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【みんな生きている】北朝鮮人権討論会編/NHK[全国]

2015-05-03 06:56:25 | 日記
《北朝鮮は人権侵害の総本山!「発狂乱心」の北朝鮮外交官、人権討論会でとんだ恥さらし》

【5月1日6時55分】
国連本部で北朝鮮の人権状況を巡る討論会が開かれ、脱北者が自らの体験を証言していたところ、突然北朝鮮の外交官がそれを遮って一方的に声明を読み上げ、会場は一時騒然となりました。
ニューヨークの国連本部で4月30日、北朝鮮の人権状況を巡ってアメリカと韓国の政府が主催する討論会が開かれ、北朝鮮から逃れた脱北者も参加しました。
このうち、食料不足で父親を亡くしたあと母親らとも生き別れて16歳のときに中国側に脱出したという24歳の男性は、

「北朝鮮を独裁国家として見るだけでなく、窮状の中でも希望を失わずに生きている人々がいることを忘れないでほしい」

と呼びかけました。
また、中国から北朝鮮に強制送還されて投獄された経験を持つという28歳の女性は、涙ながらに

「苦しみ続けている北朝鮮の子どもたちに自由を与えてほしい」

と訴えました。
こうした証言が行われていたなか、会場にいた北朝鮮代表部の外交官3人が突然、脱北者たちの証言を遮ってアメリカや韓国を非難する声明を一方的に読み上げました。
アメリカのサマンサ・パワー(Samantha Power)国連大使の指示で北朝鮮の外交官たちのマイクは切られましたが、会場は一時騒然となりました。
このあと北朝鮮の外交官たちは罵声を浴びながら退出し、「くずのような連中を相手に話す価値もない」と脱北者たちへの敵意をあらわにしていました。
北朝鮮を巡っては、5月5日にもニューヨークで日本政府が主催する拉致問題のシンポジウムが開かれることになっています。



《参考・全巨里教化所》

【脱北者が証言する北朝鮮教化所での「狂気の沙汰」(2011年)】
「遺体から流れた血や体液でぐちゃぐちゃになった床を歩いたことがあるだろうか?私は毎日がそうだった。遺体を食べて丸まると太ったネズミを見たことがあるだろうか?私はそれを毎日見かけていた」
脱北者のイ・スボクさん(55歳)は北朝鮮北東部の咸鏡北道会寧市にある全巨里(チョンゴリ)教化所に収監されていた当時、遺体の処理を担当していた。教化所は刑務所に相当する施設で、政治犯や経済犯が収容されているとされる。
イさんは

「教化所では遺体を50体~60体ずつ積み上げていた。これほどの地獄は他に無い」

と当時の残酷な光景を思い起こした。
イさんは1990年半ばに先に脱北した異母兄弟から生活資金の支援を受けていたことが保衛部に発覚、「スパイだ」として拷問を受けて教化所に連れて行かれた。
イさんは「密輸犯」として1999年6月~2001年1月まで服役した。その後、北朝鮮で外貨稼ぎをしていたところ「反動」扱いされ、昨年8月に脱北して韓国に渡った。
イさんは

「1年6ヶ月の服役期間に教化所で850人の遺体を処理した」

と証言した。
当時、全巨里教化所には最大約1,200人が収容されていた。イさんが担当していた遺体保管所は3m四方で、床はセメントだった。また、収容者は栄養状態が極度に悪く、病気になっても治療を受けられないまま重労働をさせられていた。

「年齢や性別を問わず、ほぼ毎日麻袋やビニール袋に入った遺体1、2体が運ばれて来た」

遺体は保管所に積み上げて置き、1ヶ月に1回ほど火葬場にトラックで運んで処理されていた。
イさんは

「遺体をすぐに火葬せずに積み上げるのは、遺体を運ぶトラックの燃料が足りないためだ」

と説明した。
イさんは6月21日、こうした北朝鮮の人権侵害状況を韓国国家人権委員会北韓人権センターに届け出た。6月22日で設置から100日目を迎えた同センターには23件、申し立て人数計718人の届け出が寄せられた。
イさんは

