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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

再び康楽寺について

2006年03月24日 14時00分55秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 之まで康楽寺について話したことを要約るると、この寺は私の父桜井兵五郎が、
国家から財団として認められ、宗教法人ではないことを話した。
ところが桜井清次、桜井能唯、太田茂雄、弁谷栄、その死後は弁谷ハシ、貞造等が宗教法人として届けでた。
これには父が康楽寺の本殿を経てることを断念したとして、弁谷栄、ハシがその文章を偽造して当時は石川郡湯涌谷村の諸官庁である松任町役場に届け出て、宗教法人として登記をしたのである。

当時は未だ石川郡湯涌谷村であり、金沢市に編入されたのは昭和29年7月であり、宗教法人と申請したのは、私の鼻の手術で私の頭脳が破壊された後の昭和28年、金沢市に編入される間際であり、地元の関係人を賄賂等で篭絡し易かったのである。
父は弁谷栄、ハシ及び堤康次郎に康楽寺のことを依託したので、この3人は相談の上、私の頭脳の破壊を担保にして宗教法人として届け出たのである。それと同時に父の麻布の本邸をドイツ大使館に売り渡す契約をして、日本国政府に売り渡したのである。この経緯は朝香の宮邸(2)で述べた通りである。
 康楽寺はあくまでも父個人の寺として、認可されていたのであって、将来本殿を建てるための財団であった。
財団であれば父の遺言通り私を父の後継人として、本殿建築の事業を行うこととなるのである
しかし宗教法人にすれば、父から事後を依託され承認した日本観光、日本タイプライターの役員たち、即ち弁谷栄、桜井清次、桜井能唯、桜井茂雄、太田秀雄,
柳田良作、本間虎二、弁谷ハシ、柳田涼子、伊東善子等は、父の康楽寺に寄付した財産を全て山分けすることが出来る。但し私を鼻の手術にかこつけて、馬鹿者にする必要があった。 女性以外は全て日本観光と日本タイプ兼任の取締役である。
しかし弁谷栄は私がいるので、日本タイプの取締役から外れている。
日本タイプとは弁谷家は関係ないことを私に示すためである。
そうゆう小賢しい知恵の持ち主であった。
前にも話したように、家に占い師を呼んで私だけを占なったり、色々心理的人間操作も勉強していた様である。
私は弁谷栄によく暗示を掛けられ、無意識にさせられたことがよくあった。
その横で、ハシは栄が私を金縛りにして操縦するのを関心して見ていたものである。
恐ろしいい人間達である。
それで私の親として私から全てを奪うわけである。脳を破壊してまで!
先日日本タイプの元重役の家に行ったが、父が私のことを頼み、株式を預けたのに
それを自分のものとして懐に入れ、投資事業組合に預けて運用させ、利益を上げているのに、悪いのは私の父の所為だとシャーシャーとしているのである。

結論からいえばこの計画が全て旨く運び、私だけが馬鹿を見る結果となった。
 父が財団として国から認可を受けた康楽寺は、すぐ本殿の建築に取り掛かる必要があったのである。
それを阻止するために、私を馬鹿にする必要があったのである。
現に父の個人の所有になる康楽寺の仏壇は、桜井能唯の所有となている。この仏壇には父がビルマから貰い受けた仏舎利が一緒になっているはずである。
この様な不法な行為が今日本国内において、堂々と行われているのである。
写真は
  父がビルマの代表から仏舎利を受ける処 日比谷公会堂


