「ファスト教養」と実利主義:日本の帝國大学とボローニャ大学の比較から

2022-11-27 16:14:14 | 感想など

 

 

前に「ファスト教養」毒書会準備として小林秀雄・岡潔『人間の建設』に触れた際、日本の大学は近代化のための官僚養成機構的側面が強いことに触れた(だから実学的傾向が色濃いのはある種の必然である。ただし当時の日本政府の生存戦略からしてこれを一概に悪とみなすのはバランスを欠いた評価だろうし、京大のようにそういう性質が比較的薄い大学も存在はしている)。それでは、日本がモデルにした欧米の大学(まあこの括りも極めて雑駁だが)はどのようなものであったのか?という視点で非常に対照的な事例として、今回ボローニャ大学を取り上げてみた。

 

大学に対するイメージとしては、まず「箱」があって、そこに希望学生が集まってくるというものだろうが、そもそも中世ヨーロッパの大学は今でいうキャンパスどころか建物すら所有しておらず、ゆえに移動の自由があった。そしてボローニャ大学は、その成り立ちが知識を求める学生たちのギルド(組合)であり、彼らが金を出し合って教師を雇い入れるという構造になっていたのである(これに関する話として、英語でいわゆる「単科大学」を指すcollegeと、「同僚」を指すフランス語由来のcolleageの類似性は参考になるだろう)。

 

こういう性質がゆえに自主的・自発的であるのはもちろん、政府・権力からの自治性という側面も強く持つこととなった。もう少し説明すると、大半が外国から来た学生たちがギルドを形成したのは市民権を得るためでもあり、市民権を得た以上は市民としての義務に服することが求められた点には注意を要するのだが、一方で外国人という出自と移動が容易という性質から、政府の決定に不服な場合は大挙して別の街に移動することで政治権力に抗議・抵抗するという行動も行っていた(例えばボローニャ大ならヴィチェンツァ、アレッツォ、パドゥアといった街に移動したケースが見られる)。

 

今でも例えば早稲田大などは5万の学生がいて一つの街を形成できるレベルの学生を抱えているが、それが外食産業や印刷業、不動産業など地域経済に大きく影響を与えていることは容易に想像できるところだろう(ちなみに今のボローニャ大は10万の学生を抱えているそうな)。まして当時は動画でも強調されているように本(教科書)が極めて高価だったこともあり大学で学べるのは富裕層だったため学生たちが存在する経済的効果は大きく、彼らがごっそりいなくなることはボローニャにとって死活問題となった(ボローニャは中世イタリアによくあるコムーネなので、その重要度は我々が国や県・市といったレベルで考えるよりも遥かに高い)。

 

くり返しになるが、こういった性質ゆえに、ボローニャ大学は非常に自発的・自治的な性質を持っていたのであり、これを日本の帝國大学の成り立ちと比較すれば思い半ばに過ぎるというものだろう。いわゆる「学問の自由」の背景はもちろん、また4年を超えて何年も大学にいるのが普通にあるのは、そもそも学びたい内容をマスターしないと意味がなく、ゆえに進級や卒業が難しいという性質にもつながっていると考えられる(そういう場所であるがゆえに、30歳からでも大学に入りなおすことが普通に行われる)。

 

ちなみに、先ほど「欧米の大学」という括りが雑駁すぎると書いたが、例えばボローニャ大のような学生ギルド以外にも、アベラールやトマス・アクィナスで有名なパリ大学のように教師たちのギルドがあって学習を募集するケースがあったし、皇帝カール4世により建設されたフスなどで有名なプラハ大学のような事例もある。さりながら、パリ大学もまたボローニャ大と同じでパリ市との対立から授業の停止とパリからの退去を宣言し、実際にそこを去ってプランタジネット朝イングランドの求めに応じてオックスフォードにて講義を行うようになったが、これがオックスフォード大の起源である(なお、後にパリ市との和解が成立したため教師の多くはパリに戻った)。また、オックスフォードでも類似の事件が起こり、そこから教師陣の一部が移動しケンブリッジ大が成立したのであった(このような成立過程ゆえ、パリ・オックスフォード・ケンブリッジとも中世においては特に神学で有名であった)。その意味においては、教師ギルドから発生したパリ大学とその派生大学群においても、その自立性・自治性はそれなりに担保されていたと理解することができるだろう。

 

さらに言えば、オックスフォード大の教授ウィクリフがシスマの最中カトリック教会の腐敗を糾弾し、またその影響を受けたプラハ大教授のフスが同じくカトリック教会を批判したが、1414年のコンスタンツ公会議において両者とも異端とされ、前者は死体を暴かれ著書とともに火あぶり(という表現でいいのか?)、後者は生きながらに焼かれることとなった話は有名である。もちろん彼らがオックスフォード大やプラハ大全てを代表しているとは言えないが、それでも権力に対する批判性を(教師ギルドであれ皇帝建設の大学であれ)そこに見て取ることは容易ではあるだろう。

 

