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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(17)再建整備計画 延命順作

2005年08月22日 12時19分01秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本タイプの崩壊(17)日本タイプライター株式会社の再建整備計画私が延命順作に会ったのは、昭和47年9月30日であった。当時は日本タイプライターを辞めて三和銀行の渡辺忠雄氏、日鉄の稲山嘉弘社長、藤田観光の社長小川社長、名鉄の土川社長等と奥能登にゴルフ場の会社や観光会社を立ち上げていた。私が日本タイプに居た時は、タイプの会社の顧問をしており、月に一回は上京していたようである。私が業務部にいたので私に横に居た桜井繁雄常務の所に来ていたようだが、紹介されたことはない。当時日本タイプの顧問では岸信介氏もいたようで、父の民政党時代の残党が岸派に流れ父の事業が政治資金となっていた。この資金団体の一つが永井柳太郎の秘書で、元は神戸鈴木商店の金子直吉の秘書をしていた竹田儀一である。この竹田儀一と延命順作の接点は、父の創立した京都工作機械株式会社である。この会社は鉄砲や大砲の弾を造る工作機械を製作していた。延命や竹田は社長に名を連ねている。第二次大戦中は需要が旺盛で、本社が京都にあった関係上、島津製作所などが下請けになっていた。戦後は軍需産業としてアメリカの賠償工場に指定され、設備機械は全てアメリカに持ち去られたと延命が云っている。戦後は京都工作機械株式会社は毎日新聞との共同開発で、MNKモノタイプや英文タイプライターを製作していた。印刷局にも納入していた。戦後は特別戦時金融金庫保管人が特別管理人となり、債権者は日本タイプライターで代表者が福田耕であった。京都工作機械の社長であった延命順作は日本タイプの債権者として、三和銀行の代表者渡辺忠雄と共に名を登記されている。日本タイプは戦前より父が過半数の大株主となっており、旧債権が特別損失を負担する場合は個人又は金融機関である旧株主と共に個人又は金融機関である旧債権者に対しても新株の割り当てを認めることとし、、、、金融機関以外の会社である旧株主又は旧債権者には新株の割り当ては行なわない。(旧債権が特別損失を負担しない場合)この企業再建整備法にもとずいて、日本タイプは資本金2700万円を十分の一に減資、ついで資本金4000万円に増資した。その時父名義で10万株、前社長名義で3万3千株、北陽土地産業5万株,日本観光3万株、七尾造機3万株、で金融機関としては三和銀行2万7千株、富士銀行3万2千5百株であった。他取締役名義として延命順作以下4名に各2万株を持たせていた。父の支配下の株式は過半数に達している。このプログは京都工作機械の代表として延命順作が日本タイプの債権者として登記されていることを示している。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライターの崩壊」(4)太田兄弟

2005年07月07日 08時58分58秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本タイプ及び日本観光の崩壊はこの二人抜きに語れない重要な兄弟である。弟はに日本タイプの最後の社長桜井繁雄でで私の祖母の養女の入り婿で、元は太田姓である。兄太田秀雄は日本観光の代表取締役で経理を担当していた。この二人が父の書生として昭和18年頃より桜井家にいたのであるが、元は東急西武の箱根戦争の関係で父に頼ってきたのである。
父は箱根の山奥の山をこの二人の親から買ったと言う話もある。
この別荘は秋の紅葉がとても綺麗で、近衛元首相が自殺する前この別荘に永く静養していたというこてであった。
戦後その別荘はどこに言ったか知らないが、多分近藤荒樹氏の別荘となっていたと思われる。
この兄弟は父から二人とも大学を出してもらっている。父の死後日本観光の経理を担当していた太田は、日本観光のダブル株を発行して刑事事件になるところであったが、当時の経営陣のダラシナサで助かったのである。
日本観光は日本タイプの親会社であるから、日本観光を乗っ取れば日本タイプも手中に出来ると当時蒲生証券という弱小会社が日本観光の大株主に躍り出たのである。この裏にダブル株発行という事をしたのが太田兄弟である。社長の桜井清次が狙われて、女を抱かされ会社の内情を漏らしたのである。それで買占めが始まり、乗っ取られそうになったが、父の一人会社であるから太田等のダブル株発行が発覚して事なきを得た。ここで太田兄弟を首にすればよかったが、桜井清次にはそれが出来なかった。
日本観光の経理担当であった太田は名義株をもている名義人から密かに名義株を買い集め、日本観光を日本タイプから分離する準備を着着と進めていた。これは太田の悪知恵からの発想であろう。父の子供に株式が渡る事を阻止するためであるが、桜井清次他全取締役の合意があったからである。どうせ会社は子供に行くのだから潰してしまえというのがかららの発想である。私が日本タイプの元社長の延命順作に会ったとき云われたことと同じである。太田は日本観光の倒産の道筋をつけ、桜井清次とともに会社を退任している。勿論父から預かった日本タイプの株や日本観光の株を売却した金を懐にしてからである。これは昭和60年太田の弟の桜井繁雄が日本タイプをキャノンに身売りしてからである。この写真の右が兄の太田秀雄で左が弟の桜井繁雄である。この時には父の子飼いの日本タイプの重役はすべて亡くなっており、残っているのは近藤荒樹ぐらいしか居なかった。
このプログの写真は太田、桜井兄弟である。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(3)日本観光の違法な2.5倍の増資

