目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

文化財めぐり上目黒コース 約5.5km

2020-10-26 11:42:58 | 東京都目黒区、世田谷区
文化財めぐりコースシリーズは目黒区のホームページに紹介されている文化財めぐりをすこやか歩こう会向けにアレンジしたものです。今回の上目黒コースを歩くのは二回目。withコロナ時代はスタートとゴールを目黒区内とするものを選んでいるので、このコースを含めることにしました。あまり歩く機会のない世田谷観音や野沢龍雲寺が魅力です。


サザンカ

ピラカンサ
集合場所の氷川神社へ向かう途中に撮ったものです。「サルスベリももう終わりだね、そろそろサザンカかな」などと話をしていたのですが、サザンカを見つけて撮ってみました。ピラカンサの赤と快晴の青空のコントラスト。この日は一日中青空で、日なたはちょっと暑いくらいだけど、空気も乾燥している日陰は涼しく歩くのには絶好の一日でした。


氷川神社
まもなく七五三ということで何組かの七五三家族を見かけました。境内の片隅をお借りしてストレッチをして、長い階段を降りて歩き始めます。


玉川通り(国道246号)

東山貝塚公園

東山街かど公園

竪穴式住居の炉があった場所

東山貝塚遺跡
東山貝塚遺跡(ひがしやまかいづかいせき)
東山3-20-1(東山街かど公園)
この公園の地下1mのところから、縄文時代中期(約4,500年~5,000年前)の竪穴住居址が2軒発見されました。
1号住居址は直径約6mの住居で六角形に近い形をしていました。住居址の中央のやや北寄りに火をたいた炉の跡があり、壁ぎわからは大型の深鉢が横倒しの状態でみつかりました。また、この住居には建て直したあとが残っていました。
2号住居址は直径約3.5mのほぼ円に近い形をしていました。この住居址は4本の柱穴があり、炉には深鉢が埋められていました。
2号住居址のあった場所を白いタイルで表示してあります。炉のあとは赤いタイルで、柱穴は丸プレートで示しています。
この遺跡から発見された土器などは目黒区教育委員会で保管しています。
平成22年3月 目黒区教育委員会

東山貝塚公園は改修中で中に入ることはできませんでした。貝塚公園に竪穴式住居を再現してあるのであの場所に住居があったように思ってしまいますが、実際には坂を上った街かど公園の場所から住居跡が発見されています。貝塚公園の場所はゴミ捨て場ですね。
住居跡は炉があった場所を赤いタイルで、柱があった場所を丸プレートで示しているのですが、植木をおいてしまっているのでその場所がわかりません。公園の設計者と管理する人が違うのでしょうが、もう少し考えたほうが良いと思います。


シュウメイギク

東山公園

東山小学校
かつて四階建ての団地が並んでいた場所が、高層住宅に建て替えられ余裕ができた土地は目黒区に払い下げられて公園となりました。ブルーインパルスが医療関係者への感謝の意味を込めて飛行した日、この公園では多くの人が眺めていました。近くに自衛隊中央病院があって、この公園の真上を飛行したようです。
東山小学校は昭和33年創立の区内で最後に開校した区立小学校です。かつてはアスファルトで覆われていた校庭が人工芝になりました。


寿福寺

庚申塔

宿山の庚申塔群

寿福寺墓地
寿福寺の前の道はかつての鎌倉街道で、住居表示から消えてしまった小字「宿山」の中心地が寿福寺でした。上目黒村に初めて誕生した菅刈小学校は寿福寺の隣にありましたが、現在は青葉台に移転しています。小川坂の一方通行入口は三差路で、宿山の庚申塔群が目印となっていました。鎌倉街道を東へ進むと宿山橋で目黒川を渡り、目切坂を上って猿楽町。並木橋で渋谷川を渡り金王八幡宮前、原宿を抜けて勢揃坂へと続きます。宿山や原宿には鎌倉街道の宿があったそうで、鎌倉時代の宿はどんなだったでしょうか。宿山を中心として上目黒三丁目、五丁目、東山一丁目に広い公園がないのは、鎌倉時代から人口密度が高かったためと思われます。寿福寺から野沢通り(かつての鎌倉街道)を挟んで南側に寿福寺の墓地があり、江戸時代の綱差し川井権兵衛のお墓が写真に写っています。


