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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の学生時代(2)三条西治子私の母

2006年02月14日 10時24分50秒 | 私の母

 財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

回私の母と偶然学校の図書館で出会ったことなど書いた。大学2年の頃を思うが、やはり不思議な事があった。私が日曜日の朝、下宿の主人と話をしていた。特別な話ではなかった。その家の玄関の敷居の上に腰掛かけていた。その時ある瞬間その主人が奥に消えたのである。私はどうしようと考えていた時、玄関に大きな声で来客があった。中年の男性で声に張りがあり、且つ大声をあげるように聞こえた。私は吃驚して来客をみていると、名前を名乗っているらしい。私が返答に窮していると奥から先ほどまで私と話していた主人が出てきて、来客を招きいれ、玄関の敷居の扉を閉じてしまったのである。
従って私は一人玄関の敷居の外に残された。
私は来客と主人二人が話ししているのが良く聞こえた。その内容はあれの母親は二条家からきていて、天皇家のは血が近いとか話していた。私は玄関の戸を開けて中に入ろうか迷っていた。その家の主人は殿下こんなあばら屋にお越しになって・・・とか恐縮して話していたが、その内静かになったので中に入ると、来客はもういなくなっていた。私は再度吃驚したが、家の主人と玄関の敷居に座って話を始めた。あの人は貴方を良く知っているといっていたが、貴方は知らないか。名前を言ったが私には全然判らなかった。続いて主人は貴方の周りに皇族がいるとあの人が言っているが、貴方は知らないかと私に聞くので、全然判らず何の話をしているのか、判らずじまいであった。
その後その家の長男が私を連れ出し、山階鳥類研究所を知らないか言うので、全然記憶になく、知らないと答えると、来客人は山階鳥類研究所の所長で山階さんだというのである。あんな有名な人を知らないのかと私に言ったのである。そして二人は蕎麦屋に入った。もう昼頃の時間帯だったのであろう。彼は入り口の方を向いて座ったので、私は当然彼の前に座った。ところが彼は自分の横に座るようにいううので、仕方無しにかれの横に座ったのである。
何だか男同士並んで座るのが可笑しなものだが、下宿屋の長男だから文句も言えない感じで言われるまま横に座った。
この場所だとい蕎麦屋の入り口の方を向いているので、入ってくる人が直ぐ判るのである。その時一人の女性が入ってきて、私達の斜め前に少し離れて座った。その女性は私が何度会っている女性だった。
私が大学の図書館で会った時は洋装姿であった。
この様な洋装の人には滅多に今までお目に掛かって事はなかった。
この下宿屋の長男とバトミントンを家の前でしている時、今度は和服姿で私に道案内を聞いた人である。私はなんと美しいひとだろうかと驚嘆をしたのを覚えている。
又私が留守の時昔の知り合いだと訪ねて来た人であった。
私は何か不思議な思いがしたが、下宿屋の長男と蕎麦を食っているので、何か話をする事も出来ず、蕎麦やを出た。
その間彼は一言も喋らなかった。私の反応を伺っていたのである。
山階宮は鳥類研究で有名であるが、私は当時はなにも思い出せなかったのである。私の父は広島の浅野殿様と懇意だったらしく、弁谷家にいる時、皆が話しているをの聞いていたがその時は全然思い出せなかったのである。
浅野侯爵家と山階宮家とは縁戚関係で親しかったらしい。私の父もそうゆう関係で懇意にしていたものであろう。又私の母の父は二条家から来ており、その関係で二条家の分家から、二条知子さんが、父の母の養女となっていた。之までも話したように、私の脳は写真のように脳室の周りが真っ白で、神経細胞の再生が出来ない状態になっていた。また頭蓋骨の頭頂骨が損傷を受け、思考機能が破壊されていたからである。
又弁谷家では私が絶対に昔をことを思い出せないことを知っており、わざと私と母を合わせてそれを証明させていたのである。弁谷ハシは私の頭脳を破壊したから絶対に昔を思い出せない自信があったのである。
私の母が親子を名乗らせて欲しいと申し出たので、監視つきで私と母を会わせたのである。これでは母と子を名乗らせる事は無理である、私達は親子として仲良くしている、その中を裂かないで欲しいと、周りにみせつけたのである。一方で私の脳を破壊したのを知らん顔をしながらである。なんと残酷な人間達であろうか!
本来なら過去を話し、お前は預かっていたのだとハシがまず先に説明があってしかるべきところである。これが本来人間としての道である。
このMRIの写真は脳室の周りが真っ白で、両端の脳室から白い固まりが広がっている。これは先の頭蓋骨を強打された際、出血した血液が脳室にたまり、脳室の血管が詰まって血液の流れが止まり、神経細胞が死んだのである。
脳室の下方両端が白く広がっているのは、出血の量が多大でその痕跡を残している。これは頭蓋骨の出血が今も17歳の時から流れ続けていることを考えれば
判るであろう

