目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】仙川コース大蔵・岡本・水道道路編

2020-03-18 10:43:02 | 東京都世田谷区
成城学園駅前駅がスタートとなります。祖師谷編でもう少し多摩川寄りまで進みたかったのですが、ゴール場所からの帰りの足を考え祖師谷編は少し短め、大蔵・岡本・水道道路編は少し長めとなります。
駅から仙川までは300メートルくらい。そこから仙川沿いの緑道を下流へ向かいます。左側にたくさんの人が出入りして、警備員がチェックしているちょっと変わった場所があり、東宝の撮影スタジオであることが分かります。下見では川沿いを歩きましたが、正面ゲートに回ってみるのも良いかもしれません。



大倉運動公園
世田谷通りを横断すると運動公園の西門がありました。国分寺崖線の崖の上に公園があるので、登ってみる気にはなりません。




親水公園
崖線沿いに湧水が流れ、クレソンがありました。


岡本の富士見坂
「俺たちの旅」のロケ地だったかなぁ?この急坂は下りの一方通行なのですが、ロケ地はもう一本北にある上りの一方通行だと思っていました。



丸子川親水公園
下見に出かける前に地図を見てルートを検討し、この部分はちょっと迷ったところです。仙川沿いを400メートル進むと野川に合流し、合流地点は野川下りのウォーキングで確認済みです。野川下りでは二子玉川の多摩川との合流点まで歩きましたが、もう一度歩きたいという興味をひくルートでもないのです。
それならば渋谷町水道の水道道路を、駒沢給水塔へ至るルートで歩いてみよう。野川合流点まで行き、野川沿いを少し下って野川水道橋を起点にしてもよかったのですが、仙川から分岐する丸子川親水公園の方が魅力的だったので、野川合流点は目指さないことにしました。地図上では仙川から分岐しているように見えるのですが、国分寺崖線の湧水を水源としているのですね。23区内で湧水を水源としている川は珍しいと思います。


サンシュ

岡本民家園
この日民家園はお休みでしたが、時間があったら見てみたいと思います。でも交通の便が悪いのでなかなか来られないでしょうね。


静嘉堂文庫
この日はGoogle Mapでルートを確認していたので岡本公園から静嘉堂文庫へのルートがいまいちわかりませんでした。この図が民家園あたりにあったら迷うこともなかったんだけど、図の右上の部分でちょっと悩みました。国分寺崖線の崖で結構急坂なので、ここを登って静嘉堂文庫に入れずに戻ってくるのは嫌だなぁ。結局ぐるっと回ってバス停八の橋のあたりから入りかなりの遠回り。下見の遠回りは歓迎すべきことだけど、結構疲れました。仙川駅からすでに10キロくらい歩いてきたでしょうか。



静嘉堂文庫
東京都選定歴史的建造物
静嘉堂文庫
所在地 東京都世田谷区岡本2-23-1
設計者 桜井小太郎
建築年 大正13年(1924)4月

 武蔵野の面影をよく留める丘陵の一隅にこの建物は建っている。鉄筋コンクリート造2階建スクラッチ・タイル貼りの瀟酒な建物で、イギリス郊外住宅のスタイルを濃厚に表現している。
 静嘉堂文庫は、三菱合資会社の第四代社長であった岩崎小弥太が、その父弥之助の収集した日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し、更に研究者に公開することを目的に建造したものである。
 設計者の桜井小太郎(1870~1953)は、イギリスで建築を学び、英国風の落ち着いた品格のあるデザインを得意とした。岩崎小弥太も明治33年イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業した英国通であり、両者の呼吸が一致した作品である。内部は玄関ホール、ラウンジ、閲覧室、2階に応接室等があり、19世紀後半イギリスのアーツ・アンド・クラフト運動の雰囲気をもっている。
  東京都生活文化局



灯篭



岩﨑家廟堂
岩崎家廟堂案内
 この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩崎彌之助の霊廟として建てられ、岩崎彌之助、小彌太をはじめ岩崎家代々の墓である。
 明治43年3月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。
 青銅の扉に刻まれている中国二十四孝のレリーフ並びに前面の大香炉は岡崎雪聲の作である。また森の奥には、松方正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。
 この霊廟は平成11年4月東京都により歴史的建造物に選定された。
  平成24年9月 世田谷区教育委員会



