都内の紅葉も終盤に差し掛かり、今年のこのコースはドンピシャです。
北の丸スクエアの裏
中目黒に集合し、中目黒→東横線→渋谷→半蔵門線→九段下と電車を乗り継ぎウォーキングをスタートします。毎年、北の丸スクエアのエントランス前をお借りしてストレッチをしていました。休日でエントランスの自動ドアがあかないので、人通りがなくちょうどよかったのです。今年は警備員の方がいたので一声かけてストレッチを行ったのですが、「裏にちょうど良い場所がありますよ」とアドバイスをいただきました。来年からこちらでストレッチすることにします。
グランドパレス
もつ煮丼屋
竹書房
あんこう屋
へぎそば
ハライコ
九段下から飯田橋へ向かう目白通りには興味をひく飲食店があります。ハライコはドイツフェスティバルなどに出店していますが、ドイツのソーセージメーカーのようです。ホームページから引用します。
インビスハライコ情報
ドイツでは、ファーストフードでもカフェでもない「新感覚の集いの場」を“インビス”と言い、広く親しまれています。ハンブルグ発スタイリッシュなモダンスタイルの空間 で、伝統のドイツの味をご堪能いただけます。 ドイツの街角をそのままに、本場のソーセージとビール、そして美味しいコーヒーが貴方を待っています。
前を通るたびに「ホットドックをつまみにビールを飲みたい」と思うのですが、歩き始めてすぐの場所にあるので、そのうち忘れちゃうんですよね。
小石川運動場
日中友好会館
小石川後楽園
小石川運動場は文京区の運動場で東京ドームとミズノが指定管理者になっているようです。奥に見えている“KAJIMA ROAD”のビルがある場所に私が通っていた高校がありました。日中友好会館は当時中華風の建物でしたが、建替えられたようです。後楽園庭園は当時と同じです。
ひこうき雲
骨董屋の看板?
武蔵野台地の東端
東京都道434号牛込小石川線
文京区も目黒区同様に坂が多いと言われますが、武蔵野台地の東端で、牛天神下交差点あたりは神田川が削った谷になっています。安藤坂など結構な標高差があると思います。牛天神には足腰にご利益がある猿田彦が祀られており、ウォーキングクラブとしては訪れなければいけないと思いながら、武蔵野台地へ上る階段を見るだけでいつも素通りしてしまいます。
伝通院
春日通りの街路樹
竹早高校
茗台中学校
伝通院は徳川家康の生母お大の方のお墓がある徳川ゆかりのお寺で、安藤坂を上ると大きな山門が目を引きます。サザンカの街路樹は珍しいですね。花が落ちて大変だろうと思っていたら、竹早小学校のPTAの方々が掃除をされていました。学芸大学付属竹早高校かと思っていたら、都立竹早高等学校でした。Wikipediaから引用します。
概観
1899年(明治32年)創立の「東京府立第二高等女学校」を前身とする。創立当初から1945年(昭和20年)まで、校長・教職員が東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)と兼務しており、学校行事も合同で実施されていた。現在も校地を学芸大附属幼稚園竹早園舎・附属竹早小・附属竹早中と隣接している(沿革参照)。
戦前は高等女子教育の名門としてその名を馳せ、「浅草の第一(白鴎)、小石川の第二(竹早)、麻布の第三(駒場)」と並び称されていた。
標準服はあるが、服装は自由(私服で登校可能)。「自主自律」を校風とする。卒業生はおよそ2万人。
教育
東京都から進学指導推進校に指定されており、入試に於いては都の共通問題を使用している。
1学年定員が6学級と他校と比較して小規模であることや、帰国子女の受け入れを行い、二年次からは自由選択科目として第二外国語(フランス語、ドイツ語)もある。土曜自習室である「竹早塾」では、現役OBによる補習などの学習支援が行われている。
文京区立茗台中学校は高台にそびえたつ姿が目を引きます。文京区あたりは戦後広い土地を確保できなかったのかもしれません。開校が昭和35年となっているので、マンション開発か何かで子供の数が増えたのでしょうか。
播磨坂
高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836~1888) 旧居跡
小石川五丁目1
下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟 の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
泥舟は槍術の大家山岡静山 の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇 らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜 に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟 の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛 に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会
平成26年3月
小石川植物園入り口付近のイチョウ
コダチダリア(木立ダリア)
イロハモミジ
巨木並木
シマサルスベリ
黄葉
樅の木の松ぼっくり?
小石川植物園日本庭園
ナンキンハゼ
水面に映った紅葉
ヒマラヤスギ?
ムラサキシキブ
メタセコイア
小石川植物園は見頃を迎えていました。かさかさと音を立てて枯葉の上を歩ける。都内にこんな場所があるなんて幸せです。
この日はダブリナーズ新宿店が23周年でパイントグラス500円でした。都営三田線白山駅まで歩き、神保町で都営新宿線に乗り換え新宿三丁目に行こうか。白山駅まで650m、乗り換え時間を含め24分。丸ノ内線茗荷谷駅まで歩き、新宿三丁目に行こうか。茗荷谷駅まで1050m、乗車時間28分。新宿三丁目駅での利便性を考えて丸ノ内線を利用しました。茗荷谷から池袋経由で副都心線という選択肢もあったようです。
ダブリナーズでピザをつまみにキルケニーを飲んで、楽しい時間を過ごしました。ビール半額以下で、コーラより安い!
