あずまんとよーいっちゃんの楽しいAI講座:人間性の不透明化は解放か、それとも解体か・・・

2023-12-26 11:26:43 | AI
 
 
 
さーて昨日は二つも記事上げたしまあ今日は休みにすっか・・・ぐらいに思ってたら、おいおいきちまったよ。あずまん×よーいっちゃんの楽しいAI講座第2段がよ!!
 
 
対談の雰囲気的にも、ガチガチな詰めた議論ていうより何とはなしの未来予想図みたいな感じなんで、ここの記事もゆるふわ系でまいりますよと(・∀・)
 
 
 
〇AI画像はもちろん現実ではないが、それだどうした(アッテンボロー並感)!
実はワイも、実在性というかそのキャラクターの背景とか考えてないんよね。素敵なAI画像を何度か紹介してきたけど、それらで奉納演舞をすることは容易だし、例えば「FGO」とか「原神」、「シャニマス」、「通常攻撃が全体攻撃(以下略)」、「ドラクエ11」などなど、ほとんど全く知らないし、プレイしたことも読んだこともないけど、まあ大変にusefulだと感心している次第であるw
 
 
そういう理解の俺からすると、「背景がない」ことをなぜ嘆かねばならないのか理解できないし、背景を理解している方を有難がるという精神性があるとしたら、むしろ私はその精神構造がどのような経緯でもって成立しているのかを分析・解体したいと思う所存である(まあ言うてこういう思考・嗜好はあずまんの古い仕事である『動物化するポストモダン』でまさに言われてたことなんだけどね。で、これは『イデオロギーとユートピア』なんかと同じ視点や・・・なんて言ったらマンハイムに怒られるけどもw)。
 
 
つまりエロスというものは、全てがとは言わないが、極めてスーパーフラット的に消費できるのであり、これからはますますそういう消費の仕方が一般的となり、かつユーティリティー性に富んだものとなっていくのではないカナ(・∀・)
 
 
あるいはもう少し突っ込めば、そうなる・ならないの「スイッチ」はどうなっているのかの研究が認知科学などの分野で進めば、ますます人間性の解体が進むかもしれないし(薬物などで反復可能になる?)、あるいはやはり人間のそういう反応は極めてブラックボックスの多いものとして、人間性の不可知性・不可解さとして再認識されることになるかもしれない。どっちにしろ、俺にとっては興味深いことである。
 
 
なお、実践的問題となりうる点を述べると、成熟社会において、インセルなどのリスクに怯えながら、あくまでこれまで通り自由競争の中で家族を形成することを是とする方向でいくのか、それともそれを断念して、家族形成が難しい人間たちにはオルタナティブを提供することでガス抜きしつつ社会に包摂する(ローンウルフとならないよう牙を抜く)という方針でいくのか、といったことが今後リスクマネージメント上重要な問題となっていくだろう(孤独担当相なるものが創設されたことを想起したい)。
 
 
ちなみにこれはすでに別の記事を用意しているので、年内には掲載する予定だ。
 
 
 
〇グレッグ・イーガン『順列都市』の話
めっちゃ懐かしいな。でもまあ対象の背景とかはどうでも良くて、表層に自動機械のように反応する方が楽だし便利だみたいな発想が広がっていったら、そういう世界を志向するのはむしろ当然だろう。まああとはしばしば取り沙汰される身体性の問題がどう影響するかやろね。もちろんこれも「攻殻機動隊」の義体化のように採用するかは人によりけりってことになるだろうから、それによりますます人間というもののあり方の多様性・不透明性・分断を加速する要因となるのではないか。
 
 
余談だが、こういった世界観は「テクノライズ」や「幸せの理由」など様々な作品にも形を変えて表現されるパターンの一つとなっている。
 
 
 
〇AIとVtuber
はいはい、これもよくある仮想だよね。これについて、カバー社長YAGOO氏のインタビューがおもろいんで載せておく。
 
 
 
 
 
