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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

日本タイプライター株式会社延命社長

2005年05月19日 10時35分42秒 | キャノン

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の父と堤康次郎氏の関係の項で述べた様に、父の後継人達は戸籍上の妻子を相手に訴訟を起し、父から名義人として預かった後継人の名義株を全て自分のものにしてしまった。 日本観光株式会社だけでなく、日本タイプライター株式会社の名義株の全て自分のものとした。日本タイプライター株式会社は昭和57年頃までは120億の売り上げを維持していたが、この裁判が決着してからは、急に売り上げが、下落その売り上げは数分の一に減少、大赤字となり大阪駅前にあった同社所有の広大な土地を、株主である丸紅に売却したのである。 それと同時にキャノンと業務提携と称して、父から名義を預かっていた桜井繁雄、桜井清次、桜井能唯や日本観光名義であった株式合計200万株をキャノンに売却、当時資本金6億5千万の株式千三百万株の15%をキャノンが取得、、キャノンのみに増資を繰り返し、数億だった資本金が見る見る数十億の資本金となり、キャノンが全ての増資を引き受けて、日本タイプライター株式会社の膨大な土地資産や各種特許を取得したのである。今では日本タイプライターの社名さえ無くなり、その膨大な土地資産はキャノンの不動産会社のものとなったのである。 日本タイプライターは戦後、三和銀行より莫大な借り入れにより、旧勘定を処理して、再建されたのであり、従って三和銀行が大株主であった。この写真は父が亡くなった直後、社長に延命氏が踊りでた時のものである。左側が日本remingtonの社長である。 私は延命氏が能登に引っ込んでいた頃、同氏を訪ねた事があった。私はそのころ未だ記憶が戻ってなく、母親を探していた。それで延命氏に母親の所在を尋ねに行ったのである。同氏は私の話をじっと聞いていたが、帰りがけにもうこれ以上母親を探すならば会社をぶっ潰すと意気込んで言ったものである。私は呆れて同氏の家を後にした。


私の父と堤康次郎氏の関係 堤義明の義と私が預けられた辨谷家の子供につけて弁谷義貞、義昌、義拓と改名

2005年05月17日 08時43分47秒 | 堤義明

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真は、昭和3年3月12日日本工業倶楽部での会員中衆議院当選者を招いての晩餐会の時の写真である。向かって左が父で右が康次郎氏である。 私は昭和50年頃堤義明氏に父の事について出状した事がある。その時は梨のツブテであった。 私の生まれた思い出のホテルのブログで,西武不動産に契約社員としていた事を書いたがそれは昭和57年頃である。この頃は父の事業の後継人達が、戸籍上の親子を相手に父が計画していた康楽寺本殿計画地であった康楽寺仮殿の敷地を含め付近一帯は、日本観光のものであるとして、土地の登記変更を求める訴訟を東京地裁におこしている。 この訴訟で提出された証拠書類はなんと、本プログの康楽寺の項で記述した私の鼻の手術の後頭頂骨を頭の内から強打せられて、苦痛で頭が破裂しそうであったとき、この戸籍上の名だけの両親が、康楽寺の本殿計画の白紙撤回の文書をかいたのである。 この文書が父の意を受けた白雲楼の従業員が本殿計画の白紙撤回を記したものとして、提出されたのである。その時その訴訟を担当したのがその従業員つまり戸籍上の父の二人息子の兄のほうである。この男は日本観光の総務部長として、訴訟の実務を担当し、訴訟原告は日本観光の社長であった桜井能唯、鶴見総持寺の管主岩本某他地元の百姓達である。この桜井能唯は私の戸籍上の兄の親戚で、その関係より戸籍上の母の妹の入り婿となり、日本観光に入って来たのである。 父の戸籍上の母子は何の反論を出来ず、原告の言う儘土地の名義変更をする事となった。丁度この判決が決まった頃、私は仕事にアブレ職を探して元総理の岸信介氏のところまで行った。同氏と父はごく親しい間がらであったからである。この時戸籍上の兄が言ったものである。岸氏は仕事を世話してくれるかと。また訴訟を起こすのなら相手になると。 おれはすべての訴訟を任されているのだとも。丁度この頃新聞に西武不動産の契約社員募集の広告がのり、応募をして採用されたのである。しかし私は2年程して西武を辞めさせられる。 堤義明氏に出した手紙には返事がこなっかたが、その兄である堤清二氏に出した手紙にはその母親の堤操氏より返事をいただいた。父の麻布の屋敷には度々訪問していたと言うう内容であった。私の父が存命のとき、堤義明氏の義明の義を戸籍上の兄弟と私に付けた改名書を父が送って来た事があった。かように父と堤康次郎氏は大変仲がよかったのである。