「遺体を食べるネズミの姿が今でも忘れられない。体が30cmにも達するネズミもいて、丸まると太っていた。積み上げられた遺体はネズミやウジ虫に食べられて軽くなるほどだ」

と語った。
教化所内部でも遺体保管室は秘密施設だったという。教化所の病院に隣り合う遺体保管室の横では常に武装した軍人が警備にあたっており、一般の収容者は中を覗き見ることが出来なかった。
教化所で人の死は日常の出来事だったという。
イさんは

「腹が減ったまま働いて倒れたり、山で毒草を食べて死んだりするケースも多かった。拷問を受けたり、殴り殺されたりする例も頻繁にあった」

と語った。
収容者が死んでいくことは全く問題視されなかったという。
イさんは

「教化所の収容者は『どうせ反動分子だ』と思われていたため、収容者が死ぬことを気にかける人はいなかった」

と話した。

【反動、反動分子】
北朝鮮では反体制のことを反動と呼ぶ。また、反体制者のことを反動分子と呼ぶ。
ちなみに、日本人は「日本反動分子」。



◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(拉致被害時28歳)
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

《特定失踪者・金田竜光さんについて》
◆氏名:金田 竜光
(かねだたつみつ)
◆失踪年月日:昭和54(1979)年ごろ
◆生年月日:昭和27(1952)年
◆性別:男
◆当時の年齢:26歳
◆身長:180cm
◆当時の身分:ラーメン店店員
◆当時の住所:兵庫県神戸市東灘区青木
◆失踪場所:神戸市東灘区

【失踪状況】
金田さんは韓国籍。
田中 実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。
昭和52年ごろ、田中 実さん拉致実行犯・韓竜大(ハン・ヨンデ)が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中 実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。同年、韓竜大の誘いにより、田中 実さんがオーストリア・ウィーンに出国。
半年ほどして、田中 実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。
田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。
連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。
その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づく者がいなかった。
「救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽(チョ・ジョンガリ)についての告発状を兵庫県警に提出している。

《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

《救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。

《新潟県警・愛知県警公開特定失踪者・渡邉浩成さんについて》
◆氏名:渡邉 浩成
(わたなべひろまさ)
◆当時の年齢:23歳(昭和60年当時)
◆当時の住所:愛知県名古屋市中区
◆新潟県三条市出身
◆当時の職業:郵便局員
◆身長:170㎝くらい

【失踪状況】
昭和60年12月、岐阜県岐阜市の職場を出た後、行方不明になっています。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】北朝鮮人権討論会編/JNN

2015-05-03 06:52:27 | 日記
《北朝鮮は人権侵害の総本山!「発狂乱心」の北朝鮮外交官、人権討論会でとんだ恥さらし》

【5月1日金曜日】
国連で行われた北朝鮮の人権侵害をめぐる討論会で、出席した北朝鮮の外交官が突然、発言の順番を無視してアメリカを批判する声明を読み上げ、会場は一時騒然としました。

脱北者が強制収容所での体験等について証言する討論会。北朝鮮の人権侵害をテーマに国連本部で開かれました。

「一番残念なのは、妹に二度と会えなかったことです」
(脱北者)

このスピーチの直後、突然、出席していた北朝鮮の外交官がアメリカを批判する声明を読み始めました。

「アメリカが日々犯している人権侵害の氷山の一角で…」
(北朝鮮外交官)
「マイクを切ってください。今は意思表明の時間ではありません」
(アメリカ/サマンサ・パワー〈Samantha Power〉国連大使)
「後で発言の機会を取りますので待っていただけますか」
(司会/バーバラ・デミック〈Barbara Demick〉氏)

外交官はマイクの音声を切られた後も、司会や大使の制止を無視して声明を読み続けます。あきれ顔で見守る出席者たち。すると…

「外に出せ!」
「金正恩(キム・ジョンウン)を訴えろ!」
「訴えろ!」

会場の脱北者たちからは「北朝鮮を解放しろ」等と怒号が飛びました。
混乱後に再開した討論会。脱北者の女性がスピーチする間に北朝鮮の外交官は会場を後にしました。
こうした討論会に北朝鮮の外交官が出席するのは異例で、会が始まる前にもアメリカを非難する声明文を参加者に配っていました。



