お鷹狩りを含めて今季最長となるコースです。コース地図は京浜急行が主催する「よこすか京急沿線ウォーク」を利用しており、一部コースを変更しているので12kmより長かったかもしれません。歩数計は22,000歩を越えていました。
中目黒→東横線→横浜→京急本線快速特急→堀ノ内→京急本線各駅→浦賀と乗り換えて一時間半、ここからスタートします。京急は三崎口へ行くのが本線だと思っていましたが、浦賀終点のこちらが本線で、堀ノ内から三崎口方面へ向かうのは久里浜線となっています。路線図を確認して初めて気づきました。
住友重機械工業浦賀造船所
浦賀駅構内の顔はめパネル
浦賀中学校美術部の作品
造船所は廃止になっているようですが、華麗な歴史の一部をWikipediaから引用します。
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
また1924年(大正13年)に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させた。両船の就航後の成績は良好で、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなった。
戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
和菓子店
「虎踊り」について横須賀市のページから引用します。
横須賀市西浦賀にある為朝神社で行われる「虎踊り」は、虎の舞だけでなく、歌舞伎や唐人踊りも取り入れた民俗芸能で、昭和51年(1976年)に神奈川県の重要無形民俗文化財にも指定されています。
踊りは、享保5年(1720年)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に、一緒に伝えられたと言われています。虎は親子二体で、親虎には成人、子虎には青少年が二人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動きます。踊りは近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、唐子の踊り、虎の出現、暴れる虎の退治の場面から成ります。
Youtubeで見たところ加藤清正の虎退治がモチーフになっているように思いますが、詳しいことはわかりません。
浦賀造船所
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「浦賀造船所」
浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技 術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。
明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
しかし、造船所の歩んだ道は、決して楽ではなかったようです。明治四十一年発行の「三浦繁昌記」の浦賀町の項には、「・・・現今は、浦賀船渠 会社を唯一の顧客として商業を営み、此の会社の弛張(しちょう)興廃は町の景気に大なる影響を及ぼしている・・・」とあり、造船所の浮き沈みが、そのまま 町民の一喜一憂につながっていた様子をよく言い表しています。
以後今日まで、様々な歴史の移り変わりにつれて盛衰を繰り返してきました。この間、ここで建造した艦船は約一千隻に達します。
浦賀道
西叶神社
「ボケが咲いている」と撮った一枚目が逆光で使えないかなぁと思って二枚目を撮りました。二枚目いらないかなぁと思ったのですが、トンビが写り込んでいたので載せておきます。
ソテツ
弁財天
稲荷
ボケ
西叶神社
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「西叶神社」
「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」
これは、享保五年(1720)から当地に伝えられているといわれ、毎年九月の祭礼に奉納される県指定無形民俗文化財「虎踊り」に登場する和藤内のせりふの一節です。
叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国(現在の千葉県)鹿野山(かのうざん)にこもり、はるかに山城国(現在の京都府)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に源氏の再興を願って叶(かな)えられたことから、養和元年(1181)にそのみ霊(たま)をこの地に迎えて祭ったことに始まると伝えられています。したがって、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
現在の社殿は、天保八年(1837)に消失した社殿を天保十三年に再建したものです。再建に要した費用は、約三千両と記録されています。とくに注目に値するのは、内部を飾る精巧な彫刻です。作者は、のちに名工とうたわれた安房国千倉(現在の千葉県)の彫刻師後藤利兵衛橘義光です。当時、二十代の若さであったといわれています。彫刻に要した費用は、総建築費の約七分の一にものぼる四百十一両余でした。奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたことと思われます。
社殿の裏山には、文覚畑と呼ばれている所があり、文覚上人の庵室の跡と伝えられています。また、社殿の右手下に「明治天皇駐輦(れん)跡」があります。これは、明治十四年五月十八日に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑です。
浦賀道の商店
蛇畠
西浦賀1丁目のこのあたりを蛇畠(じゃばたけ)といいます。昔は、現在の蛇畠の通りに平行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)がありました。幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したものです。蛇がたくさん住んでいたという意味ではありません。
