南都周遊記 三日目:法隆寺境内を歩く。あるいは神仏習合と神仏分離について

2024-06-05 16:25:57 | 畿内・近畿旅行

 

 

さてと、そいじゃ久々の法隆寺にお邪魔するとしますかね。

 

 

 

 

 

うひょ~広いな。外観からわかってたことではあるけど、中に入って見るとよりいっそうその印象が強まるわ。

 

ともあれ先に進みましょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

これが写真とかでもよく見る五重塔か。

 

 

 

 

もう少し引いてみるとこんな感じ。

 

中学時代に家族旅行で来た時は、図説とかで見る五重塔の周辺にこれだけ広い空間があるのか…という印象をもった記憶があるが、何せそれ以外ほとんど何も覚えてない。

 

まあ「小並感」ならぬ「中並感」だが、しかしよく考えてみたら「家族で旅行した時~に感動した」という記憶が全くないので、自分が一人旅の方を好むのは、もしかするとそういう事情があるのかもしれない。

 

何というか一人の方が体験することや吟味することに集中できる一方、周りに人がいるとそちらにもリソースを割かないといけないので、印象やその背景が深化しないまま終わってしまう嫌いがあるのかね?

 

まあブログの記事数も7000に及ぼうとしているが、それでも今考えている内容の10分の1程度しか反映できていないわけで、ある意味常に何かが思考に流れ込んできている感じではあるので、そういう状態の人間だとあんまし集団行動は向かないのかもしれませんな(・∀・)

 

 

 

 

おお、あまり整備されていない門もあるんやな。こういうのが「裂け目」みたいに存在しているのはおもしろい。

 

法隆寺はよく知られているように日本で最古の部類に属する寺院だが、それでもやはり明治の神仏分離・廃仏毀釈の影響を受け、財政難から宝物の一部を皇室に収めて資金を確保した、という背景がある…というのを思い出した。

 

このことから神仏習合の状況が日本社会の常態だったわけでもないし、また神仏分離の影響が単に思想面に止まらなかったことは明記しておくべきだろう(というか、「九段の母」でも触れたように、庶民の感覚としてその分離がどこまで理解・体得されていたかはまた別で考えるべきことのように思える)。

 

まあそもそも、仏教伝来の時点で物部氏VS蘇我氏という対立が起こったという意味でそれがすんなり受け入れられたわけではないし(もちろんそこには廃仏毀釈と同様に権力闘争という側面が色濃くある)、また「鎮護国家」とも言われるように、古代においては長らく政府の独占状態でもあった(この点、民間の土木事業で有名な行基も、政府と一時は対立関係にあった)。

 

そして神仏習合については、神宮寺とその普及が一つの目安になるが、それには仏教伝来から400年の時が必要だったわけで、「習合は一日にしてならず」(何じゃそりゃw)だったと言える。

 

まあ今で言えば、江戸時代初期から始まったものがようやく令和の現在において一般化したと考えれば、いかに長い年月を要したかは実感しやすいのではないか。

 

こういった歴史的ダイナミズム(動的変化)を無視して、あたかも最初からその状態が完成しているかのように考えるのは、典型的な錯誤の一形態と言えるだろう(例えばヨーロッパの人々は昔から一神教的な世界を持っていたという語りをしたら、その瞬間に古代ギリシアやローマ、あるいは古代ゲルマン人の実態を無視するという不見識を露呈するようなものだ)。

 

 

 

 

まあそういう風に歴史的視点・評価は時代の影響もかなり受けているものだから(これは近いうちに織田信長の件で取り上げる予定だが)、「聖徳太子」なる人物の再考が進むとか、坂本龍馬の歴史的役割が再考されるというのも、ある意味必然的なことではあろう(ここで重要なのは、それがきちんとした史料批判に基づいて行われているか否か、という点である。それを欠いた「新説」は単なる曲学阿世に過ぎず、ただ耳目を引くための陰謀論的なものへと容易に堕することだろう)。

 

なんてことを思いつつ、法隆寺の境内を後にした。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント251:相対的剝奪... | トップ | 古典教育の必要性とは?:原典... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

畿内・近畿旅行」カテゴリの最新記事