大東亜寺現康楽寺でのビルマからの仏舎利の遷渡式前夜の法要

2005年05月16日 09時59分32秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真は康楽寺内の仏間でのビルマからの仏舎利遷渡式の前夜での事で、昭和19年12月10日頃のものである。この仏間にある仏壇は父が横山男爵家から買ったもので、父の所有物である。しかるに桜井能唯は自分の所有物として自宅に所有している。父の祭祀相続人でもない桜井能唯が所有している事は他人の所有物である祭祀装具を窃盗したことになり刑法で罰せられなければならない。(引用部分 加賀藩では、初代前田利家の頃から、すでに城内に細工所を設けて、武具一般の手工業的生産を活発に行っていました。ところが、前田家は日本一の外様大名である為、その動静は常に徳川幕府の監視下にあり、特に寛永八年(1631年)幕府は加賀藩に謀反の疑いありとして、当時の藩主前田利常を江戸に出府させる程でした。それ故、加賀藩は幕府を刺激しないためにも、武具製造の細工所を美術工芸品の製作所に改造する必要があったのです。そこで利常は、京都から五十嵐道甫(蒔絵師)などの名工を招き、工芸美術品の製作にあたらせました。5代藩主前田綱紀は、貞亨~元禄年間(1684~90年)にかけて京都や大阪から名工を招き細工所を拡大しました。こうした細工所の技術は、仏壇にも積極的に取り入れられたのです。現在、金沢仏壇として最も古いものは、金沢北袋町(壇風苑)の桜井能唯氏の所有する、前田家の家老横山家の仏壇が知られています(1700年頃作)。私たちは、この仏壇を通じて当時の工芸技術の粋を見て取ることが出来ます。)

私は9歳で父の斜め後ろに座っています。この法要はビルマからの要人と地元の代表を集めて行われた。
その翌日地元の一般の人々大東亜寺の老若男女の信者を集めて、父がその真ん中に一段高い式座の上に座って、法要がとり行われた。 私も父の座っているより斜め右前の方に座っていた。この大東亜寺については、読売報知昭和19年5月17日に「境内50万坪」と紹介されている。この建築の資金については昭和25年4月に金沢市に宗教博覧会が行われた際、父が北国毎日新聞紙上で、当時は康楽寺と称号が変わっていたが、麻布の邸宅と株券及び現金等3千万を充てる事を公表している。 この寺は父個人の寺として、父がその資産を寄付して寺の本殿を10数年かけて建築することとしている。現在の北国新聞は父が経営していた当時は
社屋が北国新聞の前にあった北陸毎日新聞が昭和15年に対等合併して出来たもので、父が会社の経営権を持っており、当時の北国新聞社の社長が東京の麻布の父の邸宅を訪ね、合併を打診して成立したものである。
現在の北国新聞の社長に手紙で問い合わせしたが、梨のつぶてであった。
私の父が大株主であるから、その関係で桜井能唯から口止めされた為であろう。
前のプログで書いたが、私の脳が破壊されたのは、金沢国立第一病院で当時の種村
院長の変わりに偽医師を使って私の脳を破壊したのであるが、その原因は合併した
北国新聞の父の名義株をその偽医師が白紙委任状と印鑑証明を引き換えに
辨谷栄がその偽医師に渡すと話をしているのを私がたまたま聴いたからである

