財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
私の父の母、私の祖母は嘉永生まれで昭和20年まで生きていた。 90歳である。私が昭和10年生まれだから、私が10歳の頃亡くなったのである。昭和19年の冬、ビルマから仏舎利が白雲楼の前の小高い山にある大東亜寺に遷渡され法要が行われたとき、祖母は能登の山深い田舎より大東亜寺まで出てきた。法要が終わった後は、お寺の山の下の白雲楼で静養していたが、まもなく亡くなった。 葬儀は一生離れなかった父の生まれた能登の山深い里で執り行われた。私は物心がつく以前より、その頃は元気たった祖母に抱かれ、また祖母の手作りの料理を好んで食べ、祖母に手を引かれ村の寺にお参りに連れて行かれた。 父の家は代々今で言う庄屋であったが、当時の加賀藩は代官を置かず直接地元の代表に統治をさせていた。父の家は代々その役を業としていた。しかし父が13歳の時その父親が亡くなり、祖母は一人で父を育てるために、田畑を耕し父も行商などをして商いを生計の足しにしていた。 また代用教員の職にも就いたが、向学の意志押さえがたく、祖母に内緒で東京に出奔してしまった。東京ではいまの早稲田大学に入り、政治経済学部に所属、弁論部で名を上げ大隈候に認められ大隈候の秘書の役割をしていた。 その頃秩父宮妃殿下の実家松平家の養子となったが、後離縁し桜井姓に戻った。この頃大隈候の庇護を受けていた松村介石のキリスト教に帰依していた井上スズと知り合い松村介石の仲人で教会で結婚式を挙げた。明治44年8月のことである。二人の間には女の子が生まれたが、幼くした亡くなった。これ以降二人には子がなく、昭和10年12月2日に前に記述した様に私が生まれたのである。 私の祖母が父に如何しても孫が見たいと懇願したのである。どうして父を母が知り合ったかは分からない。母の父が省庁の一方の旗頭であった関係で、父が母の実家に訪ねて行ったからかもしれない。政党的には大隈候に近かったからだと思う。 祖母は私が物心つく頃より私に絶えず、私に祖母が父に頼んで生んでもらったのだと、言いながら目に入れても痛くない可愛がり様であった。
祖母はよく私の母のことを話していたが、桜井スズに遠慮して表に出ないことを可愛そうにいつも思っていたようである。
私を能登の端に残してよく我慢をしていると話した。私の母は公家四条家の出身で、四条家は料理を天皇に出すのが役目であり、母も料理を一応勉強するため精養軒で働いていた時知り合い、母が白雲楼に遊びに来るようになったのと思われる。母の父親は当時は安田財閥の総師の一人であった。それ以前に父は四条男爵家の未亡人より贔屓を受け当時の母の父とも知り合っていた。祖母もそのことを知っていたので、私を天子様の子だと話していた。