北朝鮮は、死刑を執行したと発表した張成沢(チャン・ソンテク)前国防委員会副委員長が裁判の中で、「軍の幹部たちとは面識があり、クーデターに利用できると思った」等と述べて協力者の存在に触れたとしていることから、張氏に近い軍の幹部たちに対する粛清を続けるものとみられます。
北朝鮮は12月13日、国営メディアを通じて、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父で後見人とされた張成沢前国防委員会副委員長に対する特別軍事裁判が開かれ、張氏はクーデターを企てた罪で死刑判決を言い渡され、直ちに執行されたと発表しました。
判決文では、張氏が裁判の中で協力者として先に処刑されたとみられる側近の党幹部2人の名前を挙げた他、「以前、任命された軍の幹部たちとは面識があり、軍もクーデターに同調し得ると考えた。人民保安機関の担当者や、その他数人も利用できると思った」と述べたとしています。
このように、判決文が張氏に近い軍の幹部たちの存在に触れていることから、引き続き、今回の裁判を主導した秘密警察に当たる国家安全保衛部が中心となって軍や保安機関等から張氏に近いと判断した幹部を洗い出し、粛清を展開するものとみられます。
また、北朝鮮は、張氏が「アメリカと韓国の政策に便乗し、我が国を内部から崩壊させて、党と国家の最高権力を掌握しようとした」とも主張しており、国民の結束を促そうと、米・韓両国に対して軍事的な挑発行為に出る可能性もあるとみられます。
《参考・張成沢行政部長って、どんな人?》
【忠臣?簒奪者?張成沢行政部長って、どんな人?(2011年)】
「側近とのパーティーで酔った金正日(キム・ジョンイル)が、理由はわからないが張成沢(チャン・ソンテク)の頬を殴った。他の側近ならば『自分は終わりだ』と感じ手足が震えるはずだ。しかし、張成沢は私のほうを見て笑った。度胸があり、カリスマもある」
韓国に亡命した故ファン・ジャンヨプ元朝鮮労働党書記は「北朝鮮で金正日の他に自分の名前で人を使う唯一の人物が張成沢だ」と語っていた。
■2度の失脚と復活
金総書記の妹・金敬姫(キム・ギョンヒ)軽工業部長の夫である張成沢行政部長は周りを自分の側近で固めようとしたため、金総書記によって2度失脚した経験を持つ。
張成沢氏は1978年、東平壌外交招待所で週1回自分の側近たちとパーティーを開いていたことから保衛部に摘発された。
報告を受けた金総書記は「おまえはなぜ私の真似をするのか?」と責め、張氏を降仙製鋼所の作業班長へと追放した。張氏はそこで2年間の「革命化教育」を受けた。
当時、張氏を救ったのは金総書記の妻で金正男(キム・ジョンナム)氏の母にあたる成恵琳(ソン・ヘリム)氏だ。成氏は1980年2月16日、金総書記の誕生日に張氏を強引に呼んで金総書記の前に立たせ、「張成沢を許して欲しい」と頼んだという。
張成沢氏が金総書記の信頼を取り戻したのは1989年の平壌世界青年学生祝典の前後だ。当時、平壌再建設事業を担当していた張氏は全国から資材と人材を集め、期限内に工事を終えた。
金総書記は張氏を「努力英雄」として称賛し、1989年に三大革命小組部長、1995年に朝鮮労働党組織指導部第1副部長等に抜擢した。
また、同時期に張氏の長兄・張成禹(チャン・ソンウ)次帥は平壌防衛部隊の第3軍団長に昇進し、次兄・張成吉(チャン・ソンギル)中将は戦車軍団政治委員として活動する等、張3兄弟は順調に出世した。
しかし、張成沢氏は2004年初め、側近の豪華な結婚式に出席したことが問題になり、派閥形成の疑いで再び失脚した。当時の朝鮮労働党で「張成沢人脈」とされた幹部も全て左遷された。張氏は1978年の時とは異なり地方には追放されなかったが、全ての職位を失った。
2年間公の場から姿を消した張氏は2006年、組織指導部第1副部長として復帰したのに続き、2007年末には行政部長に昇進して司法・公安機関を統括した。
韓国治安政策研究所のユ・ドンリョル先任研究官は
「金総書記が張行政部長を牽制しながらも右腕として使ったのは、同母妹の金敬姫軽工業部長の夫だからではないか。金総書記は晩年を迎えるほど、親戚や金日成(キム・イルソン)主席の側近の子孫にあたる革命第2世代を重用する傾向を見せた」
と分析した。
■No.2か?簒奪者か?
