goo blog サービス終了のお知らせ 

白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の流転したサラリーマン時代(2)

2006年03月12日 10時57分52秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私はこの頃は私の父が桜井兵五郎であることを少し思い出したのである
私は学生時代より、頭の神経が狂っていたのである。
高校2年の夏休みに受けた鼻の手術で、脳天をノミに強打され、神経が破壊され
ていたのである。
その原因は何かを、まるで哲学を研究するように考えたのである。
色々な神経科の病院に行ったが、なんでもないと診断された。
しかし過去の記憶や思考力を、手術依来無くし、小学校時代の白痴に戻ったようであった。
私は鼻の手術後、自分の前途が真っ暗になった気持ちになった
唯その日その日の生活するだけで、精一杯な毎日であった。
それが日本タイプに入社した時も同様であった。
日本タイプとはどんな会社であるのか、の記憶さえ無くしていたのである。
であるから私の住所地変更など自分でした事無く、私の住所は勝手に次から次えと移動されて行ったのである。それを実際に行ったのは、辨谷ハシ並びに辨谷昌造で
あったのである。
私は木偶の坊のように生活し、辨谷家や桜井清次はロボットを操るように私を
自由に動かし、父の残した私の資産を彼らが懐に入れたのである。


私の流転したサラリーマン時代

2006年03月11日 15時40分13秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私は2年で日本タイプをやめた。
勿論色々考え迷ったのである。
日本タイプでは朝から晩まで伝票お書いていた
つまらない仕事で、当時桜井清次宅のガレージを改装した陽の当たらないジメジメした処で、食事は桜井清次宅の賄いつきであった。
といううより桜井清次の監視つきといったほうが良いであろう
私の住所がここであるから、手紙等は桜井清次宅に届くのである。
私の父桜井兵五郎の私名義の資産を処分しても、私には分からないように
出来たのである。辨谷ハシが私の印鑑を自由に作って使っていたからである
安い給料で賄い料を払うと、小使いは殆ど無かったに等しい。
私は営業に行きたいと言ったが、桜井清次は「お前見たのが営業が勤まるかと」
即座に却下されたのである。
彼は当時は日本観光株式会社の社長で、日本タイプの取締役であった。
そこで辨谷貞造に相談すると、たちどころに会社を辞めてしまえといううのである
貞造の知り合いの会社を紹介するから、といううことでその紹介された会社に入ったのである。
その会社は浅草にあるユニバーサルというう貿易商社であった。
名前からして良い会社のようであるが、実は社長は元ヤクザ上がりであった
それを知ったのは会社に入ってから暫くしてからである。
このヤクザの会社に入ったという事が、後々まで私の経歴の汚点となり、
この会社は2~3ヶ月で辞めたが、後年会社を転勤した際必ず日本タイプに
問い合わせが行くと、日本タイプの人事課ではヤクザの会社にいたと返事を
するので、それが障害になって、思う会社に転職が出来なくなるのである。
つまり日本タイプの影響下の会社、日本タイプの選ぶ会社に入り、いびられる
事となるのである。馬鹿馬鹿しいはなしであるが、私にとっては人生を棒に振った
サラリーマン生活となるのである。
これも辨谷貞造と桜井清次の陰謀である。