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
北の丸スクエアの裏
中目黒に集合し、中目黒→東横線→渋谷→半蔵門線→九段下と電車を乗り継ぎウォーキングをスタートします。毎年、北の丸スクエアのエントランス前をお借りしてストレッチをしていました。休日でエントランスの自動ドアがあかないので、人通りがなくちょうどよかったのです。今年は警備員の方がいたので一声かけてストレッチを行ったのですが、「裏にちょうど良い場所がありますよ」とアドバイスをいただきました。来年からこちらでストレッチすることにします。
グランドパレス
もつ煮丼屋
竹書房
あんこう屋
へぎそば
ハライコ
九段下から飯田橋へ向かう目白通りには興味をひく飲食店があります。ハライコはドイツフェスティバルなどに出店していますが、ドイツのソーセージメーカーのようです。ホームページから引用します。
インビスハライコ情報
ドイツでは、ファーストフードでもカフェでもない「新感覚の集いの場」を“インビス”と言い、広く親しまれています。ハンブルグ発スタイリッシュなモダンスタイルの空間 で、伝統のドイツの味をご堪能いただけます。 ドイツの街角をそのままに、本場のソーセージとビール、そして美味しいコーヒーが貴方を待っています。
前を通るたびに「ホットドックをつまみにビールを飲みたい」と思うのですが、歩き始めてすぐの場所にあるので、そのうち忘れちゃうんですよね。
小石川運動場
日中友好会館
小石川後楽園
小石川運動場は文京区の運動場で東京ドームとミズノが指定管理者になっているようです。奥に見えている“KAJIMA ROAD”のビルがある場所に私が通っていた高校がありました。日中友好会館は当時中華風の建物でしたが、建替えられたようです。後楽園庭園は当時と同じです。
ひこうき雲
骨董屋の看板?
武蔵野台地の東端
東京都道434号牛込小石川線
文京区も目黒区同様に坂が多いと言われますが、武蔵野台地の東端で、牛天神下交差点あたりは神田川が削った谷になっています。安藤坂など結構な標高差があると思います。牛天神には足腰にご利益がある猿田彦が祀られており、ウォーキングクラブとしては訪れなければいけないと思いながら、武蔵野台地へ上る階段を見るだけでいつも素通りしてしまいます。
伝通院
春日通りの街路樹
竹早高校
茗台中学校
伝通院は徳川家康の生母お大の方のお墓がある徳川ゆかりのお寺で、安藤坂を上ると大きな山門が目を引きます。サザンカの街路樹は珍しいですね。花が落ちて大変だろうと思っていたら、竹早小学校のPTAの方々が掃除をされていました。学芸大学付属竹早高校かと思っていたら、都立竹早高等学校でした。Wikipediaから引用します。
概観
1899年(明治32年)創立の「東京府立第二高等女学校」を前身とする。創立当初から1945年(昭和20年)まで、校長・教職員が東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)と兼務しており、学校行事も合同で実施されていた。現在も校地を学芸大附属幼稚園竹早園舎・附属竹早小・附属竹早中と隣接している(沿革参照)。
戦前は高等女子教育の名門としてその名を馳せ、「浅草の第一(白鴎)、小石川の第二(竹早)、麻布の第三(駒場)」と並び称されていた。
標準服はあるが、服装は自由(私服で登校可能)。「自主自律」を校風とする。卒業生はおよそ2万人。
教育
東京都から進学指導推進校に指定されており、入試に於いては都の共通問題を使用している。
1学年定員が6学級と他校と比較して小規模であることや、帰国子女の受け入れを行い、二年次からは自由選択科目として第二外国語(フランス語、ドイツ語)もある。土曜自習室である「竹早塾」では、現役OBによる補習などの学習支援が行われている。
文京区立茗台中学校は高台にそびえたつ姿が目を引きます。文京区あたりは戦後広い土地を確保できなかったのかもしれません。開校が昭和35年となっているので、マンション開発か何かで子供の数が増えたのでしょうか。
播磨坂
高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836~1888) 旧居跡
小石川五丁目1
下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟 の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
泥舟は槍術の大家山岡静山 の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇 らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜 に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟 の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛 に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会
平成26年3月
小石川植物園入り口付近のイチョウ
コダチダリア(木立ダリア)
イロハモミジ
巨木並木
シマサルスベリ
黄葉
樅の木の松ぼっくり?
小石川植物園日本庭園
ナンキンハゼ
水面に映った紅葉
ヒマラヤスギ?
ムラサキシキブ
メタセコイア
小石川植物園は見頃を迎えていました。かさかさと音を立てて枯葉の上を歩ける。都内にこんな場所があるなんて幸せです。
この日はダブリナーズ新宿店が23周年でパイントグラス500円でした。都営三田線白山駅まで歩き、神保町で都営新宿線に乗り換え新宿三丁目に行こうか。白山駅まで650m、乗り換え時間を含め24分。丸ノ内線茗荷谷駅まで歩き、新宿三丁目に行こうか。茗荷谷駅まで1050m、乗車時間28分。新宿三丁目駅での利便性を考えて丸ノ内線を利用しました。茗荷谷から池袋経由で副都心線という選択肢もあったようです。
ダブリナーズでピザをつまみにキルケニーを飲んで、楽しい時間を過ごしました。ビール半額以下で、コーラより安い!
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール