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もずの独り言・goo版

半蔵ともず、gooでも独り言です。『もずの独り言』はこれからも戦い続けます。

【みんな生きている】世界平和指数編

2013-11-23 16:46:51 | 日記
《北朝鮮の平和指数、相変わらず低水準》

韓国の世界平和フォーラムは11月18日、世界平和指数(World Peace Index)を発表した。韓国は143カ国中42位で前回より1ランク下落した。北朝鮮は10ランク上昇の117位だった。
同指数は調査対象国の前年における平和の度合いを示す。調査対象国の国内政治、軍事外交、社会経済の各部門に関する総合的な分析、評価に基づき、同フォーラムが毎年発表している。今回は143カ国が調査対象国となった。
前回より順位を一つ落とした韓国は、国内政治部門は18位、社会経済部門は29位と上位に入ったが、軍事外交部門が115位と下位にとどまったことが影響した。
一方、北朝鮮の順位上昇は、金正日(キム・ジョンイル)総書記の死後、金正恩(キム・ジョンウン)体制が比較的安定していることが反映されたが、韓国との差は依然として大きい。
世界の平和指数は70点で、前回より0.1点下がった。1位は92.1点のドイツ。前回1位だったスウェーデンが2位だった。3位以下はオーストリア、オランダ、アイスランド、スイス、ニュージーランド、オーストラリア、デンマーク、マルタの順。
日本は5ランクダウンの24位、アメリカは67位、中国は112位。最下位は内戦の爪痕に苦しむスーダンだった。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)

【みんな生きている】ツァヒアギーン・エルベグドルジ編

2013-11-23 16:42:29 | 日記
北朝鮮を訪問したモンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が10月31日の平壌の金日成総合大学での演説で「いかなる暴政も永遠には続かない」と述べたことが11月15日、判明しました。モンゴル大統領室が公開した演説内容として、聯合ニュースが伝えました。
エルベグドルジ大統領は
「モンゴルは人権と自由を尊重し、法治主義を支持する」
と述べる一方、
「人民が自由な生活を熱望するのは永遠の力だ」
と“暴政”を非難しました。
同大学はエリートを養成する最高学府。演説後、聴衆は立ち上がり拍手したとされます。
エルベグドルジ大統領は北朝鮮の要求で「民主主義」「市場経済」という言葉は使わなかったといいますが、名指しを避けつつも金正恩(キム・ジョンウン)体制を強く非難する内容となりました。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)

【みんな生きている】捏造逮捕編

2013-11-23 16:38:30 | 日記
《「国情院のスパイ」?聞いて呆れる北朝鮮の捏造逮捕劇》

北朝鮮の国家安全保衛部(秘密警察)が11月7日、平壌に潜入した韓国国家情報院(国情院)のスパイを逮捕し取り調べている、と発表した件で、問題の人物は保衛部の工作員にだまされて北朝鮮に入ったキリスト教宣教団体の牧師だったことが、11月10日までに分かった。
脱北難民人権協会のキム・ヨンファ会長は11月9日、『朝鮮日報』紙記者の取材に対し

「今回平壌で逮捕された人物は、浸礼教団(プロテスタントの一派)に所属する大韓宣教会の牧師だ。この牧師は50代で、今年9月22日ごろ、中国人の偽造パスポートを使い、観光客を装って北朝鮮に入ったが、平壌で待ち構えていた保衛部の要員に逮捕された」

と語った。
キム会長によると、この牧師は5年前から中国遼寧省丹東市で、北朝鮮政府の幹部や貿易業者、親戚に会うため中国に来た北朝鮮住民たちと会い、さまざまな生活必需品や衣類、医薬品等の支援を行いながら北朝鮮向けの宣教活動を行っていた。脱北難民人権協会も数年前から、この牧師に古着や生活必需品を提供していたという。
牧師はこの過程で、平壌の万景台区域にある貿易業者の幹部と親しくなったという。
キム会長は

「貿易会社の幹部は牧師に対し『胃腸薬や性病の薬、ビタミン剤、健康食品を持って平壌に来てくれたら、地下教会の関係者たちと会わせる』と約束した」

と語った。
牧師は9月20日にこのことをキム会長に伝え、キム会長が止めたにもかかわらず、2日後に北朝鮮入りして捕まったという。
キム会長は

「牧師は貿易業者幹部の話を信じ、全く疑わなかったというが、北朝鮮の保衛部が牧師を狙い、だまして北朝鮮入りさせたとみられる」

と話した。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)