この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余があり、船の荷改めの実務を担当していました。
船番所跡
浦賀の渡し
ヘリコプター
自衛隊機
道を間違えて浦賀の渡しの先まで行ってしまったら船番所跡がありました。この日は防衛大学校の開校祭とのことで、何人か自衛隊機の飛来を待っていました。
渡船
海から西叶神社
海から浦賀造船所
東叶神社
御神木のソテツ
ソテツの実
ソテツのご神木を見て「南国だなぁ」との印象でしたが由来があったのです。さすが三浦の地、源氏色が強い。宮崎でもらったソテツの実のアクセサリーを愛用しているのですが、ソテツの実がこのようにできるとは知りませんでした。
東叶神社
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「東叶神社」
祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
この神社は、養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶(かな)ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
神社の裏山を明神山と呼び、標高約五十メートルです。
後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林(しゃそうりん)」となっています。
叶神社の社叢林
指定年月日:昭和51年(1976年)12月17日
浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社叢林は、標高53mの山頂まで常緑広葉樹林で、山頂部付近はスダジイ林で占められ、斜面部はタブノキ林(イノデ-タブ群集)で被われている。
高木層は、樹高20~22mのタブノキが優先しており、亜高木層はヤブツバキ、イヌビワ、モチノキが生育している。
低木層には、トベラ、アオキ、シロダモ、ヤツデ、ヤブニッケイ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。
林床の草本層の出現種数も多く、キズタ、ヤブラン、ビナンカズラ、イノデ、ベニシダ、テイカカズラ、オオバノイノモトソウ、キチジョウソウ、ツワブキなどが生育している。
また、叶神社の裏山一帯は浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。
日西墨比貿易港之碑
日西墨比貿易港之碑
Monument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga
慶長3年(1598)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するため、スペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した。そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した。江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた。この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である。
浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し、幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している。
三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目であり、その3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された。元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで、浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。
2019年4月吉日
建碑発起人 浦賀湊を世界文化遺産にする会
撰 文 日本海事史学会 鈴木かほる
建碑賛同人 東叶神社氏子会
寄付者一同(裏面に記載)
マリーナ
以前なら気にならなかった釣り船の看板
漁港
砂浜
トーチカ
たたら浜
観音崎自然博物館前にある浜。小さい浜辺。遠浅の海岸で波は穏やか たたらという地名が製鉄と関係の深い所が多くあります 。木の浜から砂鉄はとれますが製鉄をしていたかどうかは はっきりしません。 また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたという説もあります。
たたら浜は自然の砂浜と磯が残り東京湾も中でも外洋と内湾の両方 の要素をもつたいへん貴重な場所です
豊かな照葉樹の森から流れた栄養分を含んだわき水が 海草を育てアマモ場が形成されています。 この周辺は豊富な魚介類の生息地でクサフグの産卵地として も知られる自然の宝庫です。
山側には7~8世紀に作られた20基の横穴墳墓があります。 観音崎一帯は東京湾要塞地帯の最前線として明治14年から 太平洋戦争終了(1945)まで一般人の立ち入りが禁止されていました この海岸では陸海軍の演習も行われていました。 (浦賀探訪くらぶ浦賀)
観音崎公園の地図
あこうの木
カマキリ
アコウの下でトンビに弁当をさらわれないよう注意しながらの昼食で、カマキリがずっと近くにいました。海を見ているカマキリの写真、偶然にもピントが異なる二枚が撮れました。意図して簡単にピントが調整できるといいのですが、コンパクトカメラの限界ですね。
イソギク
ツワブキ
オンブバッタ
黒船
ゴジラの足跡