《参考・全巨里教化所》

【脱北者が証言する北朝鮮教化所での「狂気の沙汰」(2011年)】
「遺体から流れた血や体液でぐちゃぐちゃになった床を歩いたことがあるだろうか?私は毎日がそうだった。遺体を食べて丸まると太ったネズミを見たことがあるだろうか?私はそれを毎日見かけていた」
脱北者のイ・スボクさん(55歳)は北朝鮮北東部の咸鏡北道会寧市にある全巨里(チョンゴリ)教化所に収監されていた当時、遺体の処理を担当していた。教化所は刑務所に相当する施設で、政治犯や経済犯が収容されているとされる。
イさんは

「教化所では遺体を50体~60体ずつ積み上げていた。これほどの地獄は他に無い」

と当時の残酷な光景を思い起こした。
イさんは1990年半ばに先に脱北した異母兄弟から生活資金の支援を受けていたことが保衛部に発覚、「スパイだ」として拷問を受けて教化所に連れて行かれた。
イさんは「密輸犯」として1999年6月~2001年1月まで服役した。その後、北朝鮮で外貨稼ぎをしていたところ「反動」扱いされ、昨年8月に脱北して韓国に渡った。
イさんは

「1年6ヶ月の服役期間に教化所で850人の遺体を処理した」

と証言した。
当時、全巨里教化所には最大約1,200人が収容されていた。イさんが担当していた遺体保管所は3m四方で、床はセメントだった。また、収容者は栄養状態が極度に悪く、病気になっても治療を受けられないまま重労働をさせられていた。

「年齢や性別を問わず、ほぼ毎日麻袋やビニール袋に入った遺体1、2体が運ばれて来た」

遺体は保管所に積み上げて置き、1ヶ月に1回ほど火葬場にトラックで運んで処理されていた。
イさんは

「遺体をすぐに火葬せずに積み上げるのは、遺体を運ぶトラックの燃料が足りないためだ」

と説明した。
イさんは6月21日、こうした北朝鮮の人権侵害状況を韓国国家人権委員会北韓人権センターに届け出た。6月22日で設置から100日目を迎えた同センターには23件、申し立て人数計718人の届け出が寄せられた。
イさんは

「遺体を食べるネズミの姿が今でも忘れられない。体が30cmにも達するネズミもいて、丸まると太っていた。積み上げられた遺体はネズミやウジ虫に食べられて軽くなるほどだ」

と語った。
教化所内部でも遺体保管室は秘密施設だったという。教化所の病院に隣り合う遺体保管室の横では常に武装した軍人が警備にあたっており、一般の収容者は中を覗き見ることが出来なかった。
教化所で人の死は日常の出来事だったという。
イさんは

「腹が減ったまま働いて倒れたり、山で毒草を食べて死んだりするケースも多かった。拷問を受けたり、殴り殺されたりする例も頻繁にあった」

と語った。
収容者が死んでいくことは全く問題視されなかったという。
イさんは

「教化所の収容者は『どうせ反動分子だ』と思われていたため、収容者が死ぬことを気にかける人はいなかった」

と話した。

【反動、反動分子】
北朝鮮では反体制のことを反動と呼ぶ。また、反体制者のことを反動分子と呼ぶ。
ちなみに、日本人は「日本反動分子」。



《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
「よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

◆昭和55(1980)年5月頃
欧州における日本人男性拉致容疑事案
被害者:松木 薫さん(拉致被害時26歳)
被害者:石岡 亨さん(拉致被害時22歳)
2人とも欧州滞在中の昭和55年に失踪。
昭和63年に石岡さんから日本の家族に出した手紙(ポーランドの消印)が届き、石岡さん、松木さん、そして有本恵子さんが北朝鮮に在住すると伝えてきた。
北朝鮮側は、石岡 亨さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で有本恵子さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
また、同様に松木 薫さんについても、1996(平成8)年8月に交通事故で死亡したとして、平成14年9月及び平成16年11月に開催された第3回日朝実務者協議と2回にわたり、北朝鮮側から松木さんの「遺骨」の可能性があるとされるものが提出されたが、そのうちの一部からは、同人のものとは異なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得た。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の妻・森 順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子について、平成19年6月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

《救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.

