『イデオロギーとユートピア』 毒書会覚書4

2023-06-23 11:58:00 | 本関係
客観の揺らぎを理論化した存在としてはヒュームやカントなどが挙げられるが、それだけだと単なる「哲学」の領域の問題に過ぎないように思われるだろう。しかしそこには、より幅広い歴史的潮流の影響が見られる。
 
 
それが即ち、ルネサンス以来の理性重視と普遍主義(ダビデ象の黄金比を想起)、そしてそれに反発する感情重視と個別主義の対立。前者の潮流は啓蒙思想として単なる認識論の領域に留まらず現実の政治にも影響を与え、それはフランス革命のような形で結実した。
 
 
このフランス革命の精神は、ナポレオンの対外侵略によってヨーロッパ各地へ伝播することになる。そこでは思想としての魅力が知識人通して民衆の心を捉え、フランスの侵略による危機という状況も相まってナショナリズムが惹起されることになった(フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」)。
 
 
なお、注意する必要があるのは、ここで伝わったor参照されたのが思想にとどまらず、国民国家運営のシステムであり、それが一般民衆に「国民」意識を植えつけ、そのエートスに決定的な影響を与えた点である。たとえばナポレオン軍を支えたのは一つの要素は国民軍のロイヤリティだが、これは一朝一夕でできるものではなく、国民意識を植えつけるための教育・訓練が必要であった→この構造を示したのがフーコーやアンダーソン。というわけで、ティルジットの雪辱に燃えるプロイセンではシュタインやハルデンベルクらによる政治改革、シャルンホルストやグナイゼナウらによる軍制改革などが行われた(なおこの点は、日本が明治維新において富国強兵と殖産興業を掲げ、共通語の制定や学制の発布を行ったことを想起したい)。
 
 
つまり、「フランス革命の精神」と言うと非常に抽象的・限定的に思えるかもしれないが、その影響は具体的・包括的なものとして近代社会の行く方向を決定づけたとも言えるのである(これら近代社会が産業革命の結果独占資本主義と帝国主義の道を採り、列強として植民地を拡大していった結果、それに対する国々は、好むと好まざるとにかかわらずその影響を受けざるをえず、国をまとめ上げて組織的に抵抗するためには、しばしば国民国家とそれによる近代化という仕組みを採用することを迫られたのである。なお、このような状況の対抗軸として登場したのが帝国主義を批判し、ロシア革命でソ連を成立させた共産主義だったことにも注意を喚起したい→例えばヴェトナムは日本をモデルにした近代化を目指し東遊運動などを行ったが、日仏協約で日本が弾圧側に回ったこともありそれが挫折した後、インドシナ共産党が生まれてそれをホー・チ・ミンが指導していった)。
 
 
そして一度撒かれた種は容易には消え去ることはなく、後に反革命のウィーン体制に対する抵抗運動(ブルシェンシャフト運動やピエモンテ立憲運動、スペイン立憲革命など)、1830年のフランス七月革命とそれに付随する諸々の運動(オランダからのベルギー独立、ロシアに支配されたワルシャワでの蜂起)、1848年のフランス二月革命とそれに付随する諸々の運動(ドイツ三月革命とフランクフルト国民会議開催、ハンガリー独立など)となり、それがウィーン体制の崩壊=諸国民の春として、西欧では近代民主主義社会が成立していった(一方でドイツやオーストリア、ロシア、イタリアといった東欧・南欧地域は旧体制が残存し、それを上からの改革で克服していく流れとなる。この上からの改革は日本の明治維新を想起すればわかりやすい)。
 
 
さて、このように記述していくと、いかにも理性崇拝と普遍主義が世界に全面化していったように見えるかもしれない(まさにヘーゲル的な世界精神の現出!という感じで)。しかし、事態はそう単純な話ではない。
 
 
その典型が、普遍主義に反発して固有性、あるいは理性重視に対して感情重視を訴えたドイツを中心とするロマン主義であろう(シューベルトの「魔王」やグリム兄弟の童話収集について、なぜそのような題材が取り上げられたのかを考えれば、このロマン主義の本質がわかるというものだ)。この用語は高校世界史ではヒュームやカントのように文化史の領域にしか出てこないため、あたかも芸術領域に限定された潮流に思われるかもしれないがそうではない(なお、あくまで芸術の領域に限定するなら、普遍主義・理性重視は新古典主義としてダヴィドやアングルの作品、固有性・感情重視はドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を例示すれば十分だろう)。
 
 
例えば経済領域においては、19世紀前半においては先んじて産業革命を達成したイギリス(大英帝国)の強勢が目立ったわけだが、アダム・スミス的な古典派経済学=自由放任主義に基づき自由貿易を主張しながら安くて質の高い量産品を売りつけてくる彼らに対し、現在のドイツにあたる地域は、歴史学派経済学、すなわちそれぞれの地域には固有の事情があるのだから、その固有性に基づいた政策・経済活動が必要であり、イギリスのスタイルを押し付けるなとして自国の産業を守るための保護貿易を理論化したのである。そしてそれは単なる理論にとどまらず、リストの提唱したドイツ関税同盟が1834年に成立し、後の北ドイツ連邦→ドイツ帝国の成立にも影響を与えていく(なお、そのような経済政策を採ったドイツは20世紀初頭にはイギリスを抜き、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となっており、これが第一次世界大戦にドイツが踏み切った要因の一つをなしている)。
 
 
あるいは、サヴィニーの歴史法学ような、自然法(natural law=本質的法)を元にしたフランス民法典に反発し、民族固有の法体系を重視する動きもあった。これはゲルマン法とローマ法のどちらを根拠とすべきか対立・分裂を経ながら、ドイツ民法典として結実していった。
 
 
以上のように、客観の揺らぎは、単に認識論という抽象的な領域にとどまらず、普遍主義と民族主義の対立として実社会の構築に大きな影響を与えていった。さらに言えば、後者から後期ロマン主義の潮流が生まれ、スペンサーの社会進化論なども取り込みながら、ナチスの優生思想や民族社会主義の土台ともなっていったのである。
 
 
このような点を踏まえれば、マンハイムが客観の無効性と間主観性のことをくり返し取り上げた上で、イデオロギーの由来(それがイデオロギーの一般的性質であれ、ある特定のイデオロギーであれ)を分析することの重要性を述べているのは時代上必然的なことだったと言えるだろう。

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