金総書記は生前、派閥の形成を全く許さなかった。しかし、張行政部長には2度も警告しながらも「金正恩の後見役」を任せた。
対北朝鮮消息筋は
「義弟である張行政部長の能力を知っていたため、妹の敬姫氏とともに若い後継者を守って欲しいという意味だ」
と分析した。
しかし、張行政部長が金総書記の意志を最後まで貫くかどうかはわからないとの見方も少なくない。国防委員会副委員長兼行政部長として公安機関を掌握しているため、反対派の監視と支持勢力の拡大にも有利な地位にあるためだ。
張行政部長は軍の将軍だった2人の兄の威光を背景として、李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長や金永春(キム・ヨンチュン)人民武力部長たち軍の実力者にも近い。
張行政部長は2002年には経済視察団の一員としてソウルを訪れたこともある他、中国にも人脈があるとされる。また、張行政部長は改革・開放に積極的だとの見方もある。
こうした理由から、韓国情報当局者からは
「(張氏が)首陽大君になることもあり得る」
という分析も聞かれる。
2001年まで13年間金総書記の料理人を務めた藤本健二氏は
「2000年頃、張成沢氏の役職が組織指導部第1副部長から(ヒラの)副部長へと降格されたことがあったが、誰も張氏を『副部長』と呼ぶことが出来ず、『部長』と呼んでいたほど威勢があった」
と話した。
張行政部長の性格についての評価は分かれる。
張行政部長と一緒に朝鮮労働党内で働いたことがある脱北者は
「ユーモアのセンスに優れ、ソフトな方だ。相手の気持ちに合わせるスタイルだ」
と語った。
しかし、ある幹部出身の脱北者は
「冷たい」
と証言した。
張行政部長のライバルだった李済剛(リ・ジェガン)組織指導部第1副部長は昨年5月末、張行政部長が国防委員会副委員長に昇進する数日前に疑わしい交通事故で死亡している。
【首陽大君】
15世紀に朝鮮王朝の第6代国王・端宗から王位を奪い、自ら王位についた。
※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)
北朝鮮は12月13日、国営メディアを通じて、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父で後見人とされた張成沢前国防委員会副委員長に対する特別軍事裁判が開かれ、張氏はクーデターを企てた罪で死刑判決を言い渡され、直ちに執行されたと発表しました。
判決文では、張氏が裁判の中で協力者として先に処刑されたとみられる側近の党幹部2人の名前を挙げた他、「以前、任命された軍の幹部たちとは面識があり、軍もクーデターに同調し得ると考えた。人民保安機関の担当者や、その他数人も利用できると思った」と述べたとしています。
このように、判決文が張氏に近い軍の幹部たちの存在に触れていることから、引き続き、今回の裁判を主導した秘密警察に当たる国家安全保衛部が中心となって軍や保安機関等から張氏に近いと判断した幹部を洗い出し、粛清を展開するものとみられます。
また、北朝鮮は、張氏が「アメリカと韓国の政策に便乗し、我が国を内部から崩壊させて、党と国家の最高権力を掌握しようとした」とも主張しており、国民の結束を促そうと、米・韓両国に対して軍事的な挑発行為に出る可能性もあるとみられます。
《参考・張成沢行政部長って、どんな人?》
【忠臣?簒奪者?張成沢行政部長って、どんな人?(2011年)】
「側近とのパーティーで酔った金正日(キム・ジョンイル)が、理由はわからないが張成沢(チャン・ソンテク)の頬を殴った。他の側近ならば『自分は終わりだ』と感じ手足が震えるはずだ。しかし、張成沢は私のほうを見て笑った。度胸があり、カリスマもある」
韓国に亡命した故ファン・ジャンヨプ元朝鮮労働党書記は「北朝鮮で金正日の他に自分の名前で人を使う唯一の人物が張成沢だ」と語っていた。
■2度の失脚と復活
金総書記の妹・金敬姫(キム・ギョンヒ)軽工業部長の夫である張成沢行政部長は周りを自分の側近で固めようとしたため、金総書記によって2度失脚した経験を持つ。
