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神の全能性と悪の存在、あるいは赦されざる者

2017-11-01 12:25:27 | 宗教分析

 

「歴史とは偉人たちの伝記だ」とヴォルテールが喝破したのはもう250年も前のことだが、今日ではアナール学派を持ち出すまでもなく、歴史を構成するのが君主や卓越した文化人たちのみでないことはほぼ自明になりつつあるのではないだろうか(まあ急速にネットが普及していったため、今ではそういう断り書きをすること自体ナンセンスになりつつあるようにも思うが)。 一方で、「哲学」は何かしら偉そうなことを言った人物の羅列であり、「宗教」は教団や社会からの逸脱であるとするような認識は、少なくとも日本においてはあまり変化していないように思われる(というか後者は戦後日本に特徴的と言ってよいかもしれない)。

 

しかしながら、この動画でも紹介・説明されるように、そもそも宗教とは根源的な問いと結びついた思考体系のことであり、抽象的な思想体系だけを指すのでもなければ、教団だけを指すのでもない。そのことを理解するのに最も適切な作品の一つが「灰羽連盟」である。かつて何度となくこの作品について記事を書いたことがあるが、「この世界の謎の解明ではなく、自らの存在理由の不安の中で、身近な人の不在と痕跡を想いながら、いかにその中を生きるか」を描き出した本作こそ、宗教的エートスを最も正しく表現した傑作の一つと言っても過言ではない。

 

では、宗教=福音かと言えば、もちろんそんな単純な話ではないだろう。それは宗教による差別抑圧もそうなのだが、そういうわかりやすい視点だけでなく、「そもそも宗教的な救いは常に救いたりえるのか」という見方をした時、たとえば韓国映画の「シークレット・サンシャイン」は極めて重い問いを視聴者に突き付ける。なるほど「赦し」は救いを招来するかもしれない。しかし、その赦しを与える神は、そもそも一体何の資格があってその者を「赦す」のか(「博愛」が実際には誰も愛さないことになってしまう可能性)。そして、それほどの大罪を犯した者でも赦されるというのなら、「神が創ったこの世界の秩序」とやらがそもそも疑わしく、それを守る・守らないとか、逸脱したことで赦す・赦されないともまた、全く馬鹿げたことのようにしか感じられない・・・この作品の中では、そのような言語化できない主人公の怒りがひしひしと伝わってくる(「人間は大したことのない存在である」という考えを持ちながら、さりとて「それゆえ超越者に我が身を委ねるべし」という態度にも人間の恣意性と欺瞞を感ぜられてコミットする気にならない私としては、非常によく理解できる部分である。ただ、前者のような認識ゆえに悪人正機説的な理屈を理解はできる)。この問いを理論化すると神義論(=そもそも神は全能なのに、なぜ悪が存在するのか)になるのだが、ではこの映画はそれを問い続ける作品なのかと言えば、そうではないように思える。というのも、ソン=ガンホ演じる俗っぽい人物が、主人公に冷たくされながらも、陰に日向に彼女に寄り添い続ける存在(地名との重なりとは違う意味での「シークレットサンシャイン」)として、ある意味で彼女のことを最も強く救おうとして描かれているからである。果たして根源的な悲しみや理不尽、自罰意識の中で、生きる意味を喪った人物にとり、真の救いとは何なのだろうか?遠大な宗教理論や宗教教団ではなく、実は身近に自分救いがある(かもしれない)ということ・・・「シークレットサンシャイン」を見ながら私は考え込むとともに、「灰羽連盟」で受けた感銘を改めて反芻することになった。

 

もちろん、それで明瞭な答えが出るというわけではない。しかしながら、こういった問いを持ち、それと向き合っていくことが死生観とともに宗教の原初的な姿とは言えるのではないか、そのように思う次第である。

 

さて、このタイミングでなぜこういったテーマで書いたかと言うと、最近繰り返し書いている宗教関連の記事南直哉の教え、あるいは現在準備中の死刑制度とグリーフケアの記事などとも繋がるからである(死刑について被害者の権利を主張する向きがあるが、それほど被害者の感情的回復が重要だと思うなら、まずはそのケアをするシステムをこそ最優先に問題とすべきはずだが、管見の限りそのような論じ方は見られず、ゆえにただ溜飲を下げたい欲求をそれらしい言説で糊塗しているだけのように見える。ちなみに私は凶悪犯罪者についてはむしろ自分が死刑を執行したい欲求にかられるが、このような志向に独善性のスパイスを少し加えると、植松聖が生まれる)。

 

こういう具合に、最近の諸々の記事を貫く軸となるテーマだったので、本来書く予定だったキリスト教関連の題材の代わりとした次第である。ちなみにこの今回の動画では死生観や他の生物との差異についても言及されていたので、その意味では埋葬地の上に花が添えられている描写のあった「ブレードランナー2049」人工知能とつなげることもできるし、あるいは円環構造的世界観・死生観を描いた「メッセージ」他者との邂逅によって自らが相対化される経験につなげることもできるだろう。ともあれ、そうやって俯瞰することにつながる話題である点を、改めて強調しておきたい。

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