 
なるほど、「対象の夢を叶えたい・応援したいという気持ちがVtuberを支持する熱の源泉になっている」との分析は大変興味深い。まさしく「推す」という言葉の性質をよく理解した表現と言える(まあ反応からして、この手の質問はよく受けてるんだろうけど)。俺もVtuberをよく見るひとりとしてその言わんとするところは頷ける部分があるが、一方でNeuro-samaみたいな事例もあり、ここについてもやっぱり多様化・分断なんじゃないかと予測する。そして今ではまだ平穏だが、AI Vtuberの割合が無視できないレベルで増えた頃には、それぞれが推す対象の性質を巡って「戦争」が起きるかもしれないね(ちなみにAIを扱った「her」という映画では、「今数百人の相手と同時に関係を持っているの」て発言が出てきて、なんか最後突き放される感じで無理やり終わったことなんかを思い出してもええかもしれん。ああいうのをもっと真正面から取り上げざるをえない日はそう遠くはないってことやな)w
 
 
こう書くと大変馬鹿げている事のように思うかもしれないし、実際俺も「そんぐらい上手く棲み分けろや」と考えるが、ただこれが例えば「生身のペットとAIペット」、あるいは「生身のパートナーとAIパートナー」とかになってくると、話題の危険水準は急速に増し、それこそガチの流血沙汰が起こっても驚くに値しない(まあ逆にそこまでリスクの高い案件だからこそ、アメリカ社会でお互いの宗教について語ることが極めてセンシティブなのと同じように、紳士協定として意図的に議論から排除されてむしろVtuberくらい距離感があるものの方がよほど荒れるなんてこともあるかもしれない)
 
 
 
〇型にハマっていく人間(像)??
この辺はこれまで観念されていた人間像が更改されてくってことでOKなんじゃね?て気もするが、ただまああずまんは『訂正する力』って新書を書き、言ってみればそこで処女作『存在論的、郵便的』でも扱った「誤配」の可能性などをよりわかりやすく取り上げていることから、この点にこだわりたいのは理解できる(誤配とイコールではないが、儒風烏亭らでんについて触れた「越境的な知」も重要なルートの一つである)。
 
 
誤配の可能性ってのは対象との偶発的な出会いに変化の可能性を見出す(例:amazonではなく本屋にあえて行くことの効能)ってことなのだが、これと対照的なものがいわゆる「確定記述の束」だ(まあ人間で言えば、「全ては属性に還元できる」って発想やね)。で、現実はと言うと、どんどん後者に寄ってきている。理由の一つはおそらく、世界の複雑性が加速している結果、もはや人間にはそれが処理しきれなくなって、一種の防衛本能的に過剰単純化を行わざるをえなくなっているからだろうと思う。
 
 
すなわち、そのような環境を生み出すエコーチェンバー現象、あるいはそのようにして生まれた志向性を指す「ファスト教養」「ファスト映画」「キャラ的人間関係」などを想起したいところだ(映画や小説などの作品を、自らの世界をリフレーミングするツールではなく、ひたすら安全なサプリメントとして消費するような態度、あるいはそういう志向目当て=市場原理に基づいて作られたウェルメイドな作品群の存在を指摘しておきたい)。
 
 
というわけで、世界はどんどんあずまんの懸念する方向に向かっていくとは思うが、一方で彼の発想自体は、『科学革命の構造』などに引き付けていった時に、わかりやすいポパー的な単線的成長モデルが一般には観念されるが、実際にはファイヤアーベント的なアドホックでカオスな形で世界は変化しうるといった言説に繋げた時、豊かな可能性を残しており興味深い、とも思うのである。
 
 
 
 
〇研究している分野に影響を受ける
まあこれはありますわな。デリダも、どこまでそう意識していたかは己の不勉強のため自信がないが、西洋哲学が無意識の前提としているプラトン的なものとアリストテレス的なものの二項思考を暴き出してそこを再構築することを目指したわけで、いわばメタ認知の中デコンストラクションをやっていったわけだから、こういう意識はとても重要と言える。
 
