こんなご時世だからこそ、日本の雇用が、あるいは日本というものがどのようなシステムで動いているのかを考えましょうやということで、日本型雇用の特性や由来についての小熊英二の発表を掲載したい(ちなみにこの発表の元になった本は、毒書会の後に丸の内オアゾの丸善で購入している)。
この動画を見て興味深かったことの一つは、私たちの日本社会についてのイメージは、多分に思い込みに影響されているということだ。これは日本人の無宗教もそうだが、私たちは日本に特有とされるものについて考える時、それが非常に長期間存在し、とても本質的なものだと考えがちである。
しかし実際は、終身雇用もその歴史は新しく限定的な範囲でのみ採用されたのであり、「日本全体を終身雇用と年功序列が覆ったために一億総中流社会が到来した」というのは幻想にすぎないということだ。
こういった幻想はそこかしこに存在する。例えば日本人の勤勉さや時間への厳密さがそれだ。時間厳守は近代化が始まった明治時代でさえ工場に時間通りに集まらない労働者たちに苦慮した記録が残っているが(それまで農作業にそんなの必要がなかったことを思えば当然だ)、それが今日言われるような形になったのは、戦中の総力戦体制においてだと言われる。
特に今日では「江戸しぐさ」を一例とするように実態を無視した「思い出騙り」が蔓延してもいるので、こういった実態の把握とそれに基づく分析は非常に重要だと言えるだろう(これは今に対する不満・不安を元に日本がダメになったから犯罪が増えている、といったデータを無視した言説などにも当てはまる。管賀江留郎の『戦前の少年犯罪』ではないが、少しでもちゃんと調べれば、それがただの思い込みに過ぎないことは容易にわかるはずなのだが)。
ちなみに私が小熊英二の本を最初に読んだのは『癒しのナショナリズムー草の根保守運動の実証研究―』(2003年)だったと記憶している。高校時代タイムリーに『ゴーマニズム宣言』やその戦争論を読み、「新しい教科書を作る会」の活動などを知っていたが、こういう状況であるならば内容の正しさではなくイデオロギーに影響されて勉強・研究の邪魔だと思った私は、高校2年の時に日本史ではなく世界史を選択したことをよく覚えている(もちろん実際は世界史だろうと大同小異なのだが、日本史よりは、そして日本においては制約が少ないと考えた次第だ)。
こういう経験をしてきた私にとって、あの時見た現象は一体何だったのか、という視点を大学生になって振り返れたのは興味深いことだった。小熊英二のその他の著作として『<民主>と<愛国>』や『平成史』などがあるが、この機会にまた読み返したいものである。
・・・という流れで「間違いだらけの日本無宗教論」の続き(それは実は『癒しのナショナリズム』や雇用の件とも関わると私は考えている)を書こうと思ったが、今クソ会社のアドホックな対応のせいでどうなるか全くわからんくなったわい・・・と書きつつこの稿を終えたい。
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