【みんな生きている】化学兵器編

2013-11-23 16:34:28 | 日記
《化学兵器を巡る北朝鮮とシリアの関係》

韓国政府の高官は11月12日、化学兵器をめぐる北朝鮮とシリアのコネクションを究明するため、シリアの化学兵器廃棄を担う査察団に参加することにしたと明らかにした。査察を担当する化学兵器禁止機関(OPCW)に査察への参加を要請し、軍関係者等化学兵器関連の専門家のリストを事務局に送ったという。
同高官は

「韓国の専門家が加わると、北朝鮮とシリアのの化学兵器コネクションを究明する上で役立つだろう。積極的に参加を進めている」

と述べた。
9月に採択された国連安全保障理事会の決議により、OPCWは国連と共にシリアの化学兵器の廃棄に向けた活動を行っている。
OPCW査察団の立ち会いの下で、シリア当局は化学兵器の製造・配合施設等を稼働不能にし、生産された化学兵器を廃棄する予定だ。来年の上半期中に廃棄を完了しなければならず、11月15日までに具体的な工程を決める見通しだ。
査察団では約120人が活動している。1回の検証活動に約15人が入れ替わりで投入されるとみられる。韓国政府は査察団の人数が不足する懸念があり、韓国側の専門家が優先的に参加できるよう要請している。
北朝鮮とシリアをめぐっては、2009年に北朝鮮からシリアに数万着の防護服が運ばれたことが摘発された他、シリアで活動していた北朝鮮の技術者たちが事故に遭ったとの話が聞かれる等、双方が化学兵器の開発で緊密に協力したとの疑惑が浮上している。
韓国はOPCWが創設された1997年から執行理事国として活動している。OPCW査察団には韓国出身の職員1人が加わっている。軍の化学兵器専門家出身で2005年にOPCWに入った同職員は現地査察に投入される予定という。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)

【みんな生きている】帰国事業編/週刊朝日

2013-11-23 16:30:27 | 日記
ほぼ30年前に幕が降りた在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業は、日・朝関係の原点だ。国連人権調査委員会がこの夏、北朝鮮の帰国事業の人権侵害を調査し、拉致事件と同様の問題があると指摘したが、日本での関心は薄い。
小島晴則さん(82歳)は、当時、共産党で帰国事業に関わっており、新潟港から北朝鮮に向かった8万8611人を見送ったという。
当時の話をジャーナリストの前川惠司氏が聞いた。



小島さんは帰国する人たちの間に踏み込み、写真を撮り、話を聞いた。日雇い労働者で酒好き、40歳近くで独り身の金さんは、「北で嫁をもらえる」と期待をふくらませていた。
満州(現・中国東北部)で知り合った朝鮮人妻を持つ日本人の大工、菅原さんは、少しでも早く「差別のない」妻の国に行くのだと言っていた。
木村食堂の朴さんは、日本人の妻を置いて「一足先に帰国する」と宣言していた。
小島さんは、自分自身が社会主義の国に帰るような気分になった。
「北朝鮮の社会主義が発展することが、日本の革命に寄与するのだ」
と高揚した。帰国船の出迎えや一緒に来る代表団とのパーティーの準備、日本各地から新潟駅に着く帰国者の歓迎の手配、帰国前の日々を過ごし帰国の最終意志を確認される日赤センターでの慰労会。目が回るような日々だったが、疲れはなかった。
国会議員の帰国協力会の代表委員の一人が、小泉純一郎元首相の父、小泉純也氏(1969年没)だった。「彼も埠頭(ふとう)に見送りに来ていた。感無量だったのか、無言で見送っていた」ことを小島さんは覚えている。
「ただ、帰国する日本人妻は不安そうだった。『朝鮮総連は3年経てば日本に里帰りできると言っているけど、行ったきりにならないか』と尋ねてくる人もいた。私は、『いやあ、大丈夫ですよ。日本人妻は優先的に戻れますよ。統一だってすぐ。それが歴史の流れ』と答えたものだった」
帰国船が入港すると、小島さんたちは打ち合わせと称して船内に入った。テーブルにワインやビール、ウイスキー、キムチやつまみが並んでいた。
「日本より豊かだと錯覚した。朝から酒を飲めるなんて、社会主義はいいなと思った」
帰国事業が始まって2年ぐらいすると、帰国者から日本の親族あてに、「ものを送ってくれ」という手紙が届いている、と噂で聞いた。そんなことはデマだと一蹴して気にしなかった。帰国船でやってきた朝鮮赤十字会の幹部は、「病気だっただれそれは、共和国(北朝鮮の意)での治療ですっかり回復した」と、いいことずくめの近況を伝えた。祖国では至れり尽くせりだという帰国者の手紙が、帰国協力会には届いていた。
当時、朝鮮総連でもごく一部の最高幹部を除くと、北朝鮮の実相を知らなかった。北朝鮮へ行ったら最後、日本に再入国はできなかったからだ。
北朝鮮の実像の片鱗に触れたのは、1964年7月だった。日・朝友好青年使節団5人の一人として訪朝したのだ。小島さんの資料では、すでに8万1539人を「北の楽園」へ見送っていた。平壌の夜は真っ暗だった。街角で見かける女性の肌が汚れていた。車のタイヤはすり減り、ひびが入っていた。全く予想外だった。
東海岸の都市、元山(ウォンサン)で、向こうから歩いてくる30人ほどの男たちの一団が日本語でしゃべっていた。帰国者だと直感した。近づいた途端、案内人が、「小島さん、しゃべらないでください」と止めた。しかし持ち前の気性で構わず小島さんは、「あんたたち、帰国者か」と声をかけた。
「そうだ」と返事が返ってきた。案内人がまた、「しゃべらないでください」と叫んだ。すると、男たちは沈黙し、もう口を開こうとしなかった。3週間の旅だったが、5日目には嫌になっていた。
北朝鮮社会の素晴らしさを謳い、多くの在日朝鮮人に「日本人が書いた本だから」と地上の楽園を信じさせた『38度線の北』の著者、歴史学者の寺尾五郎氏(1999年没)に帰国後会うや、「聞くと見るとは大違いでした」と率直に吐露した。「そうなんだよ」と、平然とうなずく寺尾氏に、この人は自分をごまかしていると直感した、と小島さんは言う。
しかし、小島さんも同じだった。朝鮮総連の幹部から、「私がまだ見ていない祖国はどうでした」と尋ねられ、「お国はすばらしかった」と答えた。本当かなという表情を浮かべる幹部もいた。すでに帰国者は激減し、月に1度、船が出航するかどうかになっていた。
小島さんは新潟県内80カ所で、訪朝報告会を開いた。ここでも平然と、「帰国者はなんの心配もなく幸福に暮らしている」としゃべったという。「まだ、社会主義への幻想があったから」と釈明するが、それだけではなかったろう。帰国事業は「仕事」だった。やめたら飯の食い上げだ。訪朝後、帰国しようか迷っている人に、「何も心配ない」と背中を押すこともあった。
「希望を持って帰る人たちに、帰るなとは言えなかった。頑張ってください、と言うしかなかった」と語った。