ハナニラ

無量寺

世田谷百景 84 用賀観音の無量寺

無量寺
 浄土宗に属し、芝の西応寺の末寺で、祟鎮山観音院と称する。
 寺史については明らかではないが、文政九年(1826)の『新編武蔵国風土記稿』には「開山光運社明誉寿広和尚、文禄三年(1594)八月十八日示寂ス」と記されている。
 本堂左の観音堂には、天正年間に品川の浜で漁師の網に揚げられ、用賀の住人高橋六右衛門尉直住が観音様のお告げにより当寺に納めたものと言い伝えられている観音像が安置されており、十二年に一回午の年に御開張が行われる。この他にもかつて当寺においては「観音様の御巡行」「お十夜」などの観音にゆかりの行事が盛んに行われ大変な賑わいを見せていたという。
 現在の観音堂は文政十三年(天保元年、1830)の棟札があることから建立年代はその前後とみられる。ただし延宝四年(1676)の棟札も残されていることから、その草創はおそくとも江戸時代の前半期までさかのぼるものと考えられる。
  平成元年 九月
   世田谷区教育委員会



大山道道標
水道道路は目的地、この場合は砧下(きぬたしも)浄水所から駒沢給水所配水塔まで、一直線になっているですが、静嘉堂文庫内には道はなく、ドミニコ学園からまた一直線の道が始まっていました。無量寺あたりで一直線の道が途絶えるのはすでに集落があったためでしょう。この道標を見て納得したところです。


蹄鉄のプレート
プレートについて世田谷区役所のページから引用します。令和元年12月6日のお知らせです。
区民の皆さんへ
「うままちプロジェクト」蹄鉄入り平板ブロックの敷設が始まりました

12月3日(火曜日)、馬事公苑正門付近(上用賀2丁目)にて、馬事公苑と最寄り5駅を繋ぐ「うままちプロジェクト」蹄鉄入り平板ブロックの敷設工事のお披露目を行いました。
世田谷区は東京2020大会馬術競技会場のJRA「馬事公苑」開催に向けて、馬事公苑界わいのまちの魅力向上に取組んでいます。その一環として、「うままちプロジェクト」では、JRA馬事公苑と最寄り5駅(小田急線千歳船橋駅、経堂駅、東急世田谷線上町駅、東急田園都市線桜新町駅、用賀駅)のルート上の道路や公園等に「馬の蹄鉄入りのブロック」を敷設し、楽しく親しみやすいサインにするとともに、区民等にも思い出として残る取組みとするため、ふるさと納税の仕組みを利用したガバメント・クラウドファンディングで寄附を募り、3万円以上寄附をいただいた方のうち、希望する方には、ブロックに寄附者名を刻印したプレートを取り付けるという取組みを行って参りました。

このプロジェクトは、平成30年6月から10月にかけて行い、2,500万円(800枚)の目標額に対して、約2,136万円(691枚)の寄附が集まりました。たくさんの皆さんにご協力いただきありがとうございます。

この「馬の蹄鉄入りのブロック」は馬事公苑へと繋がる道しるべとして、そして、東京2020大会以後も残り続けるレガシーとして、世田谷区の財産となると思っています。

保坂 展人



水道道路の終端部



双子の給水塔
世田谷区に残された渋谷町水道の歴史遺産
 明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次いだ。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった中島鋭治博士に依頼して町営上水道布設の計画に着手、大正六年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水場に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正十年五月に着工となった。

 中島博士の計画は、砧村に浄水場を設けて清潔な水を作り、ポンプの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水する言う斬新な仕組みであった。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正十三年三月に全工事が完了した。

 ここ給水場には、西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した二基の巨大塔が姿を現した。塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれている。この独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものである。同時期砧浄水場(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工している。なお昭和二年、ここ給水場には渋谷町上水道布設記念碑も造られた。

 その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和六~七年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われた。その際砧の浄水場には取水ポンプ室、駒沢の給水場には送水ポンプ室が新たに建造されたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれている。昭和七年十月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えた。

 戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水場は高度浄水施設への転換と給水場の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外ともいえるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではなかろうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているように思えてならない。

 平成十四年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装換えでイメージを一新した。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする格好の風物詩となっている。

 中島博士生誕百五十年にあたる今年、駒沢給水塔風景資産保存会と世田谷区は相携え、この地に残る世界的に貴重な近代化遺産を永く後世に残せるよう、都水道局の理解協力のもとに、思いを込めてこの銘板を作成した。

平成二十年十二月  駒沢給水塔風景資産保存会・世田谷区


仙川コースはここで終了となります。丸子川・矢沢川に進むべきかとも考えましたが、そのあたりは六郷用水としてまた別企画にしておきましょう。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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