財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
私は5歳頃母と別れて能登の端の家に預けられた。これが私の人生の悲劇の始まりであった。父の母、私の祖母には異父妹が一人いて、その子供達は東京の父の家に養育せられており、その長女が能登の端に嫁に来ていた。私はこの長女の家に預けられたのである。その家は元来商家で呉服を商い、また近隣の農家に質草で金貸しをして財を成した。家督を譲られた当主は、商家を嫌い父に頼んでこの地方一帯の特定郵便局の請負の事業を始めた。この家には2人の年上の男の子がおり、私との反りが合わず私は家の中では惨めな思いをして暮らす羽目となった。私は父に子供がなく、父が祖母に懇願されて生まれた実子である。この事は「私の祖母」のプログで書いた通りである。本来なら父の戸籍に直接入籍させるべきであっあが、祖母が父の異父妹の長女に育ててもらうこと主張したのである。祖母は父の東京の家に住む事を生涯承知しなかった。私が父の戸籍にはいれば父の妻の元で暮らせねばならず、祖母が私に会う事があまり出来なくなったからである。さりとて母の戸籍にいれることも出来なかった。母は宮中で皇后様の身の回りの世話をする勤めがあったからである。 私は結局一人で能登の奥深い田舎の他人の家で暮らすこととなった。この写真は私が能登の端の隣町の幼稚園の時の写真である。前列の一番左側が私である。この頃より私は当主より事あるごとに,いじめられ頭を叩かれていた。特に父がビルマに派遣された頃より、その虐待は熾烈をきわめた。わたくしが村の小学校に入ってからが丁度その時期にあたる。こともあろうに私の頭を屋根の瓦で強打したのである。 私は慢性硬膜下血腫を起こしたのである。その為私は自分が誰であるか、自分についての記憶を喪失したのである。ビルマから帰った父は私を金沢郊外の白雲楼ホテルに呼び、私を一瞥しただけでその事情が分かった様で、親子は2-3時間黙ったまま対峙していた。 父は終戦内閣に入閣した関係で、A級戦犯となり、鎌倉の別邸に軟禁せられた。この間私は頭を瓦で強打せられた影響で、背骨が湾曲、金沢大学病院で治療を受け、ギブスに嵌って半年暮らして直した。父が戦犯容疑が解けて、金沢の白雲楼ホテルの前の大東亜寺,そのときは康楽寺となっていたがその一室で面会した。しかし私の頭は未だボッートした状態が続いていた。 その頃東京では労働争議が荒れ狂い、日本タイプライターは戦争に拠る損失が、当時で一億以上あり、当時の三和銀行より膨大な借り入れを行い、旧勘定を処理して、会社を立て直したのである。これが冒頭渡辺忠雄氏に出状した経緯である。話は戻るが、父はこの頃より寝ることがおおくなり、日本タイプライターの一室を自宅とし、ここで寝ながら重役会議を開き、決済をしていた。最後は日本レミントンランドを創立した。この頃私の頭はすっきりとしてきたが、叩かれた頭頂部が陥没してきたのである。硬膜下血腫の血が流失して、頭の思考力が出てきたのである。丁度この頃父は亡くなったのである。 父は戦後3人の他人の子を認知している。これで私が亡くなっても父の事業の後継人は父の会社を自由に出来なくなったが、この3人の子供も後継人に策を弄されそれに嵌っていき、父の会社はすべてきれいにその存在を消失した。 私は父が亡くなったのは中学3年の時であり、頭頂骨が陥没してきたのは高校1年の時である。そこで私もいろいろな策に弄され,鼻の手術を受ける羽目になり、その手術の際、手術のノミで今度はあたまの内から頭頂部の陥没を叩かれ、陥没が尖がった形となり、その際の頭蓋の衝撃で再び慢性硬膜下血腫となり、頭蓋骨はひび割れ、私は人間失格に陥り、激しい苦痛に苛まれる人生を送ることとなたのである。 鼻の手術の項参照(6/4, 6/6、6/7、6/20)
母は私が絶えず気になるようであったので、絶えず手紙等を送ってきたようだが、私には皆秘密にしていた。
母としては早く親子の名乗りを上げたかったのである。
しかし父の遺産を狙う者にとって差しさわりが多く、隠しに隠しとうしたのである。
母も辛かったであう。私が高校に入る頃母が親子の名乗りを上げたいと弁谷ハシに頼んだがハシは強固に反対して実現に至らなかった。