私の流転したサラリーマン時代(6)慶応大学工学部

2006年03月17日 11時22分30秒 | 私の母
私が昭和35年3月に私の父の創立した日本タイプを辞めて、当時日本タイプの重役として名を連ねていた比留間安治氏に手紙を書いて、父桜井兵五郎の事を知りたいので伺いたいと手紙をだした。当時は私は金沢市郊外の白雲楼ホテルの上に在る「康楽寺」に帰ってきていた。当時は未だ康楽寺の前は空き地になっており、後年江戸村が出来てくるにはまだまだ10年後のことである。当時は弁やハシや貞造がここを住まいとしていた。私は金沢市内に良く出かけ、図書館で父の事を調べたり、北国新聞社に出かけ、父の資料を探しにいった。北国新聞は父がかって経営していた北陸毎日新聞と昭和15年対等合併したもので、父の資本が半数入っていた。しかし新聞社の人は父の写真一枚のみ見せただけであった。私は当時は無職であり就職の世話を頼むつもりで比留間氏のところにいったのである。東中野駅前の広大な屋敷であった。私は比留間氏とは初対面であった。私が比留間邸を尋ねたとき、玄関に入る手前の応接間の窓が開けられていて、白髪の老人が此方を見ていた。この人は来客である。比留間氏によるとその人は王子製紙の社長であると私に後で話した。私が玄関で案内を請うと別室に案内され暫く待たされた。比留間氏に会うと父の事を聞きたいと話したが、その時若い青年が入ってきて、彼も父の事を尋ねて来たと言うのである。彼の父はこの大戦で戦死したのでそのことを聞きに来たらしい。結局邪魔者が入ってきた為、私は父の話や職の話も出来ずに終わってしまった。当時は日本タイプを辞めた後であったが、日本タイプの重役の一人であった桜井清次のガレージを改造したシモタヤに住んでいた。私が比留間氏宅から帰ってくると、彼が失業保険を貰えるからその手続をしろと言ううのである。私は失業保険なんて存在することを始めて知ったのである。桜井清次は私の戸籍上の母の弟であり、倒産した日本観光の社長、会長でもあった。慶応大学の近くの職業安定所で失業保険の手続きを終わると、慶応大学の事務員としての求人があり、それに応募したところ、当時は小金井市あった慶応大学工学部の事務員として採用されたのである。それと同時に桜井清次宅より退去を求められた。そこで弁や貞造の嫁の柏家が天理教の熱烈な信者で、神宮前の大きな教会に紹介されそこに下宿する事となった。その教会は柏木庫治といって参議院議員をしたこともある人物で、その息子は中曽根元総理の同級生であった。この柏木氏の紹介で弁や貞造は柏智子なる嫁を紹介され結婚したのである。この教会から小金井市の慶応大学工学部の事務員としての生活が始まった。しかし一年半ほどで辞めてしまったのである。その理由はいろいろあるが、当時のことで忘れられない出来事があった。入って一年程してからの事であるが、事務員が集まって誰かの噂さ話をしていた。私は昼時間であったので外に出て日光浴をしていた。皆が台所の様なところで話をしていたので、その話が自然と耳にはってきたが、の内容は次の如くであった。その話の主役をしていた後に慶応大学塾長の秘書課長となった人であるが、彼の話の内容は「だから皇太子とはいとこ同士になり三井高陽氏ともそうであり、母親の父も大臣であった」という様な内容であった。私がそこに行くと皆一斉に顔を見合わせビックリした様子で、押し黙ったものであった。私は誰の話をしているのかを聞くと、誰も口を閉ざして一言も発しなかった。私は奇異な雰囲気の中皆の顔を見ていると、その部屋から皆居なくなってしまったのである。これは私の母三条西治子のことを話しているのを知ったのはズット後年になって、母を事を少しづつ思い出し手からのことである

私の流転したサラリーマン時代(5)

