目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

呑川緑道・池上梅園コース 約5.0km

2019-03-03 13:24:14 | ウォーキング
今日日曜日は雨の朝を迎えましたが、ウォーキングが行われた土曜日は快晴でした。日陰では風が冷たく感じられましたが、日が当たる場所は春を通り越して初夏の陽気。会員の皆さんは少し汗ばみながら、ウォーキングを楽しんでいました。


呑川本流緑道
都立大学駅付近で柿の木坂支流と合流している呑川は上流からずっと暗渠になっており、駅の近くは自転車置き場になっていますが、それ以外はほぼ未舗装の土の通路となっています。ソメイヨシノの古木が多く、その根が舗装道路を持ち上げてしまうので未舗装の方がかえって歩きやすい。



ハボタン


カワヅザクラ

紅梅白梅

カンヒザクラ

花壇

アセビ
ところどころに花壇が整備され奇麗な花が目を楽しませてくれます。カワヅザクラやカンヒザクラなどの早咲きのサクラがうきうきした春の気分を運んできます。紅梅白梅も電柱が無ければもっと映えるんですが。


東京工業大学

九品仏川合流点

清流の復活、開渠のはじまり
目黒区最南端の大岡山で九品仏川が合流します。九品仏川はもともと呑川の支流ではなく、この流れは河川改修により作られたものという見方が多いのですが、決定的な資料はないそうです。東京工業大学は鉄道院官僚から東急電鉄の経営者へ転身した五島慶太が打った東急沿線のイメージアップ戦略によりこの地へやってきました。Wikipediaから略歴を引用します。
略歴
創立年は、東京職工学校が設立された1881年(明治14年)とされている。さらに源流を遡れば、1874年(明治7年)にゴットフリード・ワグネルの進言によって東京開成学校の中に設置された「製作学教場」に行き着く。
東京職工学校は1881年(明治14年)5月26日に創設され、1882年(明治15年)6月10日文部省より東京市浅草区蔵前東片町に浅草文庫の建屋を交付され、校舎新築の工事を起こした。明治初期の工業教育機関は、工部大学校(東京大学工学部の前身)と東京職工学校の2校だけであった。前者がイギリス人をスタッフに迎え、鉱山・土木・電信など国土経営に関する指導者養成を目指したのに対し、後者は英独仏の大陸欧州諸国の技術教育に関する調査に基づき、手島精一ら日本人によって構想され、製造現場および工業教育の指導者養成を目的として、化学工芸科および機械工芸科の2科で発足した。
その後、学科課程の分化拡充を経て、東京高等工業学校となり、その所在地から長く「蔵前」と称された。1923年、関東大震災により壊滅的被害を受けたのを機に市外の東京府荏原郡大岡山に移転。1929年の旧官立大学昇格時には、工学系8学科に加え理学系4教室を設置した。太平洋戦争後の1949年、新制大学へ移行。戦後も拡充を続け、2004年に国立大学法人となった。2018年には指定国立大学法人となる。


知っているようであまり知らない、五島慶太についてもWikipediaから抜粋して引用します。
人物概要
東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道や玉川電気鉄道をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収。その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。

生涯
幼少期 - 大学卒業
長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる。五島慶太の『私の履歴書』によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」という。父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、朝起きた時、夜寝る前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱えていた。その両親の姿勢を受け、慶太もまた仏教に感化を受けていった。
父は製糸業などに手を出し失敗していたため、家計は楽な状況ではなかったが、慶太の志は高く、父を説得して長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌33年に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)に入学させてもらった。中学の3年を終えると、長野県尋常中学校松本本校(現・長野県松本深志高等学校)に親友大井新次郎(後の多摩川園長)とともに下宿しながら通学し、4年・5年を修了した。
慶太はさらに上級学校への進学を夢見たが、経済的理由から進学を諦め、中学卒業後は青木村の小学校の代用教員をしていた。しかし、慶太の向学心は強く、1902年(明治35年)の夏に上京し東京高等商業学校(現:一橋大学)を受験するが、英語で失敗し不合格。その翌年に、学費のいらない東京高等師範学校(現・筑波大学)へ合格し、代用教員を辞し英文科へ進学した。
卒業後、英語教師として三重県の四日市市立商業学校(現:三重県立四日市商業高等学校)に赴任した。『私の履歴書』によれば、「一度学校に赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調でバカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。」という。
さらに最高学府への進学を志し、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学政治学科の選科に入学。10月には、当時難関中の難関とされた旧制第一高等学校の卒業資格試験に挑戦、見事これに合格し、法学部本科に転学した。しかし、再び学資に窮してしまい、東京高師の校長で在学中に世話になった嘉納治五郎の紹介により、富井政章男爵の息子の家庭教師として居候することになった。
富井の息子の第二高等学校進学が決まると、次は富井の紹介で加藤高明の息子である加藤厚太郎の家庭教師として加藤邸に居候することとなった。またこの頃、精力の捌け口を求めてたびたび吉原や浅草六区、根岸の女郎屋に出入していたという。『私の履歴書』によれば、「書生の分際ながら、これだけはどうしようもなかったのである。」という。
1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業する時にはすでに29歳になっていたが、高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省。工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移ることとなった。