2005年07月06日 10時26分39秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

このプログの写真は昭和60年日本タイプのキャノンに身売りした時の日本タイプの取締役が日本観光の取締役を兼任しており、当時の日本観光の代表取締役の連中でる。写真むかって左より日本観光代表取締役社長桜井能唯、同会長桜井清次、同常務太田秀雄である。太田秀雄の弟で日本タイプの社長桜井繁雄は日本観光の取締役でもあるが、日本観光の株主総会には経営陣として主席していなく、日本タイプの社員を名義株主として引率、株主として出席している。昭和47年に日本観光は倍額増資をしたのであるが、そのうち100%は無償増資とし、10万株を第三者割り当てとして日本タイプに発行したのである。資本金は一千万から二千万となり、日本タイプ500万と合計二千五百万の資本金となった。この決議は昭和47年である。当時日本観光は日本タイプの大株主であったから、子会社が親会社の株式を所有する事は法律で禁じられていた。日本観光は私の父の一人会社で、株主名義人は沢山いたが実質の株主ではなかった。康楽寺は一番の大株主で、この写真の取締役等にはそれぞれ名義株を与えていた。また日本観光は日本タイプの大株主であり、この写真の取締役にそれぞれ日本タイプの名義株を与えていた。彼等つまり日本タイプ、日本観光の役員は自分名義株を自分の物とするため、お互いに万を持して機会の到来を待っていたのである。これ時が昭和60年8月の日本タイプのキャノンえの身売りである。それで日本タイプの桜井繁雄、桜井清次、桜井能唯、太田秀雄等が父から与えられた名義株をキャノンに売却、つまり横領である。桜井能唯は日本タイプの日本観光の持ち株を自分の会社百万石文園の所有とし、日本観光の崩壊の筋書きが出来たのである。この写真は昭和55年頃の日本観光の株主総会のときのもので、宗教法人康楽寺、日本観光が父の戸籍上の妻子を相手に父の個人の寺である康楽寺の本殿計画がなかったものとして、訴訟を提起康楽寺の本殿計画の敷地を桜井能唯の百万石文化園のものとする為と父の戸籍上の子供らの日本観光の株は全て少しの金で解決するために起したのである。子供等は父の株式を実質所有していなかったのである。この妻子相手の裁判の勝訴により、キャノンの身売りの時期を待っていたのである。これで日本タイプと日本観光の株式はそれぞれの取締役の所有つまり横領に成功したのである・日本観光は平成10年に倒産したのであるが、実際は平成元年に桜井能唯が」日本観光の株式を上記の手段で手に入れ、だれも買い手がないので、私が昭和27年私が金澤国立第一病院で鼻の手術を受けた際脳天を強打され、人間破壊を起した際、裁判認知を受けた吉田某がこの時日本観光の社長となり弁谷貞造が副社長として、日本観光の株式売り渡をし、会社の不動産に抵当権を付けその金で桜井能唯から株式を買い取り、桜井能唯,その子供康子、及び裁判認知された吉田某が石川県の高額所得者となった。その数年後弁谷貞造の妻が同じく石川県の高額所得者となり5億円の所得税を支払っている。日本観光の不動産に抵当権をつけて株式を桜井能唯の日本観光を売却したときの報酬金である。何故なら弁谷貞造の妻の兄弟にはだれも高額所得者がいないからである。また父の個人の寺康楽寺の所有する株式を桜井能唯に売却したときの報奨金である。父の戸籍上の妻子は父の実の妻子ではなく、この寺は私の父が私に相続させたものであるがその管理をしていたのが弁谷栄で昭和29年に亡くなると、弁谷貞造がそれを引き継いで私には知らん顔をして桜井能唯や桜井繁雄の悪事に加担、私腹を肥やしていたのである。本来なら珠洲の地元に帰り、弁谷家を相続して居なければならないのに、日本観光に入社当時の日本観光の社長桜井清次の秘書をして父の麻布の本邸な売却に関わっていた。この本邸の売却代金が日本タイプ等の会社の増資等に使われ、また江戸村の資金に流用され桜井能唯の康楽寺の日本観光の株式の買収資金に当てられた。