2006年03月16日 09時17分52秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私の日本タイプ時代は昭和33年から35年頃までであった。この頃ようやく父の事や祖母桜井トキのことを思い出したたのである。
残念ながら脳味噌が破壊されていたため、私の母三条西治子のことを思い出すこと
が不可能であった。
私のその頃の精神構造はどのようなものであったか、今考えると不思議である。
私の高校2年の時金沢国立第一病院で鼻の手術を受けた時、私の高校の国語の
中村というう先生が私の鼻の手術をしたことは既にはなしたが、当時はそんなことは
あり得ないと否定する気持ちが強かった。
よく似ている人であると思っていたのである。
しかしその偽医者は国立病院から消えていた。
私が同級生の浜谷徹雄から必要に鼻の手術を迫られ、とうとう受ける羽目になった
経緯についえも記述した。
私を保護をすべき人間が、私の脳の破壊を狙った工作ししていたことは私の思考
を超えるものであった。
しかも国立病院の院長の下で行なわれた手術である
当時の私の思考力に欠陥があったのであろう。
そこを弁谷家一族はねらったのである。
第一に私の友人を私か遠離け、浜谷徹雄のみ私の友人として、私に近付けたこと
である。
もっと広く友人を交際できればこんな事態に至らなかった。
弁谷ハシが私に毒薬を飲ませ、神経を予め、鼻の手術を受ける前にある程度
破壊状態にしておいたのである

弁谷ハシが私の味噌汁の中に薬を入れる現場を見た事については既に記述して
ある。
世界的鼻の手術の名医、国立病院これに、私は惑わせられたのである。
 弁谷貞造が白雲楼を百数十億の抵当権をつけて、最後は5千万円で落札
金沢市に寄付させたこととその手法が似ている

父桜井兵五郎が国から財団として認められた康楽寺を、法人として父の資産を
横流しし、日本観光を破産に落とし入れた手口と似ている。
その裏では地元の有力政治家を使い、また投資事業組合をとうして流失資金
をプール、全国にホテル展開をさせるなど、今のライブドアー以上である。
 日本タイプはいまをときめくキャノンに資本、業務提携と偽り、会社を売り渡し
日本文化を担っていた伝統ある日本タイプを地上から消滅させた。
日本タイプは日本の文化である日本語の機械化、合理化、標準化ひては東洋
文化であるアジアにいたる文化の絆を深める目的の会社である。
単に利益至上主義とは一線か画していた。

そうゆう日本タイプと日本の文化、美を世界の広める役割を担っていた日本観光
を、同時に地上から消し去ろうとしている

これは日本国を地上から消し去ろうとしている、似非経済人と同じである。

これらは一に私を鼻の手術追い込んだ時から始まるのである。
そして私を日本タイプに入社させ、退社させる流転する私のサラリーマン時代
の始まりとなる。

http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-05-02


私の流転したサラリーマン時代(4)

2006年03月14日 15時24分41秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私が下宿していた桜井清次宅は、私の父の本邸をドイツ大使館の邸宅として
堤康次郎の仲介で日本国政府に売却した金で、父が辨谷栄に贈与した
北陽土地産業株式会社が管理会社として売却代金の一部で買ったものである

現在は六本木ヒルズの近くで、ここも西武不動産の仲介で買ったのであろう。
桜井清次は父より金沢市の彦三に土地を貰い、そこが北陽土地産業の本拠地
となっていた。
元々この会社は山陽土地株式会社といって、昭和初期没落した三井、三菱
に次ぐ土地に投機していた渡辺冶衛門の整理会社であったが、戦後広島から
金沢市に移転して社名を変更したのである。

この会社が父の土地管理会社として、麻布の父の本邸を管理していた。
父は麻布の本邸を金沢の郊外の白雲楼ホテルと並んで、建築した康楽寺
の本殿を建てるために康楽寺に寄付をしていたのである。
このことについては、2005年5月31日に書いた通りである。
父が亡くなる時は、中央区京橋の日本タイプビルを生活の拠点とし、そこに住んでいたのである。
父が昭和26年2月11日亡くなると、この父の本邸は辨谷貞造,昌造が二人が移り住んでいた。
父の本邸にあった国宝級の雪舟の書画等は辨谷栄が能登の家に持ち帰り、
一人で楽しんでいたのである。
そのほかの父の家に高級家具や敷物等は、会社の重役連中がそれぞれ
家に持ち帰ったのである。
この頃私は弁谷ハシより毒薬を盛られ、鼻の手術で頭を破壊されたのである
一方辨谷貞造、昌造は父の本邸で豪華な暮らしをしていた。
貞造は桜井清次の秘書をしており、父の本邸な売却の後、清次の東京の住まい
を父の本邸売却の一部の資金で探していたのである。
それが私が下宿していた桜井清次宅となる。
辨谷栄は康楽寺の本殿の計画は無かったとして、妻ハシと共同で偽造文書を
作成するのである。この件については2005年6月4,5,7日に私の鼻の手術の項
で、書いた。