 
話は元に戻るが康楽寺の資金計画を発表した時は,日本タイプライターの再建計画が認められ、三和銀行から莫大借り入れ金で旧勘定を処理、全国10数箇所の工場を処分、十分の一に減資して4000万に増資してスタートした時であった。父はその翌年の2月に亡くなったのである。 この時より父の会社の後継人争いが始まり、いろいろの事件がおこるのである。日本観光の社長になったのが父の異父妹の次男で、私の祖母の養子であった。日本タイプライターは日本観光の子会社であったが、当時は持ち株会社が禁止されており、父の株式は名義分散されていた。この時私は上記の様に株式名義
分散の手続きの話を聞いたことにより、高校時代の同級生より翻弄され、同学校の先生である偽医師により、鼻の手術を受ける羽目になり、廃人同様となった事は前に話した通りである。 父が戦後認知した他人の子供のほかにこの期に及んで、裁判認知によりひとりの男の子が現れた。この男が日本観光を破産に導く手立てをし、会社は平成8年熱海の起雲閣が三和銀行により破産申し立てられ倒産する。日本観光が経営する、会社は倒産する。 日本タイプライターの社長延命某はあらゆる策謀を企て、文字通り延命を図ろうとする。まず父の財産がすべて捕獲されている京橋税務署にその部下が放火、また父の戸籍のある能登の田舎の村役場を放火、村役場は全焼したといううことである。 何故村役場に放火したかは、私の戸籍が父の除籍簿の中にいらられ、父が認知をしていたからである。私が預けられた奥能登の戸籍上の父が私の戸籍訂正に応じないので、父が勝手にその除籍簿で認知をしたのである。 この放火犯人は捕まったが,全面的に白状になかったので、日本タイプライターの社長は罪を免れたが、社長は辞任して、渡辺忠雄氏等と能登に会社を設立、日本タイプライターを影より支配していた。 父の麻布の邸宅はその後吉田茂内閣当時ドイツ大使館に売却せられた。
父が康楽寺に寄付していたのに、そう易々と売却せられたのには理由がある。それは私が預けられた戸籍上の父親が、康楽寺の本殿建築計画は白紙撤回されたとして文書を偽造、父の個人の寺を宗教法人にしたのである。 これで父の麻布の邸宅は、堤康次郎氏の仲介により日本政府に売却、ドイツ大使館のなったのである。 
父の諸会社がすべた無くなったのは、私の預けられた戸籍上の二人の兄が係わり合いが大である。父の残した不動産等はすべて私の預けられた戸籍上の父親が管理にあたり、その死亡した昭和29年以降はその子供である戸籍上の兄達が管理していた。 
父の戸籍上のの子供達は何ら管理権がなかったのである。
堤康次郎氏は父の死亡ごは父の会社の後継人を父の命日に呼んで法要をしていたといううことであった。


私の幼少時代

2005年05月15日 11時12分00秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は5歳頃母と別れて能登の端の家に預けられた。これが私の人生の悲劇の始まりであった。父の母、私の祖母には異父妹が一人いて、その子供達は東京の父の家に養育せられており、その長女が能登の端に嫁に来ていた。私はこの長女の家に預けられたのである。その家は元来商家で呉服を商い、また近隣の農家に質草で金貸しをして財を成した。家督を譲られた当主は、商家を嫌い父に頼んでこの地方一帯の特定郵便局の請負の事業を始めた。この家には2人の年上の男の子がおり、私との反りが合わず私は家の中では惨めな思いをして暮らす羽目となった。私は父に子供がなく、父が祖母に懇願されて生まれた実子である。この事は「私の祖母」のプログで書いた通りである。本来なら父の戸籍に直接入籍させるべきであっあが、祖母が父の異父妹の長女に育ててもらうこと主張したのである。祖母は父の東京の家に住む事を生涯承知しなかった。私が父の戸籍にはいれば父の妻の元で暮らせねばならず、祖母が私に会う事があまり出来なくなったからである。さりとて母の戸籍にいれることも出来なかった。母は宮中で皇后様の身の回りの世話をする勤めがあったからである。 私は結局一人で能登の奥深い田舎の他人の家で暮らすこととなった。この写真は私が能登の端の隣町の幼稚園の時の写真である。前列の一番左側が私である。この頃より私は当主より事あるごとに,いじめられ頭を叩かれていた。特に父がビルマに派遣された頃より、その虐待は熾烈をきわめた。わたくしが村の小学校に入ってからが丁度その時期にあたる。こともあろうに私の頭を屋根の瓦で強打したのである。 私は慢性硬膜下血腫を起こしたのである。その為私は自分が誰であるか、自分についての記憶を喪失したのである。ビルマから帰った父は私を金沢郊外の白雲楼ホテルに呼び、私を一瞥しただけでその事情が分かった様で、親子は2-3時間黙ったまま対峙していた。 父は終戦内閣に入閣した関係で、A級戦犯となり、鎌倉の別邸に軟禁せられた。この間私は頭を瓦で強打せられた影響で、背骨が湾曲、金沢大学病院で治療を受け、ギブスに嵌って半年暮らして直した。父が戦犯容疑が解けて、金沢の白雲楼ホテルの前の大東亜寺,そのときは康楽寺となっていたがその一室で面会した。しかし私の頭は未だボッートした状態が続いていた。 その頃東京では労働争議が荒れ狂い、日本タイプライターは戦争に拠る損失が、当時で一億以上あり、当時の三和銀行より膨大な借り入れを行い、旧勘定を処理して、会社を立て直したのである。これが冒頭渡辺忠雄氏に出状した経緯である。話は戻るが、父はこの頃より寝ることがおおくなり、日本タイプライターの一室を自宅とし、ここで寝ながら重役会議を開き、決済をしていた。最後は日本レミントンランドを創立した。この頃私の頭はすっきりとしてきたが、叩かれた頭頂部が陥没してきたのである硬膜下血腫の血が流失して、頭の思考力が出てきたのである。丁度この頃父は亡くなったのである。 父は戦後3人の他人の子を認知している。これで私が亡くなっても父の事業の後継人は父の会社を自由に出来なくなったが、この3人の子供も後継人に策を弄されそれに嵌っていき、父の会社はすべてきれいにその存在を消失した。 私は父が亡くなったのは中学3年の時であり、頭頂骨が陥没してきたのは高校1年の時である。そこで私もいろいろな策に弄され,鼻の手術を受ける羽目になり、その手術の際、手術のノミで今度はあたまの内から頭頂部の陥没を叩かれ、陥没が尖がった形となりその際の頭蓋の衝撃で再び慢性硬膜下血腫となり、頭蓋骨はひび割れ、私は人間失格に陥り、激しい苦痛に苛まれる人生を送ることとなたのである。 鼻の手術の項参照(6/4, 6/6、6/7、6/20)
母は私が絶えず気になるようであったので、絶えず手紙等を送ってきたようだが、私には皆秘密にしていた。
母としては早く親子の名乗りを上げたかったのである。
しかし父の遺産を狙う者にとって差しさわりが多く、隠しに隠しとうしたのである。
母も辛かったであう。私が高校に入る頃母が親子の名乗りを上げたいと弁谷ハシに頼んだがハシは強固に反対して実現に至らなかった