閑話休題。
一方日本の場合、「入るのが困難で、卒業は楽」とよく言われるが、官僚養成機構としてどんどん人を輩出しなければならない性質上長々とそこに居座られても困るのと、また時代や分野にもよるだろうが、大卒や~大卒という「資格授与」の意味合いが強く、あくまで通過点となるため今では「就職予備校」と揶揄されたりもするわけである(この点はメンバーシップ型という日本の会社との連動性と合わせて考えると興味深い。ただ、こういう性質は日本と欧米だけを比較してもあまり意味がなく、日本と韓国・中国といった東アジア圏を比べたりもする必要がある。すると、受験の大変さ=入ることが難しい点は共通しているとか、大学進学率が高く、もはやただ大学に行っただけでは安定した職に就くことすら難しい韓国の状況から、ある種「東アジアの大学=科挙的存在」と位置付けることができるかもしれない。まあ日本の場合科挙はほとんど実施されておらず、近代化や戦後復興の要請の中で類似する仕組み[優秀な人材育成と階層移動の構造]が結果的に出来上がってきた、と評するのが正しいだろうが)。

 

ともあれ、以上のような大学の成り立ちを持つ日本社会において、「教養」と呼ばれるものをビジネスのためにだけ手早く摂取するという「ファスト教養」の志向が強くなるのはむしろ必定であろう(ちなみにだが「ファスト教養」的発想自体は、『グレイト・ギャッツビー』に絡めて成金と上流社会の話でも触れたように、洋の東西や時代を問わずどこにでも存在することを付言しておく)。

 

まして、文系が顕著だが、企業の選考では大学で何をやったかよりも、メンバーシップ型であるがゆえ企業風土に馴染めるかが見られる(大学での活動はあくまで企業での仕事への取り組み姿勢を予測するための指標として見られるに過ぎない)傾向が強く、かつ「ドロップアウト」に対して非常に冷淡な社会であることを思えば、大学での学びの姿勢も余計な「ノイズ」を排除した「こなす」類のものになることは、よほど意識が高くない限り不可避だと言えるのではないだろうか。

 

日本の帝國大学的な仕組みはフォード型が世を席捲した前世紀まで上手くいっていたけれども、今では世界のシステム変化に適応できず、あちこち齟齬を生み出している(まあ正しいかどうかはともかく、今の中国や韓国のように科挙的≒帝國大学的仕組みを徹底して生存競争をさせるというベクトルもあるにはあるが、その先はいつ蹴落とされるかわからぬ「ヘル」そのものではないかと私は思う)。そしてそういう状況であれば、既存のシステム(より正しくはそれが機能するという共同幻想)には期待しないし、それを妄信してる奴らはバカだという姿勢から周囲を「出し抜く」ことを求める「ファスト教養」志向の人々が少なからず出てくるのは必然だと言えるのである(その必然性を無視してただ批判だけしても無意味だ)。

 

以上。

 

 

【補足:私が「教養」の語りを一般に敷衍する行為に懐疑的な理由】

紹介した動画の中では、当時の本が全て人の手による筆写のため極めて高価だったことが触れられている(だから金持ちしか大学には行けない)。これを踏まえれば、グーテンベルクの活版印刷がまさに本の広がりという点で革命的なものであったことは容易に理解できるし、その革新性を「銀河系」と評したマクルーハンの言葉は言いえて妙である(この先にアンダーソンが出版ナショナリズムと呼んだものが立ち現れてくる。ここでドイツの独立を求めるブルシェンシャフト運動が聖書のドイツ語訳を行ったルター生誕300年の1817年に高揚したことを想起したい)。

 

またこのような書物の広がりをカーネギーの設立した数多くの公共図書館と結びつけて、その公共性・公益性という点に着目するのも重要だろう。そして今では、インターネット上で様々な歴史史料や論文が無料で見られるようなコモンズが広がっており、また玉石混交ではあるものの、無料で見れる解説系の動画というのも数多く存在しているのである(あるいは、前にも紹介したように、「ただよび」など受験勉強用の無料動画も数多くある)。

 

さて、このような公共性・公益性という観点に着目した時、私は「教養」の重要性を一般的なものとして主張する人々が、その源泉として存在してきた教育・書物の階層性・階級性を一体どれだけ意識しているのかを疑問視している(だから「教養」は文化人のポジショントークに過ぎないのではないかと思うし、あるいはマンハイムの知識社会学とかの話をしたわけだ。ちなみに「『教養』、道楽、『上級国民』」という記事を書いた理由もそれによる)。

 

今ここでそれを詳しく掘り下げることはしないが、仮にその視点がなくて何が悪いと言うのならば、そこには公益性という視点が欠落しているし、公益性が欠落したポジショントークを無自覚に垂れ流すことは「教養」ある行為なんですか?とも聞いてみたいところだ。

 

あるいはこの意見に対し、「そんなものは本人の努力次第だ」という反論も出るだろう。私はそれを全て否定する気はない。しかしながら、その主張をするときにも、現代日本人の学習姿勢などがどのように形作られているのか、というデータに基づいた考察(「『身の丈』から抜けられない教育格差を放置してはいけない」を参照)がなければ、ただの私的な語りを超えるものではない=公益性に乏しいと述べつつ、この稿を終えたい。


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