鉄道業界へ
鉄道院転属の前年の1912年(明治45年)2月24日、慶太が30歳の時、工学博士・古市公威の仲人で、皇居二重橋の設計者である工学博士・久米民之助の長女・万千代と見合い結婚をした。万千代は慶太と結婚して久米民之助の祖母の実家、五島家を再興した。慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになった。
鉄道院では、文書課、監督局、監督局内の総務課と職場を移り、1919年(大正8年)には総務課長に就任したが、高等官七等という身分であったために「課長心得」という肩書になった。しかし、この処遇が気に食わず、稟議書の認可を押す時に、わざと「心得」の2字を消してから、上へと回した。すると次官がそれに気付き、かくして五島は「課長」になることができた。課長に就任して1年半ほど経ち、官吏の生活に嫌気がさしてきた頃、武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合ったところ、次官は「課長心得が気に入らないと言って『心得』を消してくる面白いやつがいる」と五島を紹介した。これを渡りに舟と感じた五島は1920年(大正9年)5月11日に鉄道院を退職し、武蔵電気鉄道常務に就任した。
その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社が東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入、その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設すべく、荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)も設立したが、素人ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで、大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、第一生命相談役の和田豊治が阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三を推し、小林は、名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた。しかし、目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に、小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推薦した。小林からは「荏原電鉄を先にやって、45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され、1922年(大正11年)10月から荏原電気鉄道の専務を兼務した。直前の1922年(大正11年)7月に、荏原電気鉄道は目黒蒲田電鉄と名前を変え、1924年(大正13年)11月に目蒲線の全線開通を迎えた。その時期が関東大震災と重なったため、都心を焼け出された人々が沿線に移住し、業績は一気に好転した。その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から(旧)東京横浜電鉄と変え、1927年(昭和2年)8月に東横線(渋谷 - 神奈川間)を開通させた。
しかし、昭和恐慌の煽りを受け一転業績は悪化、一時は自殺を考えるほどの苦境に陥った。その時、五島は「予算即決算主義」というものを確立した。これは後々まで五島の経営哲学として生き続けて行くこととなる。
五島は阪急の小林の手法に倣い、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めた。しかしそれだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を浅草区(現・台東区)蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に移転させることに成功した。1929年(昭和4年)には慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)には日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(後に東京都立大学)を八雲に誘致した。1936年(昭和11年)は赤坂区(現・港区)青山北町にあった東京府青山師範学校(後に東京学芸大学)に資金援助を行い、世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていくことになる。それと同時に、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。
五島は事業拡大にも乗り出し、1933年(昭和8年)7月、競合していた池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受け、一夜にして買収を成し遂げた。しかし3か月後の10月、東京市長選に関連して盟友牛塚虎太郎への選挙資金を目蒲電鉄が拠出したという投書が警視庁に届き、目蒲電鉄に家宅捜索が入った。池上電気鉄道買収の際に川崎財閥に渡した手付金の小切手10万円が市長選に使われたとの嫌疑がかかり、五島は市ヶ谷刑務所に送致された。一審では有罪判決を受けるが、二審で逆転無罪となり、大審院が上告を却下したため無罪が確定し、釈放された。この間半年であったが、五島は後に「私はこのときが人間として最低生活であった」と回想している。獄中では読書に明け暮れ、『菜根譚』といった難解な書物にも挑戦した。後日、この注釈書『ポケット菜根譚』を著述している。
その後の株主総会で、五島に感謝金5万円を贈呈することが決議された。五島は以前に教師を務めていたことから、教育事業には関心を持っており、その資金に私財12万を投じて、東横商業女学校(後の東横学園)が設立された。その後も、武蔵高等工科学校(武蔵工業大学→東京都市大学の前身)を有する財団法人東横学園(現・学校法人五島育英会)を設立したり、東横学園中学校や東横学園女子短期大学(のちに東京都市大学へ統合)を開校するなど、晩年まで教育活動には熱心だった。
1934年(昭和9年)11月、渋谷に関東初の電鉄系ターミナルデパートである東横百貨店を開業した。当時、呉服が中心だった百貨店事業の中で、東横は日用品中心の品揃えを展開する。ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かずして買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。また、東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内国貯金銀行(現・りそな銀行)の前山久吉から株式譲渡の形で買収、1938年(昭和13年)4月に(旧)東京横浜電鉄に吸収合併した。翌1939年(昭和14年)10月に目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。
なお、1927年(昭和2年)から1944年(昭和19年)にかけて、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌。1941年からは後述する参急と統合し関西急行鉄道(関急)となる)の監査役および、大軌子会社である参宮急行電鉄(参急)の取締役も務めている。