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【みんな生きている】北朝鮮人権討論会編/ANN

2015-05-03 06:48:23 | 日記
《北朝鮮は人権侵害の総本山!「発狂乱心」の北朝鮮外交官、人権討論会でとんだ恥さらし》

北朝鮮の人権問題を話し合う国連の会合に出席した北朝鮮の外交官がアメリカを批判する文書を一方的に読み上げ、会合が一時、中断する騒ぎがありました。

「アメリカによる人権侵害の氷山の一角で…」
(北朝鮮外交官)
「マイクを切って下さい。発言の権限は与えられていません」
(サマンサ・パワー〈Samantha Power〉アメリカ国連大使)

4月30日に北朝鮮の人権侵害をテーマにした討論会が国連で開かれ、脱北者の証言を遮って、北朝鮮の国連代表部の外交官が突然、声明を読み上げ始めました。アメリカのパワー国連大使がマイクのスイッチを切るように指示しても読み続けます。最終的には警備員が強制退去させる準備を始めるなど、一時、緊張が高まりました。
北朝鮮側は、討論会の前にも「北朝鮮に対する敵意を広げるため、アメリカが人権問題を利用している」等と主張する声明文を配布していました。



《参考・全巨里教化所》

【脱北者が証言する北朝鮮教化所での「狂気の沙汰」(2011年)】
「遺体から流れた血や体液でぐちゃぐちゃになった床を歩いたことがあるだろうか?私は毎日がそうだった。遺体を食べて丸まると太ったネズミを見たことがあるだろうか?私はそれを毎日見かけていた」
脱北者のイ・スボクさん(55歳)は北朝鮮北東部の咸鏡北道会寧市にある全巨里(チョンゴリ)教化所に収監されていた当時、遺体の処理を担当していた。教化所は刑務所に相当する施設で、政治犯や経済犯が収容されているとされる。
イさんは

「教化所では遺体を50体~60体ずつ積み上げていた。これほどの地獄は他に無い」

と当時の残酷な光景を思い起こした。
イさんは1990年半ばに先に脱北した異母兄弟から生活資金の支援を受けていたことが保衛部に発覚、「スパイだ」として拷問を受けて教化所に連れて行かれた。
イさんは「密輸犯」として1999年6月~2001年1月まで服役した。その後、北朝鮮で外貨稼ぎをしていたところ「反動」扱いされ、昨年8月に脱北して韓国に渡った。
イさんは

「1年6ヶ月の服役期間に教化所で850人の遺体を処理した」

と証言した。
当時、全巨里教化所には最大約1,200人が収容されていた。イさんが担当していた遺体保管所は3m四方で、床はセメントだった。また、収容者は栄養状態が極度に悪く、病気になっても治療を受けられないまま重労働をさせられていた。

「年齢や性別を問わず、ほぼ毎日麻袋やビニール袋に入った遺体1、2体が運ばれて来た」

遺体は保管所に積み上げて置き、1ヶ月に1回ほど火葬場にトラックで運んで処理されていた。
イさんは

「遺体をすぐに火葬せずに積み上げるのは、遺体を運ぶトラックの燃料が足りないためだ」

と説明した。
イさんは6月21日、こうした北朝鮮の人権侵害状況を韓国国家人権委員会北韓人権センターに届け出た。6月22日で設置から100日目を迎えた同センターには23件、申し立て人数計718人の届け出が寄せられた。
イさんは

「遺体を食べるネズミの姿が今でも忘れられない。体が30cmにも達するネズミもいて、丸まると太っていた。積み上げられた遺体はネズミやウジ虫に食べられて軽くなるほどだ」

と語った。
教化所内部でも遺体保管室は秘密施設だったという。教化所の病院に隣り合う遺体保管室の横では常に武装した軍人が警備にあたっており、一般の収容者は中を覗き見ることが出来なかった。
教化所で人の死は日常の出来事だったという。
イさんは