《参考・帰国事業》

【北朝鮮と朝鮮総連による詐欺行為。高政美さんが真実を語る(2009年)】

50年前の1959年12月14日。
日本の警察官2,000人の護衛を受けながら3,000人余りの在日朝鮮人が新潟港に押し寄せた。
「金日成(キム・イルソン)将軍の歌」や北朝鮮の国旗、そして万歳の歓声が上がる中、午後2時、在日朝鮮人とその家族975人が旅客船2隻に乗り込み「地上の楽園」へと向かった。
その2日後の12月16日、彼等は北朝鮮の清津港に到着した。
しかし、彼等を待ち受けていたのは北朝鮮が宣伝した「地上の楽園」ではなく、壮絶な苦難だった。
こうして帰国事業により北朝鮮に渡った在日朝鮮人は1984年までに合計93,340人に上る。
大阪府で生まれた高政美(コ・ジョンミ)さん(49歳)もその一人だった。当時3歳だった1963年10月18日、第111次帰国船に乗り込んだ。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の幹部で帰国事業の実務を担当していた両親・兄弟4人と一緒だった。
だが、悲劇は清津港に到着したその日から始まった。
2003年に北朝鮮を脱出して日本に戻って以来、朝鮮総連を相手取り法廷闘争を続ける高さんに『朝鮮日報』紙の記者が12月11日に大阪で会い、話を聞いた。



『朝鮮日報』(以下、Q)
清津港に到着した日にどんなことがあったのか?
高政美さん(以下、A)
当時10代だった兄がいた。北朝鮮の風景を見て落胆し「日本に帰る」と言って泣くと、北朝鮮の人たちが兄を連れて行った。兄と再会したのはその5年後、私が8歳のときだった。兄に会うために弁当を作り、一番いい服を着て行った記憶がある。

Q・どこで会ったのか?
A・山奥にある収容所だった。まるで動物園の檻のようで、鉄格子の中には20人ほどいたと思う。みんなライオンのように髪が長かった。大小便の上で寝そべったり、這い回ったり…そのうちの一人が引っ張り出された。顔は浅黒く、髪が腰まであった。母が私の腕をつかんだ。とても痛かった。一度顔を見た父は、私たちを連れてすぐにその場を離れた。

Q・その後、兄に会ったことはあるか?
A・ない。1971年、写真もないまま死亡通知書だけが送られて来た。実際、面会したり死亡通知書を受け取ることが出来たのも父に力があったため可能だった。他の帰国者たちは家族と生き別れになったあと、消息を知ることさえも出来なかった。



