目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】文化財めぐり下目黒コース 約3.0km

2019-09-05 15:38:13 | ウォーキング
週半ばになり週末に歩くコースを下見しているのだからまさに泥縄です。でも暑い日がいつまでも続いた今年の夏は下見に行けるような日もありませんでした。また、区内だし、コースはほとんど知っている道なので下見は必須ではありません。それでも地図を見て「へぇ、こんな道があったのか」と思ったり、本番一回だけでは見逃してしまうところもあるかもしれないので涼しかったこの日下見をすることにしました。今回の引用で註釈のないものは目黒区のホームページからのものです。

文化財めぐり(下目黒地域)の概要
下目黒地域は、目黒区内でも寺社が多く集まり、見所の多い地域です。
前半は、夕日の丘といわれた現在のドレメ通りから、目黒川方面へ歩きます。夕日の丘は、夕映えが美しい江戸期の名所でした。昭和の初め頃には、数百坪を1区画として分譲され、政財界の有力者が多く住んだそうです。また洋装教育の先駆けとなったドレスメーカー女学院も建設され、独特の落着いた街並みが形成されました。
後半は、目黒不動として親しまれている瀧泉寺、明治40年代に移転してきた羅漢寺と海福寺、旧下目黒村の鎮守、大鳥神社など、江戸期を偲ばせる文化財を見学します。



夕日の丘(品川区大崎四丁目周辺)
淀橋台の先端に位置し、目黒川の谷を隔て西の荏原台と向かいあった高台です。名の由来は、この丘の夕映えがたいへんに美しかったことによりますが、一説では、目黒不動に参詣し江戸へ帰る人がこの丘から振り返ると、荏原台に夕日が沈む様がまことに美しく、誰言うとなくこの名が付いたといわれています。


町会掲示板
町会の名前が「夕陽町会」でした。さすが夕日の丘。


アンセルモ教会

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能楽堂
ドレメ通りにある、ドレメ以外のものを集めて見ました。






ドレメ通り(品川区大崎四丁目)
杉野学園は、大正15年(1926年)、東京市芝(現在の港区)に杉野芳子ドレスメーカースクールとして開校し、同じ年の11月に現在の場所に移転して多くの服飾関係者を輩出してきました。特に第二次世界大戦後は、これからは洋装の時代と、多くの入学希望者が押し寄せたということです。学園の校舎がこの通り沿いに並び、現在は“ドレメ通り”とよばれています。
また、この通り沿いには、屋根と周囲をガラス張りにして自然光を利用するグラス・ステージを持つ、日本で初めての映画撮影所が明治41年(1908年)につくられました。



かめのこうばし
目黒川にかかる人道橋です。


かむろ坂(品川区西五反田四丁目)
お葬式の後焼き場へ向かう時にとおる坂でこれまでちょっとネガティブなイメージがありました。比翼塚と関連があったのですね。
「かむろ」とは、肩までで髪を切りそろえた児童期の髪型です。遊郭で遊女に仕えた童女がこの髪型をしていたので、狭い意味では遊郭の童女を指します。
かむろ坂の名は、江戸時代の平井権八と小紫の悲恋話に由来します。
遊女小紫と深い仲となった鳥取藩浪人の平井権八は、金を得るために辻斬りを繰り返し処刑されます。小紫は、目黒不動の近くにあった東昌寺に平井権八の墓を訪れ、自害して後を追います。小紫が帰らないので、店の主人はかむろを様子見に遣わしますが、帰り道で暴徒に襲われ、かむろはこの付近にあった池に飛び込み亡くなりました。これを悼んで坂の名になったと伝わっています。



比翼塚
平井権八がなぜ講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等に取り上げられる存在なのか、ネットで簡単に調べても理解できませんでしたが、Wikipediaに聞き覚えのあるセリフがあったので、「伝説・物語」の項目から引用します。
幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである。
「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある。
吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」がある。
1852年6月-7月(嘉永5年5月)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しをバックに描かれている。







目黒不動(瀧泉寺) (目黒区下目黒三丁目20番26号)
大同3年(808年)に慈覚大師が開いたと伝わる天台宗寺院です。
本尊は不動明王で、本堂裏には銅造の大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)(目黒区指定文化財)が安置されています。前不動堂(まえふどうどう)(東京都指定文化財)は、やはり不動明王をまつっています。
その他、目黒区指定文化財の役の行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう)や勢至堂(せいしどう)などがあります。また裏山の墓地には、サツマイモ栽培を広めて飢饉から人々を救った青木昆陽の墓(あおきこんようのはか)(国指定文化財)があります。





海福寺(目黒区下目黒三丁目20番9号)
万治元年(1658年)、隠元禅師が深川に開いた黄檗宗の寺です。
明治43年(1910年)に現在地に移転してきました。本堂は日比谷にあった中山大納言家の邸宅を移築したものといわれています。山門の手前には、東京都指定文化財の文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(ぶんかよねんえいたいばしほうらくおうししゃくようとうおよびせきひ)があります。山門の朱塗りの四脚門(しきゃくもん)は目黒区指定文化財です。
境内には、東京都指定文化財の梵鐘(ぼんしょう)があります。また、武田信玄の館にあったと伝わる九重の石塔がありますが由来など詳細は不明です。


後の行程はだいたいわかるだろうと下見を省略しましたので、文化財めぐりの説明だけ引用しておきます。
五百羅漢寺(目黒区下目黒三丁目20番11号)
黄檗宗の寺として、元禄8年(1695年)に本所に開かれました。
羅漢堂のほか螺旋構造の通路がめぐる「さざゐ堂」と呼ばれた建物があり、江戸名所として富嶽三十六景にも描かれましたが、幾度かの天災に見舞われ、明治41年(1908年)に現在地に移転しました。
現在、本堂と羅漢堂に、松雲禅師が浄財を集め十年あまりをかけて彫刻した五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)などのうち、305体が残され、東京都指定文化財になっています。
境内には、戦時慰問で広島を訪れ原爆の犠牲となった、移動演劇団さくら隊の原爆殉難碑などがあります。

蟠龍寺(目黒区下目黒三丁目4番4号)
宝永6年(1709年)、行人坂付近にあった称明院(1648年創建)を現在地に移し、戒律を厳守する寺として名を改めました。今でも、参道の右手に酒などの境内持込み禁止を刻んだ結界石が残り、戒律の厳しい寺(律院)の名残を留めています。
本尊の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)は平安時代の作で、東京都指定文化財になっています。また、山手七福神(やまてしちふくじん)のひとつに数えられ、本堂脇の岩屋には石造の弁財天がまつられています。

大聖院(目黒区下目黒三丁目1番3号)
弘治3年(1557年)に開かれたと言われます。江戸時代は隣の大鳥神社を管理する寺でした。
境内には、織部形の石灯篭が三基あり、切支丹灯篭ともよばれています。
これは、千代ヶ崎(現在の目黒区三田付近)にあった島原藩主松平主殿頭の抱屋敷から移したものと伝えられています。

大鳥神社(目黒区下目黒三丁目1番2号)
旧下目黒村の鎮守ちんじゅで、ヤマトタケルノミコトを主神としてまつっています。大同元年(806年)創建と伝えられ、目黒区内で最も古い神社です。
毎年11月の酉の日に開かれる酉の市には、縁起物の熊手を売る露店が立ち並び、多くの人が訪れます。
また、毎年9月の例大祭には太々神楽「剣の舞」が、11月の酉の市には太々神楽「熊手の舞」が奉納されます。



すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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