「腹が減ったまま働いて倒れたり、山で毒草を食べて死んだりするケースも多かった。拷問を受けたり、殴り殺されたりする例も頻繁にあった」

と語った。
収容者が死んでいくことは全く問題視されなかったという。
イさんは

「教化所の収容者は『どうせ反動分子だ』と思われていたため、収容者が死ぬことを気にかける人はいなかった」

と話した。

【反動、反動分子】
北朝鮮では反体制のことを反動と呼ぶ。また、反体制者のことを反動分子と呼ぶ。
ちなみに、日本人は「日本反動分子」。



《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
「よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

◆昭和55(1980)年5月頃
欧州における日本人男性拉致容疑事案
被害者:松木 薫さん(拉致被害時26歳)
被害者:石岡 亨さん(拉致被害時22歳)
2人とも欧州滞在中の昭和55年に失踪。
昭和63年に石岡さんから日本の家族に出した手紙(ポーランドの消印)が届き、石岡さん、松木さん、そして有本恵子さんが北朝鮮に在住すると伝えてきた。
北朝鮮側は、石岡 亨さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で有本恵子さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
また、同様に松木 薫さんについても、1996(平成8)年8月に交通事故で死亡したとして、平成14年9月及び平成16年11月に開催された第3回日朝実務者協議と2回にわたり、北朝鮮側から松木さんの「遺骨」の可能性があるとされるものが提出されたが、そのうちの一部からは、同人のものとは異なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得た。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の妻・森 順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子について、平成19年6月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

《救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】北朝鮮人権討論会編/NNN

2015-05-03 06:44:26 | 日記
《北朝鮮は人権侵害の総本山!「発狂乱心」の北朝鮮外交官、人権討論会でとんだ恥さらし》

アメリカ・ニューヨークの国連本部で開かれていた北朝鮮の人権問題をめぐる討論会で、脱北者が証言している最中に突然、北朝鮮の外交官が発言を始め、一時騒然となりました。
討論会は国連本部で4月30日、アメリカと韓国が主催したもので、北朝鮮から逃れた脱北者も参加していました。脱北者が飢えや貧困の現状等を訴える証言をしている最中、北朝鮮の外交官3人が突然、アメリカを非難する発言を始めました。

「アメリカでは毎日のように人権侵害が起きている」
(北朝鮮外交官)
「発言は許可されていないので、マイクを切ってください」
(サマンサ・パワー〈Samantha Power〉アメリカ国連大使)

この外交官に対し、脱北者たちが罵声を浴びせる等会場は一時騒然としました。
北朝鮮外交官は約6分にわたり一方的に声明を読み上げると、会場を後にしました。



《参考・全巨里教化所》

【脱北者が証言する北朝鮮教化所での「狂気の沙汰」(2011年)】
「遺体から流れた血や体液でぐちゃぐちゃになった床を歩いたことがあるだろうか?私は毎日がそうだった。遺体を食べて丸まると太ったネズミを見たことがあるだろうか?私はそれを毎日見かけていた」
脱北者のイ・スボクさん(55歳)は北朝鮮北東部の咸鏡北道会寧市にある全巨里(チョンゴリ)教化所に収監されていた当時、遺体の処理を担当していた。教化所は刑務所に相当する施設で、政治犯や経済犯が収容されているとされる。
イさんは

「教化所では遺体を50体~60体ずつ積み上げていた。これほどの地獄は他に無い」

と当時の残酷な光景を思い起こした。
イさんは1990年半ばに先に脱北した異母兄弟から生活資金の支援を受けていたことが保衛部に発覚、「スパイだ」として拷問を受けて教化所に連れて行かれた。
イさんは「密輸犯」として1999年6月~2001年1月まで服役した。その後、北朝鮮で外貨稼ぎをしていたところ「反動」扱いされ、昨年8月に脱北して韓国に渡った。
イさんは

