財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
日本タイプの崩壊(17)日本タイプライター株式会社の再建整備計画私が延命順作に会ったのは、昭和47年9月30日であった。当時は日本タイプライターを辞めて三和銀行の渡辺忠雄氏、日鉄の稲山嘉弘社長、藤田観光の社長小川社長、名鉄の土川社長等と奥能登にゴルフ場の会社や観光会社を立ち上げていた。私が日本タイプに居た時は、タイプの会社の顧問をしており、月に一回は上京していたようである。私が業務部にいたので私に横に居た桜井繁雄常務の所に来ていたようだが、紹介されたことはない。当時日本タイプの顧問では岸信介氏もいたようで、父の民政党時代の残党が岸派に流れ父の事業が政治資金となっていた。この資金団体の一つが永井柳太郎の秘書で、元は神戸鈴木商店の金子直吉の秘書をしていた竹田儀一である。この竹田儀一と延命順作の接点は、父の創立した京都工作機械株式会社である。この会社は鉄砲や大砲の弾を造る工作機械を製作していた。延命や竹田は社長に名を連ねている。第二次大戦中は需要が旺盛で、本社が京都にあった関係上、島津製作所などが下請けになっていた。戦後は軍需産業としてアメリカの賠償工場に指定され、設備機械は全てアメリカに持ち去られたと延命が云っている。戦後は京都工作機械株式会社は毎日新聞との共同開発で、MNKモノタイプや英文タイプライターを製作していた。印刷局にも納入していた。戦後は特別戦時金融金庫保管人が特別管理人となり、債権者は日本タイプライターで代表者が福田耕であった。京都工作機械の社長であった延命順作は日本タイプの債権者として、三和銀行の代表者渡辺忠雄と共に名を登記されている。日本タイプは戦前より父が過半数の大株主となっており、旧債権が特別損失を負担する場合は個人又は金融機関である旧株主と共に個人又は金融機関である旧債権者に対しても新株の割り当てを認めることとし、、、、金融機関以外の会社である旧株主又は旧債権者には新株の割り当ては行なわない。(旧債権が特別損失を負担しない場合)この企業再建整備法にもとずいて、日本タイプは資本金2700万円を十分の一に減資、ついで資本金4000万円に増資した。その時父名義で10万株、前社長名義で3万3千株、北陽土地産業5万株,日本観光3万株、七尾造機3万株、で金融機関としては三和銀行2万7千株、富士銀行3万2千5百株であった。他取締役名義として延命順作以下4名に各2万株を持たせていた。父の支配下の株式は過半数に達している。このプログは京都工作機械の代表として延命順作が日本タイプの債権者として登記されていることを示している。