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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の幼少時代

2005年05月15日 11時12分00秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は5歳頃母と別れて能登の端の家に預けられた。これが私の人生の悲劇の始まりであった。父の母、私の祖母には異父妹が一人いて、その子供達は東京の父の家に養育せられており、その長女が能登の端に嫁に来ていた。私はこの長女の家に預けられたのである。その家は元来商家で呉服を商い、また近隣の農家に質草で金貸しをして財を成した。家督を譲られた当主は、商家を嫌い父に頼んでこの地方一帯の特定郵便局の請負の事業を始めた。この家には2人の年上の男の子がおり、私との反りが合わず私は家の中では惨めな思いをして暮らす羽目となった。私は父に子供がなく、父が祖母に懇願されて生まれた実子である。この事は「私の祖母」のプログで書いた通りである。本来なら父の戸籍に直接入籍させるべきであっあが、祖母が父の異父妹の長女に育ててもらうこと主張したのである。祖母は父の東京の家に住む事を生涯承知しなかった。私が父の戸籍にはいれば父の妻の元で暮らせねばならず、祖母が私に会う事があまり出来なくなったからである。さりとて母の戸籍にいれることも出来なかった。母は宮中で皇后様の身の回りの世話をする勤めがあったからである。 私は結局一人で能登の奥深い田舎の他人の家で暮らすこととなった。この写真は私が能登の端の隣町の幼稚園の時の写真である。前列の一番左側が私である。この頃より私は当主より事あるごとに,いじめられ頭を叩かれていた。特に父がビルマに派遣された頃より、その虐待は熾烈をきわめた。わたくしが村の小学校に入ってからが丁度その時期にあたる。こともあろうに私の頭を屋根の瓦で強打したのである。 私は慢性硬膜下血腫を起こしたのである。その為私は自分が誰であるか、自分についての記憶を喪失したのである。ビルマから帰った父は私を金沢郊外の白雲楼ホテルに呼び、私を一瞥しただけでその事情が分かった様で、親子は2-3時間黙ったまま対峙していた。 父は終戦内閣に入閣した関係で、A級戦犯となり、鎌倉の別邸に軟禁せられた。この間私は頭を瓦で強打せられた影響で、背骨が湾曲、金沢大学病院で治療を受け、ギブスに嵌って半年暮らして直した。父が戦犯容疑が解けて、金沢の白雲楼ホテルの前の大東亜寺,そのときは康楽寺となっていたがその一室で面会した。しかし私の頭は未だボッートした状態が続いていた。 その頃東京では労働争議が荒れ狂い、日本タイプライターは戦争に拠る損失が、当時で一億以上あり、当時の三和銀行より膨大な借り入れを行い、旧勘定を処理して、会社を立て直したのである。これが冒頭渡辺忠雄氏に出状した経緯である。話は戻るが、父はこの頃より寝ることがおおくなり、日本タイプライターの一室を自宅とし、ここで寝ながら重役会議を開き、決済をしていた。最後は日本レミントンランドを創立した。この頃私の頭はすっきりとしてきたが、叩かれた頭頂部が陥没してきたのである硬膜下血腫の血が流失して、頭の思考力が出てきたのである。丁度この頃父は亡くなったのである。 父は戦後3人の他人の子を認知している。これで私が亡くなっても父の事業の後継人は父の会社を自由に出来なくなったが、この3人の子供も後継人に策を弄されそれに嵌っていき、父の会社はすべてきれいにその存在を消失した。 私は父が亡くなったのは中学3年の時であり、頭頂骨が陥没してきたのは高校1年の時である。そこで私もいろいろな策に弄され,鼻の手術を受ける羽目になり、その手術の際、手術のノミで今度はあたまの内から頭頂部の陥没を叩かれ、陥没が尖がった形となりその際の頭蓋の衝撃で再び慢性硬膜下血腫となり、頭蓋骨はひび割れ、私は人間失格に陥り、激しい苦痛に苛まれる人生を送ることとなたのである。 鼻の手術の項参照(6/4, 6/6、6/7、6/20)
母は私が絶えず気になるようであったので、絶えず手紙等を送ってきたようだが、私には皆秘密にしていた。
母としては早く親子の名乗りを上げたかったのである。
しかし父の遺産を狙う者にとって差しさわりが多く、隠しに隠しとうしたのである。
母も辛かったであう。私が高校に入る頃母が親子の名乗りを上げたいと弁谷ハシに頼んだがハシは強固に反対して実現に至らなかった