「1年6ヶ月の服役期間に教化所で850人の遺体を処理した」

と証言した。
当時、全巨里教化所には最大約1,200人が収容されていた。イさんが担当していた遺体保管所は3m四方で、床はセメントだった。また、収容者は栄養状態が極度に悪く、病気になっても治療を受けられないまま重労働をさせられていた。

「年齢や性別を問わず、ほぼ毎日麻袋やビニール袋に入った遺体1、2体が運ばれて来た」

遺体は保管所に積み上げて置き、1ヶ月に1回ほど火葬場にトラックで運んで処理されていた。
イさんは

「遺体をすぐに火葬せずに積み上げるのは、遺体を運ぶトラックの燃料が足りないためだ」

と説明した。
イさんは6月21日、こうした北朝鮮の人権侵害状況を韓国国家人権委員会北韓人権センターに届け出た。6月22日で設置から100日目を迎えた同センターには23件、申し立て人数計718人の届け出が寄せられた。
イさんは

「遺体を食べるネズミの姿が今でも忘れられない。体が30cmにも達するネズミもいて、丸まると太っていた。積み上げられた遺体はネズミやウジ虫に食べられて軽くなるほどだ」

と語った。
教化所内部でも遺体保管室は秘密施設だったという。教化所の病院に隣り合う遺体保管室の横では常に武装した軍人が警備にあたっており、一般の収容者は中を覗き見ることが出来なかった。
教化所で人の死は日常の出来事だったという。
イさんは

「腹が減ったまま働いて倒れたり、山で毒草を食べて死んだりするケースも多かった。拷問を受けたり、殴り殺されたりする例も頻繁にあった」

と語った。
収容者が死んでいくことは全く問題視されなかったという。
イさんは

「教化所の収容者は『どうせ反動分子だ』と思われていたため、収容者が死ぬことを気にかける人はいなかった」

と話した。

【反動、反動分子】
北朝鮮では反体制のことを反動と呼ぶ。また、反体制者のことを反動分子と呼ぶ。
ちなみに、日本人は「日本反動分子」。



《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
「よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

◆昭和55(1980)年5月頃
欧州における日本人男性拉致容疑事案
被害者:松木 薫さん(拉致被害時26歳)
被害者:石岡 亨さん(拉致被害時22歳)
2人とも欧州滞在中の昭和55年に失踪。
昭和63年に石岡さんから日本の家族に出した手紙(ポーランドの消印)が届き、石岡さん、松木さん、そして有本恵子さんが北朝鮮に在住すると伝えてきた。
北朝鮮側は、石岡 亨さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で有本恵子さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
また、同様に松木 薫さんについても、1996(平成8)年8月に交通事故で死亡したとして、平成14年9月及び平成16年11月に開催された第3回日朝実務者協議と2回にわたり、北朝鮮側から松木さんの「遺骨」の可能性があるとされるものが提出されたが、そのうちの一部からは、同人のものとは異なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得た。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の妻・森 順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子について、平成19年6月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

《救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】北朝鮮人権討論会編/FNN

2015-05-03 06:40:30 | 日記
《北朝鮮は人権侵害の総本山!「発狂乱心」の北朝鮮外交官、人権討論会でとんだ恥さらし》

国連の会合で北朝鮮当局者がアメリカを一方的に非難し、会合が一時、混乱しました。
北朝鮮の外交官が、「アメリカでは毎日人権侵害が…」と発言すると、アメリカのサマンサ・パワー(Samantha Power)大使は、「マイクをおろして発言をやめてください」と制止しました。
北朝鮮の人権侵害に関する国連の討論会で、4月30日、脱北者が証言をしている最中に、北朝鮮の外交官が突然、アメリカを非難する声明を読み上げ始めました。
アメリカのパワー大使が制止し、マイクの電源が切られたあとも発言を続けたため、脱北者から「北朝鮮は人殺しをやめろ!」と怒号が上がりました。
外交官たちは、5~6分にわたって一方的に声明を読み上げたあと、罵声を浴びながら議場をあとにしました。