今年11月に日本で出版された『北朝鮮帰国事業』によると、帰国した在日朝鮮人の大半は
1)朝鮮戦争中に北朝鮮から韓国に渡った人の家族
2)反革命集団の構成員とその家族
3)戦争捕虜・中小商人・聖職者等
と同様に「信用出来ない階層」に分類され、教養改造や監視・差別の対象となった。全員が資本主義を経験した上に、スパイの可能性があるという理由だった。



Q・父親は北朝鮮でどんな仕事をしていたのか?
A・日本では法学を勉強し帰国事業を担当していたが、北朝鮮では新義州の製紙機械工場で副支配人を務めていた。帰国者の身分では北朝鮮で法関係の仕事は出来なかった。

Q・父親の故郷は北朝鮮だったのか?
A・済州島だ。

Q・裏切られた気持ちは相当なものだったのでは?
A・どんなひどい仕打ちを受けても不満を言えない社会が北朝鮮だ。一晩中泣いて、食事も出来ず、苛立ちだけが募った。父親も5ヶ月間、どこかに連れて行かれたことがあった。1976年のことだ。戻って来た父親は尻の肉が腐り、真っ黒な血の膿が溢れていた。骨が見えるところに数ヶ月間、消毒用の綿を詰め込んだ。生きて戻って来れたのが奇跡だった。一度連行されると大半は戻って来なかった。当事者は死んで、家族は収容所に連れて行かれる。北朝鮮で帰国者は人間扱いされなかった。



大阪地方裁判所に提訴した高さんの訴状によると、父親が連行されたのは朝鮮労働党への入党を拒否したためだった。
父親は北朝鮮に裏切られたとの思いから家族の入党も反対したという。



Q・とても後悔したのでは?
A・親は晩年「私が同胞を(北朝鮮に)送ったから、その罰を受けているのだ」と話していた。父親はいつも(帰国事業を)「大誘拐事件」と言っていた。

Q・朝鮮総連の幹部だったのに、北朝鮮の事情を知らなかったのか?
A・だまされたという事実は北朝鮮に行ってから知った。(帰国事業の前に)直接行って実情を把握していなかったことをとても後悔していた。亡くなるときまで「人を信じるな。必ず確認しろ。確認しなければ自分も信じるな」と話していた。

Q・学生時代に苦労した思い出は?
A・日本から持って来た服を人民学校(小学校に相当)に着て行ったら、全部引き裂かれて裸にされたことがある。「思想が悪い」との理由だった。



高さんは1980年、新義州第一師範大学を卒業したあと、新義州第二師範大学と新義州体育大学の教員として「芸術体操」を教えた。
1992年4月25日、北朝鮮軍創建60周年閲兵式にも参加し、金正日(キム・ジョンイル)総書記を実際に見る「栄光」も味わったという。



Q・北朝鮮に対して幻滅を感じ始めたきっかけは?
A・平壌にいたとき大学から急に「新義州に行け」との指示を受けた。1995年5月のことだ。駅に降り立つと、腐った臭いが充満していた。飢え死にした人の死体だった。食べ物を求めて北朝鮮各地から中国に近い新義州に人々が殺到し、息絶えた死体が積み重なっていた。新義州の金日成主席の銅像前にも死体が転がっていた。死体を片付けるため、体力がある体育科の学生を動員したのだ。鴨緑江近くの国境から作業を始め、駅前の旅館4室に死体を集めた。死体の上に消毒液を撒いて、その上に死体を重ねていった。2日経つと4室が全て埋まった。夜には当局が管理する山に直径5mほどの大きな穴を掘り、そこに死体を埋めた。

Q・北朝鮮を脱出した理由は?
A・私がカネを貸してあげた人が事件にかかわって捕まったため大学を解雇され、二人の子供と一緒に山奥に追放された(医師だった夫は以前に病死)。娘は大学進学を準備中で、息子は体操選手候補だった。家族全員の人生が終わった瞬間だった。

Q・日本を選んだ理由は?
A・北朝鮮であまりにもひどい差別を受けた。韓国にいる脱北者は結局のところ、私たちを差別した人たちだ。その中に入ってまた「帰国者」の差別を受けるのが怖かった。原点に戻りたかった。

Q・朝鮮総連を相手に訴訟を起こした理由は?
A・韓国では帰国者は自分の意志で北朝鮮を選んだと思われている。しかし実際は違う。北朝鮮と朝鮮総連による詐欺に同胞9万人がだまされて渡航した誘拐事件だ。この事実を世間に知らせたかった。

Q・11月30日、「時効が過ぎた」との理由で裁判所から棄却されたが?
A・これまで訴訟を起こせない場所に閉じ込められて生きて来た。だから時効というものはあり得ない。最後まで闘う。