろう)。なお盥回し編(「ひぐらし祭」のオリジナルシナリオ)の話が出ているのは、それが「そもそも興味を持ったり首を突っ込むからよくないんじゃないか」という意見・疑問に対するカウンターとして(PS2版において)用意されたと考えられるからだ(盥編・暇編+α)。
○今の私は、お日様が西に沈んでも安堵するのかもしれない。
⇔暇編TIPSでの「雨降らねーかな?」発言
○祭具殿におけるカケラの話…要は「神は何でもできるわけじゃない」と言いたいのか?
・カケラ紡ぎという形式がはらむ問題点→始めからやれというツッコミ(※)
・「うみねこ」における魔法の位置づけ(TIPSと作品の演出[ネタバレ]など)
※これは羽入がループ世界を終わらせたくなかったという事情が関係している。「羽入の特性は物語と推理の根源的な破綻」も参照。
○梨花と母親
「母はしつこく、くどい。この性分が大嫌いだった。村の老人はそれを、一人娘が可愛くて仕方ないから、そうするんだろうと笑ったが、私には迷惑なだけだった。愛情の裏返しなんて大きなお世話だ。私に感謝できるのは、自分が準備せずに食事が用意されたことくらいか。」
「梨花ママについて」、「鷹野と梨花ママ、そしてオヤシロさま」「家族に関して」と繋がるが、「うみねこのなく頃に」の楼座との関連も興味深い。先日「エロゲーにおける家族の描写」でkey作品と家族の話に触れたが、ひぐらしの作者がkey作品に影響を受けたことを公言していることも想起したい。なお、最後の「私に~くらいか。」の部分は明らかに余計であり、梨花に対する懲罰的な内容を必然的なものと感じさせるために挿入されたのだろう。
○母は(食い物を)やたら加熱する→潔癖症の象徴か?
○孤独⇔元の世界
(女王感染者という事情があるとはいえ)ちやほやされてきただけでなく、登場人物たちを「駒」と呼ぶ梨花への懲罰的な待遇と考えられる。なお、この懲罰は単に物語内の要請(ループを終わらせる)だけでなく、そのような梨花の言動・態度そのもの、あるいは物語の二次創作を肯定するような(つまり今まで構築した文脈を無視して疑わないような)発言に対する反発を作品に反映させたものと推測される(この解釈については、結論のところで再び述べることになるだろう)。
なお、祭囃し編のスタッフルームの内容からは、慕われる(?)梨花と孤独な鷹野という二項対立を自覚的に描かれたことがわかる。これについては澪尽し編覚書3[ネタバレ注意]も参照のこと。
○接木として考えるのではなく、根底から違うと考えたほうがよい。
・「舞台」→(選択)可能性、「懲罰」
・「夢」…鷹野のことは悪い夢→マトリックス、12モンキーズ、ディック作品
・「キャラ」①文脈によっていくらでも変わる②キャラ小説(※)との違い
※性格そのままで舞台だけが違う
単に圭一や鷹野(特定のキャラ)がいないといったレベルではなく、そもそも雛身沢の置かれた状況が本編とは全く違う、という意味合いでこの項目を記した(ちなみに、鷹野の不在は単に舞台設定のためだけではなく、お子様ランチの旗からの連続性で考えるのが妥当だろう)。これは祭囃し編で言及された「舞台」に繋がるが、昼壊し編の原作破壊・メタフィクションとも合わせて「舞台」の可変性を示すための設定でもあろう。なお、「夢」と「ここはいるべき世界ではない」という感覚は上記の作品などに表れているとともに、メタフィクションでよく使われる手法でもある。
○不幸のない、惨劇のない世界なのに、何故物足りない?(by梨花)
1.惨劇を乗り越えてこそ…罪編の圭一の告白とそれへの部活メンバーの反応
2.梨花の独善性(懲罰を受ける必然性の確保?)
3.祭編との関係…罪のない世界、あるいは罪というものの扱い
(そもそも興味を持つからいけない→盥回し編というカウンター)
賽殺し編の内容とそれへの違和の表明は、「罪が無ければそれでいいのか?」という祭囃し編に対する反発・反論を受けてのものだと考えられる(「魅音と小此木が戦う意味」も参照。なお、これについてはいずれ「大団円症候群」でも触れることになるだろう)。なお盥回し編(「ひぐらし祭」のオリジナルシナリオ)の話が出ているのは、それが「そもそも興味を持ったり首を突っ込むからよくないんじゃないか」という意見・疑問に対するカウンターとして(PS2版において)用意されたと考えられるからだ(盥編・暇編+α)。
○今の私は、お日様が西に沈んでも安堵するのかもしれない。
⇔暇編TIPSでの「雨降らねーかな?」発言
○祭具殿におけるカケラの話…要は「神は何でもできるわけじゃない」と言いたいのか?
・カケラ紡ぎという形式がはらむ問題点→始めからやれというツッコミ(※)
・「うみねこ」における魔法の位置づけ(TIPSと作品の演出[ネタバレ]など)
※これは羽入がループ世界を終わらせたくなかったという事情が関係している。「羽入の特性は物語と推理の根源的な破綻」も参照。
○梨花と母親
「母はしつこく、くどい。この性分が大嫌いだった。村の老人はそれを、一人娘が可愛くて仕方ないから、そうするんだろうと笑ったが、私には迷惑なだけだった。愛情の裏返しなんて大きなお世話だ。私に感謝できるのは、自分が準備せずに食事が用意されたことくらいか。」
「梨花ママについて」、「鷹野と梨花ママ、そしてオヤシロさま」「家族に関して」と繋がるが、「うみねこのなく頃に」の楼座との関連も興味深い。先日「エロゲーにおける家族の描写」でkey作品と家族の話に触れたが、ひぐらしの作者がkey作品に影響を受けたことを公言していることも想起したい。なお、最後の「私に~くらいか。」の部分は明らかに余計であり、梨花に対する懲罰的な内容を必然的なものと感じさせるために挿入されたのだろう。
○母は(食い物を)やたら加熱する→潔癖症の象徴か?
○孤独⇔元の世界
(女王感染者という事情があるとはいえ)ちやほやされてきただけでなく、登場人物たちを「駒」と呼ぶ梨花への懲罰的な待遇と考えられる。なお、この懲罰は単に物語内の要請(ループを終わらせる)だけでなく、そのような梨花の言動・態度そのもの、あるいは物語の二次創作を肯定するような(つまり今まで構築した文脈を無視して疑わないような)発言に対する反発を作品に反映させたものと推測される(この解釈については、結論のところで再び述べることになるだろう)。
なお、祭囃し編のスタッフルームの内容からは、慕われる(?)梨花と孤独な鷹野という二項対立を自覚的に描かれたことがわかる。これについては澪尽し編覚書3[ネタバレ注意]も参照のこと。
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