 
で、あずまんはセム的一神教の要素を無意識に土台にしており、よーいっちゃんは仏教的要素を色濃く持って思考しているという話になっているのだが、ここで自分の話をすれば、完全に後者の発想に近い。
 
 
これは「『一切皆苦』について」なんかの記事にも通じることだが、要は宇宙の中で数多ある星の一つの一構成要素に過ぎない人間ごときが、世界をコントロール可能なものだと思い込んでるのがちゃんちゃらおかしい、てところから私の理解はスタートしている(まあ全知全能の神が世界を作った云々という創世記からスタートし、その世界観の中でそれを超克するように科学が発達してきた西欧的あり方をモデルに近代世界が形成されてきた以上、前述のような発想が前景化しやすいのは無理からぬことなのだけど)。まあその淵源となったのは「私を縛る『私』という名の檻」で書いたことで、要するに「世界には何らかの統一的な体系から成り立っている」という理解自体が、ただの信条に過ぎないという話である(宗教も科学もイデオロギーも、なべて世界を体系的に理解しようとする欲望の表れであるが、しかし世界がそのように説明可能であるという根拠は、どこにもないのである。ちなみにこの誇大妄想のような特徴については、ハラリの『サピエンス全史』もあわせて読むことを推奨したい)。
 
 
このようにして、それが規範からの解放を促進して個人的にはリバタリアンとなり、また世界理解はカオスとなったわけだが、一方でじゃあそれなら社会を営むにあたってリバタリアンやカオス的理解は有効かと言えば、歴史的にどう考えても否であるというのが自分の中の結論だった。
 
 
そのため、社会レベルではあくまで共生の作法としてのリベラリズムと(一方で人間という存在を一般的に信じていないので)リバタリアンパターナリズムを併用するコントロール形態をモデルケースと考えるようになった。なお、後者については先ほどのインセル問題などとあわせて、平等思想・格差拡大・承認欲求などを扱う中でまた取り上げるだろう。ちなみに、今書いたことをより簡潔に言えば、(ネオプラグマティズムの流れをくむ)リチャード・ローティのリベラルアイロニズムという説明になるわけだが。
 
 
ちなみにそういう訳だから、ワイが社会における包摂や弱者救済の話などを書くのは、人道(「義」)に基づくわけでは必ずしもない。あえてドライな表現をすれば、そこには歴史的生成過程やその意義といった「理」、あるいはそれらを理解せずに放言・放置している連中が大勢いるという「疑」、またあるいはそんな人々の言行で社会が蹂躙され、自分の権益が損なわれちゃ叶わんわという「利」からきているのである(あり体に言えば、「情けは人の為ならず」ってことですわ)。ちなみにそれだからこそ、目の前に困っている人がいるならリスクとか考えずに助けるのが当たり前やろと信じて疑わない人々は、さすがにナイーブすぎやしませんかねと「AED、訴訟リスク、善きサマリア人の法」で書いたわけである(自分個人の信条としてはご随意にって話だが、それを他人も共有して当然だというのは単なる幻想である)。
 
 
 
〇人間に興味がない
ワシもじゃ!wてか大学時代に「人間に興味がない」と言われた件はずっと前に書きましたなあ。いやはや全くその通りというか、正確に言うと「深くコミットする気がない」が正しい。というのも、観察対象としては興味があるし、また「興味がない」からといって、他者と積極的にコンフリクトを起こしたいとは全く思わないからである。
 
 
これはつまり「己の欲せざるところ他人に施すなかれ」ってヤツで、ゆえに共生の作法に注意を払う一方で、「他人に迷惑をかけない限りは何をやってもよい」というミル的な発想の仕方もしているのである。
 
 
まあその結果として、さっきも書いたように個人ではリバタリアン、世界はカオス、しかし社会的にはリベラリズム(+リバタリアンパターナリズム)というツイストみてーな思考態度になるわけですなw

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1 コメント

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神はサイコロ遊びをする (アダムスミスと川の流れ)
2024-03-19 22:13:39
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムは人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。このメガトレンドどこか多神教ななつかしさがある。
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