《参考・全巨里教化所》

【脱北者が証言する北朝鮮教化所での「狂気の沙汰」(2011年)】
「遺体から流れた血や体液でぐちゃぐちゃになった床を歩いたことがあるだろうか?私は毎日がそうだった。遺体を食べて丸まると太ったネズミを見たことがあるだろうか?私はそれを毎日見かけていた」
脱北者のイ・スボクさん(55歳)は北朝鮮北東部の咸鏡北道会寧市にある全巨里(チョンゴリ)教化所に収監されていた当時、遺体の処理を担当していた。教化所は刑務所に相当する施設で、政治犯や経済犯が収容されているとされる。
イさんは

「教化所では遺体を50体~60体ずつ積み上げていた。これほどの地獄は他に無い」

と当時の残酷な光景を思い起こした。
イさんは1990年半ばに先に脱北した異母兄弟から生活資金の支援を受けていたことが保衛部に発覚、「スパイだ」として拷問を受けて教化所に連れて行かれた。
イさんは「密輸犯」として1999年6月~2001年1月まで服役した。その後、北朝鮮で外貨稼ぎをしていたところ「反動」扱いされ、昨年8月に脱北して韓国に渡った。
イさんは

「1年6ヶ月の服役期間に教化所で850人の遺体を処理した」

と証言した。
当時、全巨里教化所には最大約1,200人が収容されていた。イさんが担当していた遺体保管所は3m四方で、床はセメントだった。また、収容者は栄養状態が極度に悪く、病気になっても治療を受けられないまま重労働をさせられていた。

「年齢や性別を問わず、ほぼ毎日麻袋やビニール袋に入った遺体1、2体が運ばれて来た」

遺体は保管所に積み上げて置き、1ヶ月に1回ほど火葬場にトラックで運んで処理されていた。
イさんは

「遺体をすぐに火葬せずに積み上げるのは、遺体を運ぶトラックの燃料が足りないためだ」

と説明した。
イさんは6月21日、こうした北朝鮮の人権侵害状況を韓国国家人権委員会北韓人権センターに届け出た。6月22日で設置から100日目を迎えた同センターには23件、申し立て人数計718人の届け出が寄せられた。
イさんは

「遺体を食べるネズミの姿が今でも忘れられない。体が30cmにも達するネズミもいて、丸まると太っていた。積み上げられた遺体はネズミやウジ虫に食べられて軽くなるほどだ」

と語った。
教化所内部でも遺体保管室は秘密施設だったという。教化所の病院に隣り合う遺体保管室の横では常に武装した軍人が警備にあたっており、一般の収容者は中を覗き見ることが出来なかった。
教化所で人の死は日常の出来事だったという。
イさんは

「腹が減ったまま働いて倒れたり、山で毒草を食べて死んだりするケースも多かった。拷問を受けたり、殴り殺されたりする例も頻繁にあった」

と語った。
収容者が死んでいくことは全く問題視されなかったという。
イさんは

「教化所の収容者は『どうせ反動分子だ』と思われていたため、収容者が死ぬことを気にかける人はいなかった」

と話した。

【反動、反動分子】
北朝鮮では反体制のことを反動と呼ぶ。また、反体制者のことを反動分子と呼ぶ。
ちなみに、日本人は「日本反動分子」。



《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
「よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

◆昭和55(1980)年5月頃
欧州における日本人男性拉致容疑事案
被害者:松木 薫さん(拉致被害時26歳)
被害者:石岡 亨さん(拉致被害時22歳)
2人とも欧州滞在中の昭和55年に失踪。
昭和63年に石岡さんから日本の家族に出した手紙(ポーランドの消印)が届き、石岡さん、松木さん、そして有本恵子さんが北朝鮮に在住すると伝えてきた。
北朝鮮側は、石岡 亨さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で有本恵子さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
また、同様に松木 薫さんについても、1996(平成8)年8月に交通事故で死亡したとして、平成14年9月及び平成16年11月に開催された第3回日朝実務者協議と2回にわたり、北朝鮮側から松木さんの「遺骨」の可能性があるとされるものが提出されたが、そのうちの一部からは、同人のものとは異なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得た。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の妻・森 順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子について、平成19年6月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

《救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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