観音崎灯台
行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
観音像及び観音崎については、次にように言われています。
天平十三年(741)の春、行基上人がこの地を訪れました。当時、この海蝕洞窟には白い大蛇がすんでおり、山一帯に住む鵜とともに、沖行く船に危害を加えておりました。行基上人は、泣き悲しむ村人のために、大蛇と鵜を退治するとともに、観音像を彫り、これを洞窟のそばに納めたところ、海は平穏になり、以後、漁師たちは安全に漁ができるようになりました。村人たちはこれを観音様のご利益と考え、お堂を建設し観音像を祀るようになりました。
観音像は地元の村人や漁師だけでなく、浦賀水道を行き交う全ての船舶乗組員にも愛され、いつしか人々は、この地を観音像に守られた岬『観音崎』と呼ぶようになり、その名前は現在まで続いております。
行基上人の功績
行基上人の功績については、次のように言われています。
観音像を彫り、観音崎の由来を作った行基上人は、その一方、律令制の下、重い租税や飢饉で苦しむ多くの民衆のために、布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めました。
朝廷は、民衆の支持を得た行基上人の活動を認め、これまで公有であった土地制度を改め、土地を開墾した場合、一定期間の雌雄を認めたので、以後、自発的な開墾が促進されるなど、土地制度改革が大きく進みました。
また、行基上人は、聖武天皇から奈良の大仏建立という一大公共事業の責任者に任じられるなど、行基上人の社会活動は、我が国のインフラ整備の面で大きな功績を残しました。
令和元年九月二十三日 神奈川県 横須賀土木事務所
参考文献:「新横須賀市史 資料編 古代・中世 補遺」
「古老が語るふるさとの歴史 南部編」
「国土交通白書」
三軒家園地の砲台跡
花の広場
三軒家砲台は明治時代中頃に建設されました。太平洋戦争終了まで軍の施設で一般人が立ち入ることが出来なかったということでよい状態を保っています。関東大震災もあったので、このあたりの地盤がしっかりしているのでしょうか。
破崎緑地から富士山
観音崎公園ぬけて走水へ下りてきました。意外な方向に富士山が見え見た目のイメージは一枚目ですが、ちょっと暗くして富士山がわかるようにしてみました。走水は東京湾側で、富士山は相模湾側だと思っていたのでここから富士山が見えるのは意外でした。
ヴェルニーの水
猿島
うみかぜ回廊
こちらの方がさらにわかりにくい富士山。わかりましたか?
信楽寺(しんぎょうじ)
おりょうの墓
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「坂本龍子の墓」
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。
保久利地蔵
京急大津駅へ戻りストレッチをして解散となりました。結構な長丁場、疲れました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
中目黒→東横線→横浜→京急本線快速特急→堀ノ内→京急本線各駅→浦賀と乗り換えて一時間半、ここからスタートします。京急は三崎口へ行くのが本線だと思っていましたが、浦賀終点のこちらが本線で、堀ノ内から三崎口方面へ向かうのは久里浜線となっています。路線図を確認して初めて気づきました。
住友重機械工業浦賀造船所
浦賀駅構内の顔はめパネル
浦賀中学校美術部の作品
造船所は廃止になっているようですが、華麗な歴史の一部をWikipediaから引用します。
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
また1924年(大正13年)に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させた。両船の就航後の成績は良好で、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなった。
戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
和菓子店
「虎踊り」について横須賀市のページから引用します。
横須賀市西浦賀にある為朝神社で行われる「虎踊り」は、虎の舞だけでなく、歌舞伎や唐人踊りも取り入れた民俗芸能で、昭和51年(1976年)に神奈川県の重要無形民俗文化財にも指定されています。
踊りは、享保5年(1720年)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に、一緒に伝えられたと言われています。虎は親子二体で、親虎には成人、子虎には青少年が二人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動きます。踊りは近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、唐子の踊り、虎の出現、暴れる虎の退治の場面から成ります。
Youtubeで見たところ加藤清正の虎退治がモチーフになっているように思いますが、詳しいことはわかりません。
浦賀造船所
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「浦賀造船所」
浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技 術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。
明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
しかし、造船所の歩んだ道は、決して楽ではなかったようです。明治四十一年発行の「三浦繁昌記」の浦賀町の項には、「・・・現今は、浦賀船渠 会社を唯一の顧客として商業を営み、此の会社の弛張(しちょう)興廃は町の景気に大なる影響を及ぼしている・・・」とあり、造船所の浮き沈みが、そのまま 町民の一喜一憂につながっていた様子をよく言い表しています。