私と母の別れの言葉
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私の学生時代 私の母三条西治子

2006年02月13日 08時34分19秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は大学に入ってからも、前のブログで説明した様に、自分が誰か自分の過去や将来について,思考する事が不可能だった。だけどこの頃は色々な不思議な経験をした。私は之まで話した様に、自分を失っていたのでその場では理解が出来ず、こういった不思議な経験を後ほど思い出して、なるほどを理解できるようになったのである。私が理解したように、これ等の記憶を整理すると以下のようになる。私が図書館で本を読んでいたときである。ある日曜日の朝比較的早い時間帯であった。といううのは私のほかに図書館には誰も居なかったのである。その時3人連れの人が図書館を見学に訪れていた。二人の男性と一人の女性である。図書館の中を歩きながら建物を見て歩いていたようである。私は廊下に面した窓際に陣とって小説を読んでいたのである。その小説はスタンダールの赤と黒であった。私は小説の主人公の酷薄な運命に、魅せられてこの小説を読み耽っていたのである。
その時たまたまその美しい婦人と眼が合ったのである。私は懐かしいい人を見たように気持ちで、その洋装の美しい人に見入っていたのである。しかしその婦人は私のめから自分の目を離さず、ジット見つめ返していた。それから3人は私から少し離れた処で3人で話しながら私を見ているのである。その後図書館の人が三條西氏が来たという話をきいた。
私は三條西家の人と聞いてもピント来なかったのである。三條西公正氏はその図書館に沢山の古書本を納入していることを知った。
また三條西公正氏の弔電が弁谷栄の葬儀の席上で読み上げられ、学校の担任が皇后陛下の妹が嫁した家柄だと、私に話したことがあった。私はその頃は高校3年で、鼻の手術の後であったので、、過去の記憶を思いだすに到らなかったのである。その後大学の一年の時、上記の様に図書館で偶々私は自分の母親に出合ったのである。その後母親は私の近辺に現れるが、私は全然思い出す事が出来なかったのである。ある時は私の下宿先に昔の知り合いとして訪ねて来た。その時は私の不在のときであったが、その後をたずねて来たとき、下宿の人があの人だよといわれても全然思い出す事が出来なかった。その内電話が掛かってきて、私が代わると泣き声になって、崩れ倒れるような電話であったが私は何ら反応も示さなかったのせある。脳を破壊されるとこのように、感情から記憶にたどる事が出来なくなっていたのである。この写真の左から3人目がわたしの実の母である。こ写真は今から40年程前のもである。左から二位目が迫水真亀氏でのの隣が、私の母でその隣が弁谷ハシである。
私と母の別れの言葉
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私と母の別れの言葉

2005年07月03日 10時10分13秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

Le papillon et la fleur (victor hugo) Pourtant nous nous aimons nous vivons sans les hommes. Et loin d'eux! Et nous nous ressemblons et l'on dit que nous sommes Fleurs tous deux! Mais helas, l'air t'emporte,et la terre m'enchaine. Sort cruel 私達は人里離れていつも幸せだった。私と母はいつも二人で姉弟の様に。しかしその後の二人の運命の残酷さよ! このブログの写真は白雲楼の大広間で、地元の日本画巨匠相川松瑞画伯の描いた襖、欄間、天井等の荘厳な雰囲気の中で、私の母で当時は未だ四条治子であったが、此処で私の教育をした。 5月4日私の父が建築したホテルのブログで母が私を此処で教えたことを記述した。

私と母の別れの言葉
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私の母と父えの思い

2005年06月26日 17時55分04秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

Le papillon et La fleur (Victor Hugo) La pauvre flerur disait au papillion celeste Ne fuis pas! Vois comme nos destins sont differents. je rest . Tu t'en vas! この詩の様に私と母及び父の運命は非情で悲しい出会いと別れであっった。私の頭が破壊されようと、いつも私は待っていたのである。母との出会いを、父との出会いを。心の中で、記憶の回復を待って。 このブログの写真は母が香道家元に嫁いでから20年程経っているが、東京の八芳園で開かれた香延の祝賀会の折、私の母三條西治子が香元となり開かれた際の記念品を参加者に母が手渡している処で、左から2人目が迫水万亀夫人でその隣が私の母でその隣が私の戸籍上の母である
私と母の別れの言葉http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-13


岡田啓介主相、福田耕、迫水秘書官

2005年05月25日 09時03分45秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真はお昭和10年の岡田内閣時代のもので、岡田啓介氏を右にその左は、二人の秘書官で真ん中の人物は福田耕氏で後に日本タイプライターの社長となり、通信技術に詳しく、当時の日華通信株式会社の社長でもあった。 同氏は戦後の日本タイプライターの労働争議の時に社長を辞任、昭和29年頃、日本電話公社か別れた国際電電株式会社の社長になった人である。日本タイプライターは前にも述べた様に、タイプと通信が一体となる装置を開発し、日本軍の情報収集に活躍していたことは以前に述べたとうりである。 このような関係で福田氏は日本タイプライターの社長になったのであろう。しかしこれには裏があって父と岡田啓介氏は、東条内閣打倒のため一緒に戦ったのである。この写真の一番左は、迫水秘書官で、同氏も東条打倒に活躍した事は有名であるが、父の事は表に現れていない。 麻布の桜井邸で東条内閣から次の内閣に引継ぎが行われたが、これを知る人な少ない。父は何事も表に現れることがなかった。 日本タイプライターに於いても同様で、父の努力がなければここまで和文タイプの発展はなかった事は確実である。 ところがキャノンに買収された日本タイプの歴史の中に、父の偉大さの一言の言及もない。莫大な日本タイプの資産を濡れ手で粟をつかむ様にして取得しているにも拘わらずである。 話は元に戻るが、岡田啓介氏の長女が迫水秘書官の妻になったひとで、「私の生母」のプログの写真の中の左から二人目、私の母の隣の人である。 岡田啓介氏の長女迫水万亀夫人は母が嫁ついでいた三條西家の香道再興にも一役かったとゆうことである。三條西家は室町時代より荘園を能登に持ち、天皇より香道家としての役割を担っていたのであるが、戦国時代より以降香道家としての家元が途絶えていたのである。私の母が三條西家に嫁ついだころの昭和22年12月に三條西公正氏が香道の家元として再興されたのである