辨谷 貞造の暗躍

2006年03月03日 08時34分36秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井トキのブログで、辨谷貞造は辨谷ハシの相続権はないと話した。しかし今回金沢家裁に中山博之弁護士等を二人もつけ、辨谷ハシの遺産分割の審判の申し立てをしたことは記述した。この弁護士は日本観光えの5億円貸付の担保として、今話題の宮本三郎画伯の日本の四季(日本タイプの崩壊「8~9」参照)を辨谷智子が取得した際の証人である。日本観光が倒産し、日本の四季を担保として辨谷智子の所有となった訳であるが、日本観光破産管財人がその壁画を差し押さえしようとしたら、辨谷貞造の妻智子が金沢地裁に対して、日本の四季は自分のものであると主張して、地裁がそれを認めたのである。その時の弁護士も康楽寺が5億円を借り日本観光に貸したの担保の証人として、立ち会った中山博之一弁護士が辨谷智子の日本の四季の所有権の裁判の弁護士もしている。これは之まで私が話してきたように、私の父桜井兵五郎が昭和26年2月11日死亡した時、辨谷貞造の父栄が康楽寺の本殿建築計画な無かったとした偽造文書をその妻辨谷ハシと作成し、当時白雲楼ホテルの所在地の官庁である松任市役所に届けでたのである。昭和29年には白雲楼の湯湧村は金沢市に合併され、その書類も引き継がれたはずである。康楽寺は私の父の個人の寺として認可され、将来は康楽寺本殿を建築するための財団であったのである。処が私を預けてあった辨谷家では、私の頭脳を破壊すべく偽医師等と組んで、私を金沢国立病院で、鼻の手術の際頭蓋骨を強打して、人間を廃人にしてしまった事は既に記述した。後は康楽寺を法人とし、父桜井兵五郎が財団康楽寺に寄付していた麻布の現ドイツ大使館の土地を売却、日本観光の株式、日本タイプライターの株式は私の父が私の名義にして康楽寺に寄付していたが、辨谷貞造と辨谷ハシが共謀して私より白紙委任状と実印を騙し取り、今回の日本観光の倒産に至ったのである。日本観光の社長となった桜井能唯は、辨谷貞造や弁谷ハシと共謀、日本観光の無償増資を行い(日本タイプの崩壊「3」日本観光の違法な2.5倍の違法な増資参照)、資本金を一千万から二千5百万とし、子会社日本タイプライターに 14万株の第三者割り当てを行ったのである。子会社が親会社の株式を28パーセント取得したことは、商法で禁じられtれいるところであり、この株式発行は当然無効である。また日本観光は日本タイプライターに対して、又日本タイプライターは日本観光にたいして議決権をお互いに喪失しており、日本タイプがキャノンとの資本、販売提携の議決権は無効である。何故なら両会社の取締役は兼任であり、お互いに取締役の議決権を喪失しているからである。(2005/5/21、5/22日本タイプと日本観光の取締役議決権の喪失、及び日本タイプの崩壊21及び16の取締役の議決権参照)桜井能唯は日本タイプの日本観光株式14万株を、日本タイプをキャノンに売り渡す際、百万石文化園が取得して桜井能唯の所有にしたのである。更に康楽寺の株式10万株を私の白紙委任状をハシが盗ったものを利用し、自分のものとし、合計24万株を不法に入手したのである。桜井能唯の25万5千株を取得したとあるが、実際は以上の通りである。しかも差し引き1万四千株も元は父から与えられた名義株である。これで日本観光の株式の過半数を取得してと言えるであろうか?これにより桜井能唯は日本観光の過半数を自分の物にしたとしている。しかし現実は日本観光を倒産に陥れたに過ぎない。このことは之までに随分と記述をしてきたところである。又今問題とする処は宮本三郎画伯の日本の四季を、辨谷貞造が妻の名義であれ、自分の物としたことである。それも小松市に6千万で売却、その金を地元の観光協会に渡し、白雲楼を金沢市に寄付したことである元々白雲楼は北国銀行の5億円の抵当にはいっており、その抵当権の無効についてはこれまでに(2005/5/26北国銀行の白雲楼抵当権設定の無効について参照)、述べた通りであるが、5億円が8千万になり、最後は地元の観光協会の5千万になり、金沢市えの寄付となている。北国銀行が5億もの抵当をつけたかと言えば、之までも記述した様に、父の資産が北國銀行に十分あったからである。北国銀行は能和銀行と加州銀行が合併して出来たものであり、父は前に述べたように金沢財界の雄横山章の昭和初年に金融崩壊の際、横山家の肩代わりをしており、加州銀行も父が大株主となっていたからであり、日本タイプの崩壊22~23七尾造機で述べたように、私の名義としての預金が北国銀行に残っていたからである。これまでの説明の様にその裏では、辨谷貞造が地元政治家等に金を使い、白雲楼の倒産に深く関与していることは明白である。(2005/5/29UFG銀行旧三和銀行と組んだ熱海起雲閣倒産の筋書き参照)全て私の父桜井兵五郎が私の名義としていたものを、辨谷貞造、ハシが私より白紙委任状と実印を騙し取り、日本観光や日本タイプを私から奪い去ったのである。これら資産は父が財団康楽寺の本殿建築資産として自分の寺である康楽寺に父が寄付していたものである。この父の資産を桜井能唯が流用した事経緯等については、2005/5/20康楽寺本殿建築資金の流用の項参照。しかも不正な手段を堂々と使って、金をばら撒き緘口怜をしいたのである。一番の元は康楽寺を宗教法人をとし、私の頭脳の破壊して父が私に残した康楽寺の財団の資産を全て盗ったのである。