日常~「なの」の初登校について~

2012-06-11 18:49:25 | レビュー系

※この記事は、「メタ支店」における「記事B」に該当する。

 

以前「鞠也に首ったけ」という記事の中で、「空気系」の作品はノイズの排除がなされている点である種の欺瞞が潜んでいると述べた(ついでに言えば、それに対しては癒される・癒されないといったことが評価の焦点になりやすいため、そういう世界やそれへの志向がいかなる問題を持っているのかという点は問題視されない)。それを踏まえ、「日常、この百合的なるもの?」という記事で「日常」においては何組かについてカップリング(といってもすでに付き合っているものはないのだが)の描写がなされ、また異性(男女関係)の排除された世界=百合的関係性をある種のネタとして取り込んでいることを指摘した。

 

アニメ版のOPである「カタオモイ」は、ある意味このような視点への応答とみなすこともできる(まあ百合ネタがなぜアソコに?という疑問はあるのだけど)。しかし私が一番おもしろいと感じたのは、「なの」の初登校とそこでの出来事に他ならない。というのもこれが極めて計算された配置であるからだ。

 

まず確認しておきたいが、原作においてなのは最初から学校に通っており、理由は不明ながらすでにそうなっている=所与の状況(そういうもの)なのである。それゆえ、確かになのがロボであることをクラスメートに隠そうとする話は描かれるものの、唖然とはしているが誰も深くは気にしないし、そもそも荒唐無稽なシチュエーションの一環として、読者はズレを笑いつつなのの狼狽ぶりを微笑ましく受け入れる・・・そんな受け取られ方をしているのではないかと推察する。

 

しかし周知のように、アニメ版は全く違う。東雲研究所にいて買い物などには出たりするものの、学校には行っていないのである。私はこの差異がかなり引っかかっていた。戸籍があるのかどうかも怪しいロボが学校にいるのはやっぱりおかしいだろう、というリアリズムに基づいた判断が働いたのか?しかしそれにしては、他で原作に比べリアリズムにこだわった描写をしている様子は見受けられなかったので、ずっと疑問だったのだ。しかしそれが、DVD8巻の「なの」の初登校を見て全てがクリアになった。

 

具体的に言うと、その回はOPが「カタオモイ」から「ゆーじょー」へと切り替えになり、本編ではなのの初登校がゆっことみおの焼き鯖論争と組み合わせられ、EDでは「翼をください」が流れたのであったが、それは以下のことを意味していることが理解できた。

(1)
東雲研究所というノスタルジックな家屋から外界へ。なのの初登校前の話で「平和」の掛け軸があるのは極めて象徴的だが、そこはノイズ・異物=他者の排除された箱庭・テーマパークである(二層洗濯機などがあからさまに強調されていることにも注意を喚起したい)。そこから、他者のいる学校へと通うという図式が読み取れる。

(2)
「カタオモイ」の時、ゆっこ・みお・麻衣は決してはかせ・なのと交わらない(ハートの反対側を走っている)。また「カタオモイ」自体が、歌詞も含めてある種の「一方通行」を象徴している。しかし、「ゆーじょー」は演出からも明らかなように、なのとゆっこが(まさに)交錯している。

(3)
初登校したなのは、自分がロボであるのを隠そうとし、またゆっこ達にもまだ上手く打ち解けられないでいる(=自分が受け入れてもらえるか自信がない)。原作と違い学校にいるのが所与の状況でない以上、彼女の不安は極めて自然なもののように思われる(まあ買い物に出た時に、みおの姉にいじられたりはしてるんだけどw)。そして、原作では全く無関係に描かれたみおとゆっこのケンカ(=コンフリクト・ノイズ)が始まるのだが、なのはただハラハラするばかりだ(ノイズへの不慣れの描写が主眼と予想されるが、彼女がはかせに甘いことも想起したい。さてそれは常に「優しさ」となるや否や・・・)。しかし、彼女たちが仲直りするのを見て、衝突もまた日常の一幕あるいは友情の一部だと知り、帰ってはかせに「友情ってすごい!」と興奮気味に語るのであった。

(4)
翼をください」はノイズの排除された閉鎖空間から外界への旅立ちへの意思を示す。

 

これらは、自分がノイズ・異物として排除されるかもしれないと怯えていた存在が、それも「日常=多様なる者たちの営み」の一部として受け入れられると自己肯定し(その後実際に受け入れられ)ていく過程を描いたものと言えるだろう(それは別の角度から見れば、スティグマが単なるディファレンスとされ、dis-criminationが無効化されていく[乗り越えられていく]様でもある)。

 

以上を踏まえての結論。
繰り返しになるが、私は「空気系」と呼ばれる作品群が抱える、ノイズの排除という問題(欺瞞)を何度か指摘してきた。なるほど確かに、「日常」で描かれる「外界」もまたノイズの排除された空間だから、下手をすれば(それを意識しているという)エクスキューズに利用されるだけの可能性もある。しかしそれでも、以上の問題を自覚しつつ、原作の話を巧みに組み合わせてノイズ・異物の包摂を描いた点は、高く評価できると思うのである。


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