沙耶の唄:エンディングの「失敗」

2011-06-27 18:03:58 | 沙耶の唄

前回は少し視点を変えて、「沙耶の唄」以外のニトロプラスの作品でも善悪の境界線の曖昧さ、あるいは人間とその他の存在の境界線の曖昧さが共通して描かれている、という話をした。ここからは方向性を元に戻し、作者が意図していた「沙耶=異物」図式が伝わらなかった主要因の一つ、エンディングの「失敗」について再掲載していく。今回は始めなので、そもそもどんな状況で私が沙耶の唄をプレイし、エンディングを見たのか、という評価の前提について説明することにしたい(「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言~」と類似のアプローチ)。なお、原文で触れている郁紀と青海の必然的な対立に絡む問題は、「ひぐらし~」の続編でも触れることになるだろう。

 

<はじめに>
これまで、「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」から「沙耶の唄と交換可能性」[リンク先消滅?]にかけて、本編の特徴とインタビューから読み取れる作者の意図に大きな齟齬があること、そして後者は時代状況にそぐわないものであることを論じてきた。より詳しく言えば、ゲーム本編からは郁紀と耕司の側の交換可能性(境界線の曖昧さ)という特徴が読み取れる一方で、虚淵玄(作者)はそれらを二項対立的に考えており、それゆえ沙耶の側を異物として扱うのが当然であると見なしているのであった(そしてそのような二項対立的思考とその一般化を、イーガンや攻殻の例を出しながら批判したわけだ)。しかし、そのような齟齬が生まれた原因を明確にするのは難しいので、「さよならを教えて」のレビュー(?)を書くときに長岡建蔵の発言などと合わせて分析するつもりだ。


代わりにここでは、交換可能性を印象付ける上で決定的な役割を果たしたと思われるエンド1を取り上げたい(郁紀が精神病院に収容されるエンディング)。表題で「失敗」と評価するのはこのエンドについてだが、それを成功でも失敗でもなくあえて「失敗」と呼ぶのは、郁紀と耕司の側が大して違わないという交換可能性が主題ならこのエンディングは非常に重要な役割を果たす一方で、作者の求める「沙耶=異物」という二項対立的な視点の場合はむしろそれを挫折させるような内容になっているからである。ではその「失敗」がどのようなものであるか、詳しく述べていくことにしよう。


ところで、作者の意図を軸に据えるなら今述べた交換可能性が誤読の一種であることは言うまでもないが、この誤読が沙耶の唄への「恋愛もの」という評価と必ずしも同根とは限らないという点にも注意を払う必要がある。ゆえに、エンド1の特徴についてのみ述べるのではなく、私がいかにして沙耶の唄に交換可能性という特徴を見なすに到ったかにも言及し、その誤読の必然性と他の評価との差異(or共通点)を読者に問おうと思う(さすがに膨大な量の個々のレビューと比較対象する時間はないので)。なお、読者の中にはそれこそ捏造(笑)を疑う人もいると想定されるので、できる限り具体的に書いていくことにしたい。


<プレイ前の状況>
沙耶の唄をプレイしたのは2005年の7月から8月にかけてだが、その時期はゲームに関して言うならおそらく今までで最も充実していた。具体的には、2005年4月でおよそ二か月のめり込んでいた「ひぐらしのなく頃に」にいったん区切りをつけ、5,6月には「君が望む永遠」DVD版や“flutter of birds”などの傑作を立て続けにプレイし、次なる傑作を探し求めている状況だった。そんな折、友人の弟から沙耶の唄のことを聞き、ニトロプラスの作品をプレイしたことがなかったので、いくつかのレビューを見た上で購入した(その際に、不可抗力でだが、カニバリズムが出てくることまで知った)。なお、8月初頭には内定の決まった会社の事前研修が群馬県太田市で四泊五日かけて行われることになっていたが、これがどのような影響を及ぼしたかは後述する。


<プレイ時の状況①>
プレイ時に沙耶の唄に対してどのような印象を持っていたかはっきりと覚えてはないのだが、青海が激怒するイベント(この後彼女は匂坂家を訪ね、捕食される)を見た時の自分の反応は大きなヒントとなりうる。さてイベントシーンを見る限りでは、


(a)郁紀の場合
後遺症によって沙耶以外のものが肉塊に見える。しかも瑶が「私を頼ってほしい」と郁紀に申し出る前日の夜、沙耶が郁紀にとっていかにかけがえのない存在かが濃密に描かれたばかりである。さらには、告白のシーンでダメ押しとばかりに瑶が肉塊と重ねあわされる…これらを総合すれば郁紀が彼女の申し出を受け入れることなど絶対にありえず、むしろ強烈な嫌悪感によって手ひどく断るのは必然的である。そう、彼が突然グロ肉フェチにでもならない限りは。