以後今日まで、様々な歴史の移り変わりにつれて盛衰を繰り返してきました。この間、ここで建造した艦船は約一千隻に達します。
浦賀道
西叶神社
「ボケが咲いている」と撮った一枚目が逆光で使えないかなぁと思って二枚目を撮りました。二枚目いらないかなぁと思ったのですが、トンビが写り込んでいたので載せておきます。
ソテツ
弁財天
稲荷
ボケ
西叶神社
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「西叶神社」
「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」
これは、享保五年(1720)から当地に伝えられているといわれ、毎年九月の祭礼に奉納される県指定無形民俗文化財「虎踊り」に登場する和藤内のせりふの一節です。
叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国(現在の千葉県)鹿野山(かのうざん)にこもり、はるかに山城国(現在の京都府)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に源氏の再興を願って叶(かな)えられたことから、養和元年(1181)にそのみ霊(たま)をこの地に迎えて祭ったことに始まると伝えられています。したがって、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
現在の社殿は、天保八年(1837)に消失した社殿を天保十三年に再建したものです。再建に要した費用は、約三千両と記録されています。とくに注目に値するのは、内部を飾る精巧な彫刻です。作者は、のちに名工とうたわれた安房国千倉(現在の千葉県)の彫刻師後藤利兵衛橘義光です。当時、二十代の若さであったといわれています。彫刻に要した費用は、総建築費の約七分の一にものぼる四百十一両余でした。奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたことと思われます。
社殿の裏山には、文覚畑と呼ばれている所があり、文覚上人の庵室の跡と伝えられています。また、社殿の右手下に「明治天皇駐輦(れん)跡」があります。これは、明治十四年五月十八日に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑です。
浦賀道の商店
蛇畠
西浦賀1丁目のこのあたりを蛇畠(じゃばたけ)といいます。昔は、現在の蛇畠の通りに平行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)がありました。幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したものです。蛇がたくさん住んでいたという意味ではありません。
この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余があり、船の荷改めの実務を担当していました。
船番所跡
浦賀の渡し
ヘリコプター
自衛隊機
道を間違えて浦賀の渡しの先まで行ってしまったら船番所跡がありました。この日は防衛大学校の開校祭とのことで、何人か自衛隊機の飛来を待っていました。
渡船
海から西叶神社
海から浦賀造船所
東叶神社
御神木のソテツ
ソテツの実
ソテツのご神木を見て「南国だなぁ」との印象でしたが由来があったのです。さすが三浦の地、源氏色が強い。宮崎でもらったソテツの実のアクセサリーを愛用しているのですが、ソテツの実がこのようにできるとは知りませんでした。
東叶神社
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「東叶神社」
祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
この神社は、養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶(かな)ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
神社の裏山を明神山と呼び、標高約五十メートルです。
後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林(しゃそうりん)」となっています。
叶神社の社叢林
指定年月日:昭和51年(1976年)12月17日
浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社叢林は、標高53mの山頂まで常緑広葉樹林で、山頂部付近はスダジイ林で占められ、斜面部はタブノキ林(イノデ-タブ群集)で被われている。
高木層は、樹高20~22mのタブノキが優先しており、亜高木層はヤブツバキ、イヌビワ、モチノキが生育している。
低木層には、トベラ、アオキ、シロダモ、ヤツデ、ヤブニッケイ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。
林床の草本層の出現種数も多く、キズタ、ヤブラン、ビナンカズラ、イノデ、ベニシダ、テイカカズラ、オオバノイノモトソウ、キチジョウソウ、ツワブキなどが生育している。
また、叶神社の裏山一帯は浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。
日西墨比貿易港之碑
日西墨比貿易港之碑
Monument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga
慶長3年(1598)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するため、スペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した。そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した。江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた。この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である。
浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し、幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している。
三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目であり、その3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された。元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで、浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。
2019年4月吉日
建碑発起人 浦賀湊を世界文化遺産にする会
撰 文 日本海事史学会 鈴木かほる
建碑賛同人 東叶神社氏子会
寄付者一同(裏面に記載)
マリーナ
以前なら気にならなかった釣り船の看板
漁港
砂浜
トーチカ
たたら浜
観音崎自然博物館前にある浜。小さい浜辺。遠浅の海岸で波は穏やか たたらという地名が製鉄と関係の深い所が多くあります 。木の浜から砂鉄はとれますが製鉄をしていたかどうかは はっきりしません。 また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたという説もあります。
たたら浜は自然の砂浜と磯が残り東京湾も中でも外洋と内湾の両方 の要素をもつたいへん貴重な場所です
豊かな照葉樹の森から流れた栄養分を含んだわき水が 海草を育てアマモ場が形成されています。 この周辺は豊富な魚介類の生息地でクサフグの産卵地として も知られる自然の宝庫です。
山側には7~8世紀に作られた20基の横穴墳墓があります。 観音崎一帯は東京湾要塞地帯の最前線として明治14年から 太平洋戦争終了(1945)まで一般人の立ち入りが禁止されていました この海岸では陸海軍の演習も行われていました。 (浦賀探訪くらぶ浦賀)
観音崎公園の地図
あこうの木
カマキリ
アコウの下でトンビに弁当をさらわれないよう注意しながらの昼食で、カマキリがずっと近くにいました。海を見ているカマキリの写真、偶然にもピントが異なる二枚が撮れました。意図して簡単にピントが調整できるといいのですが、コンパクトカメラの限界ですね。
イソギク
ツワブキ
オンブバッタ
黒船
ゴジラの足跡
観音崎灯台
行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
観音像及び観音崎については、次にように言われています。
天平十三年(741)の春、行基上人がこの地を訪れました。当時、この海蝕洞窟には白い大蛇がすんでおり、山一帯に住む鵜とともに、沖行く船に危害を加えておりました。行基上人は、泣き悲しむ村人のために、大蛇と鵜を退治するとともに、観音像を彫り、これを洞窟のそばに納めたところ、海は平穏になり、以後、漁師たちは安全に漁ができるようになりました。村人たちはこれを観音様のご利益と考え、お堂を建設し観音像を祀るようになりました。
観音像は地元の村人や漁師だけでなく、浦賀水道を行き交う全ての船舶乗組員にも愛され、いつしか人々は、この地を観音像に守られた岬『観音崎』と呼ぶようになり、その名前は現在まで続いております。
行基上人の功績
行基上人の功績については、次のように言われています。
観音像を彫り、観音崎の由来を作った行基上人は、その一方、律令制の下、重い租税や飢饉で苦しむ多くの民衆のために、布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めました。
朝廷は、民衆の支持を得た行基上人の活動を認め、これまで公有であった土地制度を改め、土地を開墾した場合、一定期間の雌雄を認めたので、以後、自発的な開墾が促進されるなど、土地制度改革が大きく進みました。
また、行基上人は、聖武天皇から奈良の大仏建立という一大公共事業の責任者に任じられるなど、行基上人の社会活動は、我が国のインフラ整備の面で大きな功績を残しました。
令和元年九月二十三日 神奈川県 横須賀土木事務所
参考文献:「新横須賀市史 資料編 古代・中世 補遺」
「古老が語るふるさとの歴史 南部編」
「国土交通白書」
三軒家園地の砲台跡
花の広場
三軒家砲台は明治時代中頃に建設されました。太平洋戦争終了まで軍の施設で一般人が立ち入ることが出来なかったということでよい状態を保っています。関東大震災もあったので、このあたりの地盤がしっかりしているのでしょうか。
破崎緑地から富士山
観音崎公園ぬけて走水へ下りてきました。意外な方向に富士山が見え見た目のイメージは一枚目ですが、ちょっと暗くして富士山がわかるようにしてみました。走水は東京湾側で、富士山は相模湾側だと思っていたのでここから富士山が見えるのは意外でした。
ヴェルニーの水
猿島
うみかぜ回廊
こちらの方がさらにわかりにくい富士山。わかりましたか?
信楽寺(しんぎょうじ)
おりょうの墓
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「坂本龍子の墓」
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。
保久利地蔵
京急大津駅へ戻りストレッチをして解散となりました。結構な長丁場、疲れました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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