白雲楼、起雲閣「日本タイプの崩壊」(2)桜井繁雄

2005年07月05日 10時52分34秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私が日本タイプに入社したのは昭和33年4月である。この頃日本レミントンランドは昭和26年1月に設立、20年契約であった。アメリカが6割、日本が4割の資本である。日本最初の合弁会社である。当時は英文タイプライターの組み立てが主力であったが、その需要は旺盛で私が入社した時は計算機、会計機や事務書類のファイル等のキャビネット等を輸入販売していた。アメリカ本土ではレミントン・ランドとと計器製造のスペリーが合併して昭和30年スペリランドとなっていたが日本では従来の通りであった。アメリカでは日本にコンピュターを売り込みにどうしてもサーヴィス部門が必要であり、日本の官庁はすべて日本タイプを通して行なう必要があった。それだけ日本タイプは官庁の信頼があつかったのである。世界で最初にコンピュータを開発したのがレミントンランドで、それに負けじと追いついて来たのがIBMである。当時は三井物産は解体中であり、昔パンチカードシステムの統計機の時代は吉沢氏が担当していたが戦後レミントンランドが出来た時、吉沢氏も取締役になった。これで日本レミントンでのコンピュターの販売も可能となったが延命順作が日本タイプとの社長を兼務していたため、色々の不祥事でアメリカの社長も首になり、日本タイプ側はヘッピリ腰で話がうまく進まず、日本タイプの相談役岸信介氏の仲介があったが話が進まず、結局三井物産がもとのサヤに収まって、東芝の合弁で日本ユニパックが設立された。父は日本タイプ340%アメリカ側が60%としたのは、将来三井物産の参入を予定しての事である。アメリカ側があくまでも日本タイプの参入を希望したが、将来の発展を見込めない重役連はしり込みしたのだ。私を社長にするのが嫌だとしても、将来を見据えての決断が出来なかった。そこは法律の国アメリカである。契約上もそうなっていたのであるから、日本タイプの参加を要求してきた。ここで日本タイプと日本レミントンの決裂が生じたのである日本タイプは私が社長でないと話が進まなくなったので、手を引いてしまったのである。当時は延命順作はすでに両方の社長から身をひいており、日本橋通りの日本タイプの建設予定地にパチンコ小屋を建てそのゲームに日々楽しんでいた。私はある時日本タイプの社長室に呼ばれたが、入室した時社長が居ないので暫く立った儘でいると本間社長が突然入ってきて私に突撃する様にブツカッテ相当の衝撃を受けたが、知らん顔おしていた。たいした用事もなく人を突きとばして知らん顔をしている社長を見て何を考えているのか判らなかったこれには以上のような背景があったからである。この社長は父の金庫番といわれた人で、金の計算しか出来ない男であったが、橋を叩いても渡らないひとで、当時は給料も遅配でしかも半月払いであった。何故かその後その社長の家に呼ばれていったことがある。社内ではいつもラバーソウルの付いた靴を履いて、いつのまにか私の傍にきて黙って見ている事がしばしばあった。当時私は業務部で支店間の伝票の作成をしていた。わたくしのすグ横に居たのが日本タイプを崩壊させた桜井繁雄で当時は常務の肩書きであったが一日中手持ち無沙汰な様子で、何をしているのか判らなかった。ブログの写真がそうである。この男が一階のショルームの女を妾にしていたことを後で知った。この男が近藤荒樹の所に頻繁に行き、私が日本タイプの社長になることに反対を唱えていた