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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の祖母

2005年05月13日 06時42分28秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の父の母、私の祖母は嘉永生まれで昭和20年まで生きていた。 90歳である。私が昭和10年生まれだから、私が10歳の頃亡くなったのである。昭和19年の冬、ビルマから仏舎利が白雲楼の前の小高い山にある大東亜寺に遷渡され法要が行われたとき、祖母は能登の山深い田舎より大東亜寺まで出てきた。法要が終わった後は、お寺の山の下の白雲楼で静養していたが、まもなく亡くなった。 葬儀は一生離れなかった父の生まれた能登の山深い里で執り行われた。私は物心がつく以前より、その頃は元気たった祖母に抱かれ、また祖母の手作りの料理を好んで食べ、祖母に手を引かれ村の寺にお参りに連れて行かれた。 父の家は代々今で言う庄屋であったが、当時の加賀藩は代官を置かず直接地元の代表に統治をさせていた。父の家は代々その役を業としていた。しかし父が13歳の時その父親が亡くなり、祖母は一人で父を育てるために、田畑を耕し父も行商などをして商いを生計の足しにしていた。 また代用教員の職にも就いたが、向学の意志押さえがたく、祖母に内緒で東京に出奔してしまった。東京ではいまの早稲田大学に入り、政治経済学部に所属、弁論部で名を上げ大隈候に認められ大隈候の秘書の役割をしていた。 その頃秩父宮妃殿下の実家松平家の養子となったが、後離縁し桜井姓に戻った。この頃大隈候の庇護を受けていた松村介石のキリスト教に帰依していた井上スズと知り合い松村介石の仲人で教会で結婚式を挙げた。明治44年8月のことである。二人の間には女の子が生まれたが、幼くした亡くなった。これ以降二人には子がなく、昭和10年12月2日に前に記述した様に私が生まれたのである。 私の祖母が父に如何しても孫が見たいと懇願したのである。どうして父を母が知り合ったかは分からない。母の父が省庁の一方の旗頭であった関係で、父が母の実家に訪ねて行ったからかもしれない。政党的には大隈候に近かったからだと思う。 祖母は私が物心つく頃より私に絶えず、私に祖母が父に頼んで生んでもらったのだと、言いながら目に入れても痛くない可愛がり様であった。
祖母はよく私の母のことを話していたが、桜井スズに遠慮して表に出ないことを可愛そうにいつも思っていたようである。
私を能登の端に残してよく我慢をしていると話した。私の母は公家四条家の出身で、四条家は料理を天皇に出すのが役目であり、母も料理を一応勉強するため精養軒で働いていた時知り合い、母が白雲楼に遊びに来るようになったのと思われる。母の父親は当時は安田財閥の総師の一人であった。それ以前に父は四条男爵家の未亡人より贔屓を受け当時の母の父とも知り合っていた。祖母もそのことを知っていたので、私を天子様の子だと話していた。  


康楽寺

2005年05月11日 21時43分19秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

このお寺は父が昭和19年の夏金沢市内にあった加賀百万石の家老、横山男爵家の別荘を買いうけ現在の金沢市郊外の白雲楼ホテルの、正面玄関の向かい側の小高い山を切り開き、数千坪の平地に移築したものである。当時は大東亜寺仮殿と称された。父がビルマに軍政最高顧問として派遣された際、ビルマ国、国民の信仰の的である一大寺院より仏舎利を一部もらい受け、信仰深い父の母のために一寺を建立することにした。ビルマはその後独立、時の政府より日本国民宛にビルマ国民よりとして仏舎利の多数寄付の申し出があり、当時は任務を解かれ帰国していた父あてにその申し込みがあった。 当時の父の邸宅は港区の有栖川公園の真向かいの,現ドイツ大使館の5,000坪の敷地にあり、大東亜会議に出席したビルマ政府の主相の宿泊先となったが、来日した主相の方からその申し出があり、昭和19年5月日比谷公会堂で日本国政府とビルマ政府との仏舎利遷渡式が行われた。ビルマ政府は父個人を通して日本国民に渡す形をとり、父は各省庁と折衝の上、仏舎利を日本国4箇所に分納することとした。その一つは父が建てる大東亜寺で、敷地50万坪の中にビルマ式パゴダを建て、日本式四堂伽藍をたて、中に池を掘り橋を渡して、大東亜戦争の死者を葬り祀る事にした。しかしこれは戦後数十年を掛けて竣工する事として、大東亜寺の仮殿を建てたのであった。あとの三箇所は高野山、鶴見総持寺,および東本願寺である。大東亜寺は、戦後寺名を康楽時と名を変更したのである。