ハナミズキの実

ブーゲンビリア

斑入りのススキ

ママコノシリヌグイ
宿山の庚申塔群から寿福寺墓地と目黒ゴルフ練習場の間の人がすれ違うのがやっとのような細い道を蛇崩川へ下ります。この道は古地図にも載っていて、蛇崩川が台地を削ったままの傾斜なのだと思います。しばらくきれいな花と青空を見ながら蛇崩川緑道を歩きます。


芦毛塚
蛇崩から碑文谷公園まで続くまっすぐな道は名前はありませんがかつての鎌倉街道で、目黒区と世田谷区の区界です。馬で通りがかった源頼朝の葦毛は何かに驚き沢の深みに落ちて死んでしまい埋葬した場所が芦毛塚ということで、鎌倉街道に車が走るようになっても道路の真ん中に残されました。頼朝はこの地を通るときは馬を引いて歩くように命を出し、この地は馬曳沢と呼ばれるようになり蛇崩川上流を上馬引沢村、下流を下馬引沢村と呼んでいましたが、大正時代の町制施行により上馬と下馬になりました。


駒繋公園

駒繋神社

蛇崩川緑道

子の神橋跡

世田谷区立駒留中学校
公園は蛇崩川の河岸段丘というか自然の崖を生かして作られました。駒繋神社は子孫繁栄の象徴子の神として信仰を集めました。名前の由来は頼朝が馬を繋ぎお参りしたため。このあたりの蛇崩川の蛇行が川の名前に「蛇」を与えられた由来でしょう。神社隣りの中学校は駒繋中学かと思っていたら駒留中学校でした。六・三・三・四制が制定された年に中学校が開校され、校名を調整できなかった目黒区では北から番号を振って一中から十一中までを開校したのでしょう。それに対して世田谷区では字名を校名に採用したのですね。どういった違いなんだろう。


世田谷観音の土留め
蛇崩川から南西に向かって緩やかな上り坂になっており、世田谷観音裏となる北東側はこの高さで土止めされています。蛇崩川が傾斜に関係しているのは間違いないでしょうが、この緩やかな傾斜は人工的なものでしょうか。




世田谷観音
世田谷山観音寺
昭和26年睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜山浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、他に特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八木童子像が安置され、他に都指定有形文化財の五百羅漢座像が安置されている。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会




観音堂


特攻観音堂


六角堂


阿弥陀堂


仁王門

さざれ石


旧小田原藩代官屋敷
代官屋敷は移築されたもので、戦後の創建と歴史が浅い割には見どころが多いお寺です。特に不動明王は国指定の重要文化財とのこと。


学芸大附属高校

野沢龍雲寺の土留め



野沢龍雲寺
同じような壁がずっと続いており、学芸大附属高校の敷地はかなり広そうです。野沢龍雲寺も土留めされており、緩やかな坂の頂点は環七通りなのかな。


竹の?

コウヤマキかイヌマキか

園芸会社
野沢には園芸関係の会社が多く、巨大な槇がある家も「竹の?」がある家も、園芸に関係しているのでしょう。「竹の?」はつるされた竹が風に吹かれてカラカラと鳴るのですが、何か名前があるのでしょうね。「竹すだれ」で画像検索しても、写真のものは出てきませんでした。


ギンナン
銀杏自体の粒は大きそうでしたが誰も持ってゆかないようです。

十月のウォーキングはキンモクセイの香りに始まり、ギンナンのにおいに終わりました。先日明治神宮境内を歩いているときに今年初めてギンナンのにおいを嗅ぎ、「秋は毎年こうやって過ぎてゆくのだなぁ」と思い起こしていました。

この日のゴールは碑文谷体育館。体育館前の日陰をお借りしストレッチをして解散です。尾身茂会長が「5人以上の会食は危険が伴う」とおっしゃっていたので、反省会なしで解散しました。やっぱりちょっと物足りないかなぁ。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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