距離が短いので夏のこの時期に採用していますが、日陰の無い道は結構つらい。来年は考え直さないといけないなぁと思って歩いていると、後半の東大構内、駒場公園などは木陰が多くほっとするコースでした。
セミの抜け殻
駒場野公園
駒場東大前駅で集合。駒場野公園に移動してストレッチをして出発します。蚊に刺されないよう虫よけ対策。
〆切地蔵
駒場野公園
目黒区と世田谷区の区境、かつては上目黒村と池尻村の村境でした。西から疫病が入り込まないよう、上目黒村側に立派な〆切地蔵があります。
御用屋敷跡
江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。
平成22年12月
目黒区教育委員会
栃木県東京学生寮
最近建て替えが行われ、大谷石が象徴的に使われています。飾り壁のように使われるようになったのはフランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの内装に使ったのが始まりでしょうか。
警視庁大橋庁舎
三軒茶屋キャロットタワー
騎兵山の台地から西の景色がよく見えて時々富士山も見られるのですが、この日は山がうっすら見えているものの富士山は見えませんでした。
馬神碑
騎兵山の崖
駒場には将軍家の広大な鷹場がありました。明治になりその広大な土地は駒場農学校になったり帝国陸軍の施設となったり。秋山好古のフランス式騎兵隊が開設当初この地を演習地としていたので、騎兵山と呼ばれています。演習で命を落としたり日露戦争でコサック騎兵との戦いで犠牲となった馬を供養するため馬神碑が立てられています。
サルスベリ
キバナコスモス
カンナ
?
赤トンボ
シュウメイギク
カラフル
騎兵山と言っても山ではなく目黒川が削った台地の縁です。騎兵山を下り目黒川の緑道を下流へ向かいます。この緑道が終わるまでは日陰がないので、ピーカンではちょっと辛いウォーキングとなります。
目黒富士登山口
ギンナン
手水
形式はいとわず
大国主命?
浅間神社
富士登山口から上目黒氷川神社を訪れます。
淡島通りのボラーチョ
立派なミニトマト
淡島通りに出て松見坂交差点から駒場バラ園方向へ進んでゆきます。こんなに立派なミニトマトが出来たらうれしいですね。
東大構内のヤブミョウガ
駒場博物館
矢内原門跡
Wikipediaから引用します。
矢内原門(やないはらもん)とは、東京都目黒区駒場の東京大学駒場Iキャンパスにあった「門」。正規の門ではなく、大学を囲む柵の、駒場商店街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1メートルほどの通用口の名であった。
概説
矢内原忠雄が東京大学教養学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなったおり、学部長が自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えられた。また、以前よりの抜け道であったが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったことから学生が公然と通行するに至ったものだとも言われる。東京大学教養学部の前身である旧制第一高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。
近年の駒場キャンパスの整備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は消滅した。
現在、跡地付近は「矢内原公園」と呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。
駒場野公園
東大を北門から出て駒場公園を経由し駒場野公園へ戻ってきました。稲穂とスズメがレリーフになっているこの門は、かつての東京教育大学の門です。門扉は公園になった時に代えられたものでしょう。
BA.5が猛威を振るい、ストレッチ後は会食なく解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
セミの抜け殻
駒場野公園
駒場東大前駅で集合。駒場野公園に移動してストレッチをして出発します。蚊に刺されないよう虫よけ対策。
〆切地蔵
駒場野公園
目黒区と世田谷区の区境、かつては上目黒村と池尻村の村境でした。西から疫病が入り込まないよう、上目黒村側に立派な〆切地蔵があります。
御用屋敷跡
江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。
平成22年12月
目黒区教育委員会
栃木県東京学生寮
最近建て替えが行われ、大谷石が象徴的に使われています。飾り壁のように使われるようになったのはフランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの内装に使ったのが始まりでしょうか。
警視庁大橋庁舎
三軒茶屋キャロットタワー
騎兵山の台地から西の景色がよく見えて時々富士山も見られるのですが、この日は山がうっすら見えているものの富士山は見えませんでした。
馬神碑
騎兵山の崖
駒場には将軍家の広大な鷹場がありました。明治になりその広大な土地は駒場農学校になったり帝国陸軍の施設となったり。秋山好古のフランス式騎兵隊が開設当初この地を演習地としていたので、騎兵山と呼ばれています。演習で命を落としたり日露戦争でコサック騎兵との戦いで犠牲となった馬を供養するため馬神碑が立てられています。
サルスベリ
キバナコスモス
カンナ
?
赤トンボ
シュウメイギク
カラフル
騎兵山と言っても山ではなく目黒川が削った台地の縁です。騎兵山を下り目黒川の緑道を下流へ向かいます。この緑道が終わるまでは日陰がないので、ピーカンではちょっと辛いウォーキングとなります。
目黒富士登山口
ギンナン
手水
形式はいとわず
大国主命?
浅間神社
富士登山口から上目黒氷川神社を訪れます。
淡島通りのボラーチョ
立派なミニトマト
淡島通りに出て松見坂交差点から駒場バラ園方向へ進んでゆきます。こんなに立派なミニトマトが出来たらうれしいですね。
東大構内のヤブミョウガ
駒場博物館
矢内原門跡
Wikipediaから引用します。
矢内原門(やないはらもん)とは、東京都目黒区駒場の東京大学駒場Iキャンパスにあった「門」。正規の門ではなく、大学を囲む柵の、駒場商店街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1メートルほどの通用口の名であった。
概説
矢内原忠雄が東京大学教養学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなったおり、学部長が自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えられた。また、以前よりの抜け道であったが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったことから学生が公然と通行するに至ったものだとも言われる。東京大学教養学部の前身である旧制第一高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。
近年の駒場キャンパスの整備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は消滅した。
現在、跡地付近は「矢内原公園」と呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。
駒場野公園
東大を北門から出て駒場公園を経由し駒場野公園へ戻ってきました。稲穂とスズメがレリーフになっているこの門は、かつての東京教育大学の門です。門扉は公園になった時に代えられたものでしょう。
BA.5が猛威を振るい、ストレッチ後は会食なく解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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