日本タイプの崩壊(12) 白雲楼とシュガーアイランドの提携

2005年05月14日 11時30分28秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

北国新聞平成2年4月9日白雲楼ホテルとシュガーアイランドの提携を発表した。3月8日の株主総会で役員の交代があり、桜井能唯と父の死後裁判認知を受けた
桜井宏明(旧姓吉田)の社長交代があった。
その後役員会議で60億円の借り入れの承諾があり、シュガーアイランドの子会社那須観光の佐藤充男社長が60億借り入れの保証を行なう那須観光の取締役会の決議があり、この金で桜井能唯の偽の日本観光の株式の受け渡しがあり、シュガーアイランドの役員が全員日本観光に乗り込んできたのである。
シュガーアイランドは日本観光の新社長桜井宏明の親友としているが、これは嘘で前のプログで書いた様に、弁谷貞造の妻の実家の川崎財閥の関係である。この後シュガーアイランドは三菱商事と合弁会社を作っている。南鳴子リゾート開発株式会社で資本金4億円の会社がが設立されていれている。ゴルフ場やホテル経営を目的として、設立が平成2年7月である。
即ち白雲楼とシュガーアイランドの提携の後である。
中曽根政権時代のリゾート法によるものである。
中曽根氏と日本観光を倒産させた桜井能唯は、海軍の兵学校の同期で親しかった

シュガーアイランドは豊富な資金もないのに、バブル崩壊の時期に次から次えと開発を進め平成7年には倒産している。
その資金は足利銀行の子会社北関東リースである事は既に述べた。
平成元年からバブルが崩壊し始め、日本観光の桜井能唯は会社を売ることを弁谷貞造等と話を進め、日本観光の倒産劇のプロットは出来ていたのである。日本観光は桜井能唯が造った江戸村等で既に数十億の借財があり、会社は父の戸籍上の子供により総会屋の棲窟となっており、会社を売却することばかりを考えていた経営陣は会社を倒産することに決めたのである。父は遺言を残し康楽寺の本殿を建築することの役員からの言質をとってあり、当時の経営陣は父の意向に反して、会社を潰すことにしたのである。延命順作が弁谷貞造の嫁を世話したのもその魂胆からである。
 父が経営していた北陸毎日新聞は北国新聞と対等合併しており、父は北国新聞の
大株主であるのに、日本観光の倒産については北国新聞は何ら真実を報道して
いないのである。
シュガーアイランドの提携には新聞紙上で花々しく報道し、リゾート法を悪用した
提携後についての白雲楼の倒産については、社会の公器としての新聞の役割を
放棄している。