無知なる子は不安ゆえに羊水の中へ戻らんとす

2016-01-09 12:20:47 | 感想など

 

「実感」というヤツは、しっくりくるようでいてその実これほど危険なものはない。ましてや、今日のように複雑化した社会であればなおさらである。しかも、いざ「客観的」たらんとして情報を集める段になると、今度は発信する側の立場・偏りといった問題を横に置くことができない。このような点において、ある数字が増えた・減ったという事実一つをとっても、その統計の取り方や社会的背景を考えねば簡単に我々は都合のよいように(もしくは図らずして)ミスリードされてしまうのである。

 

といった視点の重要性や具体例を考える上で、犯罪に関わる発表や報道、あるいはそれに対する社会の認知のあり方ほど適した題材はない。詳しくは掲載した放送をお聞きいただきたいが、以前取り上げた著作としては

 

があるが、戦前では今なら一つだけで「この社会がおかしくなっている」と言われそうな事件が頻繁に起こり、しかもそれらが普通に(ここで言う「普通」とは、今ではそのレベルの事件にもかかわらず扱いがえてして小さいことが多いという意味だ)扱われている。しかも、この中で著者も言っているように、それらの事件は国会図書館に足を運べば誰でもアクセスできるレベルの情報であって、なぜ学者やジャーナリスト、政治家といった人々までもがあらぬ妄言を吐いているのか不思議である。つまるところそれは、無知と思い込み・レッテル貼りによる(このような錯誤については、ALWAYSなどを例に指摘した通りだ)。このような無知と決めつけこそは、まさに歴史に対する冒涜であるとともに、たとえば「今の社会は乱れている」「昔は良かった」的な論調でものを語るその人が、ただの「思い出語り」をしているだけなのかどうかの試金石ともなろう(ところで、旧きを知ろうとせぬ人間に、「愛国者」を名乗る資格があるのだろうか?また、もしも対象を「愛」しているというのなら、かつての「恥部」さえも引き受ける態度を持とうという努力をすべきなのではないか。そうでなければ、ただ「大いなるもの」に自分を投影して精神安定のダシに使っているだけに過ぎない、という批判を免れないだろう)。

 

思うに、「実感」を信じないであるとか歴史を知るというのは、自分を信用できないとか(その反動で?)知識を詰め込むことでは全くない。それは、自分が「論理的」だと思っていたことが実はただのローカルルールにすぎない知ったり、社会的背景という変数によっていくらでも変わりうることを理解するという意味で、ある種の謙虚さを身に着ける営為とするべきである(カーなども言っているように、そもそも「客観的な歴史」なるものは措定しえない、といった話にもつながってくるが、これはこれで独り歩きすると都合のよい解釈への引きこもり、開き直りを惹起してしまい難しいところだ)。

 

そんなことを久しぶりに考えた動画だった。

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