(b)青海の場合
そもそも郁紀の後遺症を知らないわけだが、それは彼が症状を(事情があって)隠ぺいしているためであり、彼女の無知や無関心が原因とは言えない。さらに瑶とも付き合いが長いわけだから、消極的な彼女が郁紀への申し出にどれほどの勇気をつぎ込んだかも理解していると考えられる。とすれば、それを残酷な言動で踏みにじった郁紀に青海が激怒するのはむしろ自然である。


という具合にどちらか一方が正しいというわけではなく、双方に必然性があるものとして描かれている。プレイ当時はそのことを非常に感心した記憶があるのだが、それは逆に言えば、どちらかの側に偏った描写がなされると私が予測していたことを意味する(より正確には、所詮そういう描き方しかできないと踏んでいた。耕司たちの側に立って郁紀という「風景の狂気」を描くのか、郁紀の側に立って彼に対する周囲の無理解を描くのかはともかくとしても)。ゆえに、あくまで交換可能性と二項対立という分け方をするなら、この時点での私は作者の側にいたと言っていいだろう。


<プレイ時の状況②>
さて、そのような二項対立的視点を予測していたため両論併記的に新鮮さを感じたのだが、そうはいうものの青海の一件を経てすぐに両者が等価だと考えたわけではなかった。プレイ時に明確に意識していたわけではないが、エンド1に対する私の反応からそのことが推測できる。以下それを具体的に述べていくが、まずはエンド1を見るに到った経緯を詳しく説明しておきたい。


沙耶の唄は7月に始めたが、プレイ時間はそれほどかからないと聞いていたので8月はじめの研修までには余裕で終わると思っていた。しかし、7月下旬に聖蹟桜ヶ丘にある先輩の家の近くでバーベキューをやった際、多摩川に飛び込んでメガネを紛失するという愚行をやらかし、7月31日に慌てて新調するということがあった。そのゴタゴタでプレイが一時中断していたため、研修前に何とか終わらせようと、7/31の昼から急ピッチで進めていたと記憶している。そんな折、突然「取り戻したい」「もういらない」という選択肢が出てきた驚いた。あまりに選択肢が出ないので一本道なのだろうと考えていたからだ。とはいえ、本筋から外れるであろう「取り戻したい」がバッドエンドだということは直感的にわかった(このあたりは、エロゲーよりもむしろ「学校であった怖い話」を数十周やったことなどが大きく影響していると思われる)。あとはその結論から再構成し、「沙耶に元に戻してもらった郁紀がその姿に恐れおののいて彼女を拒絶し、激昂した彼女が郁紀を殺す」という展開を予測(郁紀が人間のビジュアルにこだわり続けていることからすれば、この推論に無理はないだろう)。直前で沙耶の孤独の大きさを理解したように思える描写(画像参照)を入れることで、いわゆる「上げて落とす」構造なのだろうと考え、改めて「元に戻りたい」がバッドエンド(あるいはデッドエンドと表記すべきか)だと確信した。


ところで、その時点でもう深夜近くになっており、次の日の昼には準備をして「りょうもう号」で太田市に旅立つ予定になっていた(しかもメガネの紛失などがあって旅の準備は全くしていなかった)。ゆえに、「もういらない」を選んで話を先に進め、最後まで行きつかずにモヤモヤを抱えたまま旅立つよりも、デッドエンドだろうが一度終わらせておく方がスッキリするだろうと思い、あえて「取り戻したい」を選んだのだった……


<小結>
さて、ここで重要なのは、私が「取り戻したい」をデッドエンドと推測したことにある。というのもこの推測は、沙耶の理解とは結局のところ特殊な状況の元に成り立つ仮初のものでしかなく、ゆえにそれがなくなればあっさりと破綻するものだと私が考えていたことを意味するからだ。つまり、いくら理解できそうに思えても、そしていくら理解したように思えても、それは全くのところ幻想でしかなく、つまり沙耶はあくまで異物なのだと、私は認識していたのであった(繰り返しになるが、正確に言えばそういう描き方しかできないだろうと踏んでいた)。


作者は沙耶の側を明らかな異物(正確には、それ以外ではありえない存在)と考えた上で、沙耶の開花するエンド3に関して、「作り手とプレイヤーが共犯関係を築ける」(設定資料集99P)だとか「選んだお客さんに責任転嫁できる」(同109P)などと発言しているが、そこには、「プレイヤーはエンド3を確信犯的に選んでいるはずだ」という作者の認識が伺える。実際にどの程度のプレイヤーが作者の期待通りに振舞ったか私は寡聞にして知らない。しかし少なくとも、沙耶を異物と(して描くであろうと)考えるがゆえにエンド1をバッドエンド(デッドエンド)と推測し、しかもそれを確信犯的に選ぶという私の行為は、まさに作者が期待する通りの反応だったと言えるのではないだろうか。


では、そのような態度がいかにして現在の交換可能性という見方に変化したのか?エンド1の分析を通して次回見ていくことにしよう。


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