私の祖母

2005年05月13日 06時42分28秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の父の母、私の祖母は嘉永生まれで昭和20年まで生きていた。 90歳である。私が昭和10年生まれだから、私が10歳の頃亡くなったのである。昭和19年の冬、ビルマから仏舎利が白雲楼の前の小高い山にある大東亜寺に遷渡され法要が行われたとき、祖母は能登の山深い田舎より大東亜寺まで出てきた。法要が終わった後は、お寺の山の下の白雲楼で静養していたが、まもなく亡くなった。 葬儀は一生離れなかった父の生まれた能登の山深い里で執り行われた。私は物心がつく以前より、その頃は元気たった祖母に抱かれ、また祖母の手作りの料理を好んで食べ、祖母に手を引かれ村の寺にお参りに連れて行かれた。 父の家は代々今で言う庄屋であったが、当時の加賀藩は代官を置かず直接地元の代表に統治をさせていた。父の家は代々その役を業としていた。しかし父が13歳の時その父親が亡くなり、祖母は一人で父を育てるために、田畑を耕し父も行商などをして商いを生計の足しにしていた。 また代用教員の職にも就いたが、向学の意志押さえがたく、祖母に内緒で東京に出奔してしまった。東京ではいまの早稲田大学に入り、政治経済学部に所属、弁論部で名を上げ大隈候に認められ大隈候の秘書の役割をしていた。 その頃秩父宮妃殿下の実家松平家の養子となったが、後離縁し桜井姓に戻った。この頃大隈候の庇護を受けていた松村介石のキリスト教に帰依していた井上スズと知り合い松村介石の仲人で教会で結婚式を挙げた。明治44年8月のことである。二人の間には女の子が生まれたが、幼くした亡くなった。これ以降二人には子がなく、昭和10年12月2日に前に記述した様に私が生まれたのである。 私の祖母が父に如何しても孫が見たいと懇願したのである。どうして父を母が知り合ったかは分からない。母の父が省庁の一方の旗頭であった関係で、父が母の実家に訪ねて行ったからかもしれない。政党的には大隈候に近かったからだと思う。 祖母は私が物心つく頃より私に絶えず、私に祖母が父に頼んで生んでもらったのだと、言いながら目に入れても痛くない可愛がり様であった。
祖母はよく私の母のことを話していたが、桜井スズに遠慮して表に出ないことを可愛そうにいつも思っていたようである。
私を能登の端に残してよく我慢をしていると話した。私の母は公家四条家の出身で、四条家は料理を天皇に出すのが役目であり、母も料理を一応勉強するため精養軒で働いていた時知り合い、母が白雲楼に遊びに来るようになったのと思われる。母の父親は当時は安田財閥の総師の一人であった。それ以前に父は四条男爵家の未亡人より贔屓を受け当時の母の父とも知り合っていた。祖母もそのことを知っていたので、私を天子様の子だと話していた。  


私の父が建築したホテル

2005年05月11日 11時12分12秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

このホテルは金沢市郊外の山に囲まれた小高い山の中腹に建てられた。「母と過ごしたホテル」の写真はホテルの玄関から写したものである。玄関からロビーに入るとあたり一帯が山に囲まれた湖の斜面にこのホテルが建てられていることが分かる。各部屋からは山の囲まれた湖が見えるようになっている。この写真はこのホテルが倒産した翌年にホテルの湖から私が撮った写真である。当時は私の父の社交場として使用され、ホテルに来訪する人は少なかった。 前に話したホテルの支配人の話だと、ホテルのフロントあたりをはえずり回ってちたそうである。まだ一人歩きが出来ない頃だから、1歳前であろう。
私は此処で母から色々教育を受け6歳までこのホテルで育ったのである。
母もこのホテルが気に入っていたらしく、このホテルの大広間の地元出の有名な日本画の巨匠相川松瑞の書いた襖や欄間,天井の荘厳な背景の中で、公家出の母としての教育をしたのである。 私の母は四条家の出であるが、母の父は二条家より養子に入っており、父は二条家の分家より養女を迎えている


三条西治子 私の母

2005年05月08日 11時35分37秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

今日は母の日です。私の戸籍上の母ではなく、私を生んだ母についての思い出を話したい。生母は2000年に亡くなっています。今年で7回忌となります。写真の左から3人目の人が私の生母です。大正2年生まれであるから今生きていれば92歳である。私の生母のことをこれから私の母の呼びます。母とは先に紹介した私の生まれたホテルで4-5歳頃まで一緒にいる事が多かった。と言うのは私の実父、これからは私の父と言いますが,父の別宅が金沢市内にありそこで私と母が一緒に暮らしていたからです。私の母の私に対する教育は、いかに天皇陛下とは大変なものであるかを切々として話し何度も繰り返し教えたことである。私の父が建てた懐かしい写真のホテルで。母は公家の出であるからその伝統を教えたものであろう。母は私とは6-7歳ごろ別れて当時の皇后陛下の身の回りの世話を生涯続けていたのである。母は第二次大戦後香道の宗家の後妻となった。当時私は小学校5-6年生であったが、私に会いに能登の端にある私が預けられている家まで東京からはるばる訪ねてきた。母は私を抱きしめながら、これからは皇后様に一生仕えるからもう私とは会えないかもしれないが皇后様を母と思い暮らすようにと、泣きながら話した。またこれから母はお嫁に行く事を話、香道の家元の名前を繰り返し話をした。今日は母の日なので、母と一緒に過ごした懐かしいホテルでの思い出を母に捧げたい。

このブログの写真の左から三人目が私の母で、三條西治子である。治子は四条家の出で、昭和22年3月18日に三條西公正氏に嫁ついたのである。公正氏の妻は皇后陛下の妹で二人の間には二男四女があってが、昭和20年11月8日夫人は亡くなられたのである。私の母の子供は私一人である。