私の父が建築したホテル

2005年05月11日 11時12分12秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

このホテルは金沢市郊外の山に囲まれた小高い山の中腹に建てられた。「母と過ごしたホテル」の写真はホテルの玄関から写したものである。玄関からロビーに入るとあたり一帯が山に囲まれた湖の斜面にこのホテルが建てられていることが分かる。各部屋からは山の囲まれた湖が見えるようになっている。この写真はこのホテルが倒産した翌年にホテルの湖から私が撮った写真である。当時は私の父の社交場として使用され、ホテルに来訪する人は少なかった。 前に話したホテルの支配人の話だと、ホテルのフロントあたりをはえずり回ってちたそうである。まだ一人歩きが出来ない頃だから、1歳前であろう。
私は此処で母から色々教育を受け6歳までこのホテルで育ったのである。
母もこのホテルが気に入っていたらしく、このホテルの大広間の地元出の有名な日本画の巨匠相川松瑞の書いた襖や欄間,天井の荘厳な背景の中で、公家出の母としての教育をしたのである。 私の母は四条家の出であるが、母の父は二条家より養子に入っており、父は二条家の分家より養女を迎えている


私の父

2005年05月10日 09時46分09秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

ここで私は父の話をしなければならない。私の父は昭和10年岡田内閣の拓務大臣となり、当時の植民地であった台湾の部族反乱の折衝に当った。私はこの年の12月に生まれたので、父は拓務省の拓と父の五郎をつけて拓五郎と命名した。当時は父の創業した日本タイプライター株式会社も軌道ののり、本社ビルも大林組により竣工された。本社工場は三田の日本光学の工場を買いうけ、タイプライターという当時としては平和産業にその力量の示した。日本タイプ女学校を設立し、女性の社会進出の旗頭となった。父は事業家としてでけでなく、政治家としての地歩も固め、当時は民政党調政会長お勤めていた。勿論この時は2.26事件で岡田内閣が倒壊したあとのことである。日華事変の勃発で日本タイプライターも戦時体制に変更を迫られたが、逆にタイプライターの必要性を海外の植民地にまで広げた。戦線の拡大した日本軍の現地に於ける情報収集に、通信機とタイプライターの接合により日本軍の情報収集に利用された。これは通信と日本語の最初の融合であった。しかし財界と政界に重きを置いた父は政敵より睨まれ、第二次大戦の初頭ビルマ方面最高顧問としてビルマに派遣されることとなった。写真はこのときのものである。当時の主相東条英機より軍属になることを強要されたが、父はあくまでも文官であるからとして断っている。しかし文官ではビルマ等戦線の最前線では軍属相手との話が通らず、父は海軍小将の肩書きを得て現地に赴いた。これがこの時の証拠写真である。残念ながら写真が古くなって破損したため見にくくなっている。

私の母三条西家の家(2)
(日本タイプの特許と新幹線予約システム)http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-05-01


三条西治子 私の母

2005年05月08日 11時35分37秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

今日は母の日です。私の戸籍上の母ではなく、私を生んだ母についての思い出を話したい。生母は2000年に亡くなっています。今年で7回忌となります。写真の左から3人目の人が私の生母です。大正2年生まれであるから今生きていれば92歳である。私の生母のことをこれから私の母の呼びます。母とは先に紹介した私の生まれたホテルで4-5歳頃まで一緒にいる事が多かった。と言うのは私の実父、これからは私の父と言いますが,父の別宅が金沢市内にありそこで私と母が一緒に暮らしていたからです。私の母の私に対する教育は、いかに天皇陛下とは大変なものであるかを切々として話し何度も繰り返し教えたことである。私の父が建てた懐かしい写真のホテルで。母は公家の出であるからその伝統を教えたものであろう。母は私とは6-7歳ごろ別れて当時の皇后陛下の身の回りの世話を生涯続けていたのである。母は第二次大戦後香道の宗家の後妻となった。当時私は小学校5-6年生であったが、私に会いに能登の端にある私が預けられている家まで東京からはるばる訪ねてきた。母は私を抱きしめながら、これからは皇后様に一生仕えるからもう私とは会えないかもしれないが皇后様を母と思い暮らすようにと、泣きながら話した。またこれから母はお嫁に行く事を話、香道の家元の名前を繰り返し話をした。今日は母の日なので、母と一緒に過ごした懐かしいホテルでの思い出を母に捧げたい。

このブログの写真の左から三人目が私の母で、三條西治子である。治子は四条家の出で、昭和22年3月18日に三條西公正氏に嫁ついたのである。公正氏の妻は皇后陛下の妹で二人の間には二男四女があってが、昭和20年11月8日夫人は亡くなられたのである。私の母の子供は私一人である。