南都周遊記 初日:言語習得や異文化理解のあれやこれや

2024-01-30 17:06:27 | 畿内・近畿旅行

 

 

 

二月堂の階段を上る・・・というかやっぱり既視感がすごいなあ。出典はゲゲゲの鬼太郎あたりかな?

 

 

 

 

奈良の町が一望できる感じ。

 

絶景かな絶景かな。

 

 

 

 

ちなみにお堂はこちら。

 

 

 

 

二階というのもあるだろうが、小じんまりしててかわいい(*´ω`*)

 

しかし何だろうな、この東大寺の時から感じる「懐かしさ」は?中学時代の奈良旅行の記憶は皆無なんで、そこを思い出している感じでは全くない。

 

あるいは全体的に彩色がほとんどなく、木材と建築の特性が前面に出ている関係で、古い時代の様式がダイレクトに自分の感覚に訴えかけてくることが影響しているんだろうか?

 

 

 

 

疑問に答えが出ないまま二月堂を後にする時、なぜか思い出したのはPolly Bartonの「Fifty Sounds」という本だった。

 

元々これが印象に残っているのは、言語学習に関してデュアリンゴ(duolingo)を取り上げてその有効性と問題点の双方に言及しており、前者を「ファスト教養」、後者を「教養」と捉える(あるいはその境目を理解する)上で参考になるという理由だった(前者を問題として捉える傾向は、例えば「TOEIC不要論」などを想起するとわかりやすいかと思う。ちなみに自分はduolingoを使ったことがなく、Gawr GuraKroniiといったVtuberの配信で見たことがあるくらいだ)。

 

筆者も書いているように、そのどちらかが絶対的正義ということではなく、それぞれの要素が無視できず、ゆえにどちらかに偏りすぎることが問題なんだよなと思ったものだ。

 

ゆえに例えば、「教養」を特権化して「ファスト教養」を批判していれば「教養」を護持できるかのように認識するのはナイーブの極みと言えるし、一方で利便性や合理性をただ追求して「ファスト教養」的なもののみを追求するなら、合目的性という箱庭から一歩外に出た瞬間、自分のやってきたことの矮小さに打ちのめされる経験を免れ得ないだろうと思う。というか、その手の人間こそ、AIにとって最も代替が容易な存在と言えるかもしれない。

 

 

 

 

で、duolingo的なる言語習得法の問題点について述べた後、筆者は自分の経験を踏まえて外国人の言語習得(この場合は日本語)の困難さについて、エピソードを交えながら説明しているのだが、私はその部分を読んでいて、「それは母語とする人間にも(いやむしろそれだからこそ)通じる話だよな」と思った(これは英語の多様性やら、日本語の方言とその由来などについて時折書いてきたのとつながる)。

 

例えば以下の動画。

 

 

 

 

興味深いのは、「でびでび・でびる」の話す方言について、少なくない数の人が「エセ」というコメントをしていることだ。もちろん、その言葉の強度は様々だろう。すなわち、「いつもは標準語でしゃべっているのにわざとか?」「戌亥とこの方言に引っ張られたのか?」といったぐらいの軽口のニュアンスもあれば、実際に違和感があってそう書き込んでいる人もいると思われる。

 

私は言語学者ではないので、ここで厳密な検証までしようとは思わないが、しかし同時に多くのコメントで「自分のいる地域の~弁に近い」といった書き込みも見られる点には注意を喚起したい。とするならば、日本語・関西弁を母語とする人が、まさにそれゆえに自分の認知する体系をこそ真だと思い込み、ゆえにそれへ調べもせず違和を表明したのではないか。

 

つまり、その人の理解する「関西弁」の世界が、ただその一部に過ぎなかった(その多様性やファジーさを理解していなかった)という話で、それはあたかも、牢獄から見た空を、世界全体だと思い込むようなものだと言えるだろう(もちろん中には、関西弁ネイティブでない人々が、自分の知っているのと何か違う!というにわか知識で書いたものもあるだろうが。そう言えば、英語で母音の前のthe=「ジ」と発音というのを叩きこまれた結果、そうでないと絶対ダメだと思い込む人たちがネイティブの「誤用」に突っ込むなんて話もあったなあ・・・)。

 

あるいはもしかすると自分も、類似の牢獄に囚われていたのかもしれない。すなわち、「奈良時代とは~を特徴とする」とか、日本の古代建築は~のようなものである」という浅い知識でそれを理解したつもりになっていたが、それは単に上澄みだけで、その実物が自分にどんなインパクトを与えうるのかということに、全く無頓着になったいたのかもしれない。

 

・・・とか何とか。

 

いや、これこそ現地に来た甲斐があったってもんだぜ!常に世界は開かれているが、奈良という地に足を運んだ私は、日本文化や奈良時代というものを、これまでとは全く違った形で感得する契機を得たってわけだ。

 

うーむ、こいつは楽しみになってきたぜ(・∀・)

 

ほいじゃ次の目的地に向かうかな。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 終電後に駆け引きするマッチ... | トップ | 「学校であった怖い話」はい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

畿内・近畿旅行」カテゴリの最新記事