桜井清次は父より金沢に土地、建物を貰いうけているので、父の本邸の資金
の一部で東京の麻布で家を一軒買ったが、すぐ自分の名義にすることなく、
辨谷栄が昭和29年に亡くなると、貞造を自分の子分として一緒に事を運んだ
のである。
このような状況の中私のサラリーマン時代が始まり、気違の欲ボケの者どもに
サンザンな目に遭わされて行くのである。

http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-05-01


私の流転したサラリーマン時代(3)

2006年03月13日 15時25分34秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

当時は私は麻布の桜井清次宅のガレージの改造した、陽の当たらない窪地に生活していたのだが、浅草のヤクザの会社を2ヶ月で止めた。貞造の友人が勤めているとの話であったが、その友人は私の面倒など全然関心の無い男であった。いつ会社に来ていつ退社するのかも、会社は感知しないようであった。
本当に友人なのかヤクザなのか、全く分からない存在であった。
貞造はそれ以降一向に、私に関心を示さなく、会社を紹介しても我関せずの態度であった。もっとも貞造は日本観光を破産させることを平気でやる男であるから、私のような者はチョロイ存在だったのだろう。会社を潰して入った金は妻の智子の相続だとすることを平気でやえる男である。金のためならヤクザや政治家を、操るこては慣れていたのであろう。人を使って私を陥れることなぞ、朝飯前だったに違いない。
後年日本観光が総会屋の巣窟になり、それを利用して会社を倒産させたからである。
父が必ず遺言書を残してあるはずだと、弁谷ハシに詰め寄った時、ハシは桜井清次が持っているというので、それを見せろというと、お前の名前は遺言状には出てこない。自分の子供は誰と誰かその中に書いてあり、お前の名前は全然出てこないとぬかしたのである
恥ずかしい話であるが、私はそれに反論する気力に欠けていた。
私の母三条西治子が何故私のことを心配していたのか、この時は既に遅かったのである。私はそれ以前4~5年前に頭を破壊されていたからである。
私と母が別れる時母の嫁ぐ先の三条西の名前を忘れると、大変なことになるといったことが現実となったのである。
私は過去を失い、自分を失い、ハシに手篭めにされたのである。
今日あるのを見越して、ハシや貞造、桜井清次は対処していたのである。いかに私が馬鹿であるかを世間に知らしめるこのに、専念していたのである。
私は自分の母である三条西治子のことを、忘却しハシを自分の母を思っていた程の馬鹿者であった。
このため私は人生を高校1年の時、自分が地獄の奈落に突き落とされたことがハシの姦計であったことを自覚できない程、毒薬を飲まされていたのである。辨谷栄が呼んで私を占わせた通りになったのである。年増が私の人生を滅茶苦茶にすると言ったが、彼らはその通り実行したのである。占い師に言わせ、私にある暗示を掛けたのである。人間はおかしな者で、人に言わせておくとまさか自分に降りかかるとは思わないものである。魔性の人間はそれを人に言わしめて、実行するのである。自分が直接手を下さなくても、他人を利用し、毒薬を利用したり、神経作戦を旨く利用するのである。絶えず念力と言うか、威圧感や恐怖感を与えていけば弱い物は自分の思うままになるのである。

http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-04-28