張成沢氏は1978年、東平壌外交招待所で週1回自分の側近たちとパーティーを開いていたことから保衛部に摘発された。
報告を受けた金総書記は「おまえはなぜ私の真似をするのか?」と責め、張氏を降仙製鋼所の作業班長へと追放した。張氏はそこで2年間の「革命化教育」を受けた。
当時、張氏を救ったのは金総書記の妻で金正男(キム・ジョンナム)氏の母にあたる成恵琳(ソン・ヘリム)氏だ。成氏は1980年2月16日、金総書記の誕生日に張氏を強引に呼んで金総書記の前に立たせ、「張成沢を許して欲しい」と頼んだという。
張成沢氏が金総書記の信頼を取り戻したのは1989年の平壌世界青年学生祝典の前後だ。当時、平壌再建設事業を担当していた張氏は全国から資材と人材を集め、期限内に工事を終えた。
金総書記は張氏を「努力英雄」として称賛し、1989年に三大革命小組部長、1995年に朝鮮労働党組織指導部第1副部長等に抜擢した。
また、同時期に張氏の長兄・張成禹(チャン・ソンウ)次帥は平壌防衛部隊の第3軍団長に昇進し、次兄・張成吉(チャン・ソンギル)中将は戦車軍団政治委員として活動する等、張3兄弟は順調に出世した。
しかし、張成沢氏は2004年初め、側近の豪華な結婚式に出席したことが問題になり、派閥形成の疑いで再び失脚した。当時の朝鮮労働党で「張成沢人脈」とされた幹部も全て左遷された。張氏は1978年の時とは異なり地方には追放されなかったが、全ての職位を失った。
2年間公の場から姿を消した張氏は2006年、組織指導部第1副部長として復帰したのに続き、2007年末には行政部長に昇進して司法・公安機関を統括した。
韓国治安政策研究所のユ・ドンリョル先任研究官は
「金総書記が張行政部長を牽制しながらも右腕として使ったのは、同母妹の金敬姫軽工業部長の夫だからではないか。金総書記は晩年を迎えるほど、親戚や金日成(キム・イルソン)主席の側近の子孫にあたる革命第2世代を重用する傾向を見せた」
と分析した。
■No.2か?簒奪者か?
金総書記は生前、派閥の形成を全く許さなかった。しかし、張行政部長には2度も警告しながらも「金正恩の後見役」を任せた。
対北朝鮮消息筋は
「義弟である張行政部長の能力を知っていたため、妹の敬姫氏とともに若い後継者を守って欲しいという意味だ」
と分析した。
しかし、張行政部長が金総書記の意志を最後まで貫くかどうかはわからないとの見方も少なくない。国防委員会副委員長兼行政部長として公安機関を掌握しているため、反対派の監視と支持勢力の拡大にも有利な地位にあるためだ。
張行政部長は軍の将軍だった2人の兄の威光を背景として、李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長や金永春(キム・ヨンチュン)人民武力部長たち軍の実力者にも近い。
張行政部長は2002年には経済視察団の一員としてソウルを訪れたこともある他、中国にも人脈があるとされる。また、張行政部長は改革・開放に積極的だとの見方もある。
こうした理由から、韓国情報当局者からは
「(張氏が)首陽大君になることもあり得る」
という分析も聞かれる。
2001年まで13年間金総書記の料理人を務めた藤本健二氏は
「2000年頃、張成沢氏の役職が組織指導部第1副部長から(ヒラの)副部長へと降格されたことがあったが、誰も張氏を『副部長』と呼ぶことが出来ず、『部長』と呼んでいたほど威勢があった」
と話した。
張行政部長の性格についての評価は分かれる。
張行政部長と一緒に朝鮮労働党内で働いたことがある脱北者は
「ユーモアのセンスに優れ、ソフトな方だ。相手の気持ちに合わせるスタイルだ」
と語った。
しかし、ある幹部出身の脱北者は
「冷たい」
と証言した。
張行政部長のライバルだった李済剛(リ・ジェガン)組織指導部第1副部長は昨年5月末、張行政部長が国防委員会副委員長に昇進する数日前に疑わしい交通事故で死亡している。
【首陽大君】
15世紀に朝鮮王朝の第6代国王・端宗から王位を奪い、自ら王位についた。
※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者手記集より)