上呑川児童公園

川沿いのお宅のお庭
川沿いにはいくつかの公園が整備されています。河川改修で発生した土地でしょうか?フキノトウもそろそろ薹が立ってきましたね。



水道道路

水道道路わきの白梅
この水道道路の先に玉川浄水池があるので、渋谷町水道の送水管が埋設された道路なのだと思いますが、ネットでそれらの情報に行き着くことができません。「緑道軸」というのも気になります。大田区が公開している資料からそれらしき部分を抜粋します。
3 水と緑の環境軸への配慮
「水と緑の環境軸」とは大田区緑の基本計画「グリーンプランおおた」に定めているもので、「緑の環境軸」は多摩川沿いから山王までつながる国分寺崖線と南北崖線沿いの範囲、「水の環境軸」は多摩川、呑川、内川、臨海部の運河などの水際線沿いの範囲を示しており、緑化の推進や散策路の整備、公園緑地の整備など重点的に行われています。
 緑化の計画にあたっては、これらの環境軸の形成に寄与するように、なるべく環境軸に沿った緑を創出し、緑の連続性が保たれるようにご協力をお願いいたします。
 特に、区内中央部を縦断する呑川沿いで建築行為等を行う場合には、区が定めた「呑川緑道軸整備計画」に基づき、呑川沿いの道路・通路等からのセットバックなどにより、道路・通路を含めた7メートルまでの範囲について提供歩道や公開空地、環境緑地帯等としての自主整備に努めていただけますよう特段のご協力をお願いしています。




石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養塔
 安永三年(一七七四)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
 石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
 正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
 石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
  昭和五十一年二月二十五日指定
   大田区教育委員会



清流の復活
すこやか歩こう会はこの事業の恩恵を受けています。かつて私が子供だった時の目黒川はどぶ川でした。水質が悪い川日本一になったこともあります。清流の復活事業が無ければ、川沿いをこのように楽しく歩くことはできなかったでしょう。東京都下水道局のページから引用します。
城南三河川の清流復活(渋谷川・古川、目黒川、呑川)
水の流れがほとんどなく、河川環境が悪化していた渋谷川・古川、目黒川、呑川の三河川へ落合水再生センターで高度処理した再生水を送水しています。再生水の放流により水量が増え、うるおいのある環境をよみがえらせています。

渋谷川・古川
渋谷川は、渋谷区が農村だった時代に田畑で使用する水を供給していました。また、古川は近代工業の発展に大きな役割を果たしました。
計画水量:最大19,900m3/日
通水開始:平成7年3月

目黒川
目黒川は享保、寛延、天明の洪水では流域に大きな被害を与えました。
しかし、明治時代には沿岸での工業が始まり、近代工業の発展に大きな役割を果たしました。
計画水量:最大30,200m3/日
通水開始:平成7年3月

呑川
かつては飲む川・呑川と呼ばれたほどきれいで飲料水にも使われていました。
下流では、昭和10年頃まで海苔の養殖がさかんで全国一の生産高を記録していました。
計画水量:最大36,300m3/日
通水開始:平成7年3月



池上線土手のフキノトウ

ジンチョウゲ

ハクモクレン
この場所のフキノトウは珍しい群生です。柵があって入れないから採る人もいないのでしょうね。犬のおしっこで汚染されていないから食べられそうだけど、猫もいるからどうでしょう。ジンチョウゲやハクモクレンもいつの間にかよく咲いています。暦の上では春だけどまだ寒い日もあり、春遠からじといった感じかな。

この日は本隊とは別行動だったのでゴールせずにバスに乗ってしまいましたが、有志と合流後恵比寿のライオンで大いに飲みました。やっぱりライオンのビールはおいしいです。二次会は珍しい中目黒タップルームでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
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