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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

康楽寺乗っ取り事件

2006年03月29日 08時57分50秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

之まで康楽寺が如何に乗っ取られたかを詳しく述べたブログは、2005年6月16日
「弁谷栄の作成した康楽寺の敷地図面」同年6月17日「桜井能唯が康楽寺の境内を
不法に取得した経緯」同年6月20日「弁谷貞造が康楽寺本殿と指定した場所」
同年6月21日「康楽寺本殿の敷地が百万石文化園に横領された経緯(1)~(3)」
同年6月21日~同年6月23日の通りであるが、今回のこの裁判は康楽寺の建物
のみどうしようもなく、裁判で決着をつけ、判決で建物を撤去させようとする桜井能唯
の目論見と、康楽寺を管理していた弁谷貞造が最後に父の資産の取り分の争い
と見ることも可能である。
桜井能唯は日本観光の50万株の過半数25万5千株を取得したとした、日本観光を
桜井清次が、裁判認知をしてこれまで温存しておいて切り札として利用価値がある、吉田宏明に渡し、桜井能唯が社長の座を降り
シュガーアイランドに会社の土地を抵当にして、60億の借り入れをし、桜井能唯は
42億円を取り、3億円はシュガーアイランドに手数料として渡し、残りは吉田広明が
取得、平成3年には桜井能唯が株式売却益の所得税として5億数千万円を納税、石川県高額所得者第一位になっている
その娘桜井康子は百万号文化園の社長として、2億円の所得税を支払った。この資金は日本観光が倍額増資し際、第三者割り当てを日本タイプライタ-に割り当て、日本タイプライターがキャノンに身売りする際、桜井清次、桜井繁雄、太田秀雄、逸見取締役等が日本タイプの父の持株(三和や安田信託が所有していた信託株)をキャノンに売り渡し、桜井能唯は日本タイプ所有の日本観光株を日本観光の資金で買い取ったのでであるが、桜井康子の壇風園の名義としたものでである。日本観光の代表取締役桜井能唯が、自己取引で自社株を取得して日本観光を乗っ取ったのである。
吉田宏明も同じく同年、1億数千万円の所得税を支払った。
上記会社の資産を抵当にした金の分配金である。
しかしここに弁谷貞造の名前がない。
康楽寺の建物だけはどうしても自分の物に出来なかったので、康楽寺の存在を
地上から消すため、桜井能唯と弁谷貞造が馴れ合いでこの訴訟を起こしたもの
である。
この訴訟で康楽寺の存在自体が、霧散し檀家、信徒の存在が元々ないのだから、
ウヤムヤになり、ここが裁判の欠点で、和解に至ったところで原告が訴訟を取り下げ決着している。
この過程で康楽寺の資産である西武鉄道関連の株式その他株式等が、処分されたか
事業投資組合に資金として投資をし、その残余分が弁谷貞造に渡ったものである。
この中には弁谷昌造も入っている。
この分け前は弁谷貞造の妻智子の相続に見せ掛けて、支払われた。または康楽寺が担保とした日本の四季を5億円の譲渡担保金としたり、日本観光株売却代金60億から、桜井能唯に渡った42億円の差額18億円等が弁谷貞造に入り、妻智子の相続として処理した。又康楽寺所有の10万株を桜井能唯が自分名義とし、合計25真万5千株を取得したのであり、自分の会社に抵当権とつけた60億円を分配したのである。これは吉田宏明が行った事になっている。しかし日本観光には200億以上の借財が残っており、日本観光の破産管財人が日本観光を放棄したのである。ここに管財人と弁谷智子、昌造の了解が存在している。

弁谷昌造と智子は、父が私に信託受益金としてつけた康楽寺建設財団の受益権利を、弁谷ハシを使って私から白紙委任状を騙し取り、父の康楽寺資産を日本観光の200億円以上もある借金と棒引きをたくらんでいる。

平成5年には弁谷智子は5億円の相続税を支払っている。桜井能唯に次いで、石川県高額所得者となっている。

これは上記の企みがあり、これまでの白雲楼の倒産はあくまでも見せ掛けだあって、実際は康楽寺の資産と横領である。
このカラクリはライブドアーと同じく、事業投資組合を使ったのである
。弁谷智子の実家は桜井能唯や弁谷貞造等が投資している投資組合の社長に売却している。弁谷智子の実家は堤義明の麻布の家の直ぐ裏にあり、桜井能唯等の投資したこの会社は前阿部総理の側近であった。


康楽寺建物収去土地明け渡し事件(3)

2006年03月28日 09時41分23秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

康楽寺は之までもブログの中で記述うぃたが、父が個人の寺としての認可をうけたものであり、父の資産を全て寄付して、将来康楽寺の本殿の建築及び付近一帯の50万坪
を境内とし、白雲楼や起雲閣を含めて美術、保健、宗教の殿堂とすることを寄付行為
に定めている。
日本タイプライターは日本文化の元である日本語の規格化、合理化、機械化及び
アジア諸国との文化のつながりとしての言語の標準化をも目的としていた。
仏教文化を共通としするアジア諸国との、美術、宗教を基盤とする日本の文化を守り
育て、健全なる国民の心身ともに発展して行くことを目的として、康楽寺を創立した
のである。
昭和19年に財団としての認可を受けて以来、戦後の復興を待って十数年掛けて
事業を完成することになっていた。
昭和19年に金沢市内にあった元横山男爵家を買いうけ、白雲楼に並んで康楽寺
の仮殿を建築したのである。
従って康楽寺の建物は父個人の所有になるもので、その土地も父名義であった。
康楽寺の建物は登記がなく、当時の宗教団体法怜に基づき石川県庁に届け
られたいるものである。
康楽寺の所在は従って本殿が建てられる、石川県石川郡湯湧谷村湯湧へ19番地
である。
この土地は整地され本殿が建てられるような広さがあった。
この土地に昭和40年になってから、江戸村が突然建築され始めたのである。
父が死去しおてから14年経過している。
金沢地裁の土地明け渡し請求の原因のなかで、桜井能唯は父が江戸村を建てる
こと指示していたと書いてある。
つまり何時までも父の康楽寺建築が実行されないので、担当官庁である文化庁
より、事業着手の要請があった為の口実を作る必要があったのである。


平成6年(ワ)第184号金沢地裁 建物収去土地明渡事件

2006年03月25日 12時42分18秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井能唯が日本タイプが所有する日本観光株式14万株及び康楽寺が所有する
日本観光株式9万9千900株の合計24万株を、日本観光の子会社である百万石文化園が取得し、その後百万石文化園を自分の会社とするのである。
そのカラクリは投資事業組合を通じて、資金をプール、還流させたものであろう。
日本観光の過半数の株式を不法な手段でえたことを考えれば、簡単なことである。
桜井能唯は25万5千株を取得したとしているが、全て父の康楽寺え寄付した資産
である。つまり横領である。
24万4千株も横領なら、残りの1万5千株も横領である。
父が名義株として桜井能唯等の名義としたのであるからである。
この後はマスコミが報道したとおりである。
桜井能唯は吉田宏明を使い、横領した株式を
シュガーランドに売却、白雲楼の土地建物に60億の抵当権を
付けた。
この頃は未だ日本観光は息絶え絶えに存在していた時、桜井能唯が
康楽寺に対してその土地の明け渡しを求めた裁判である。
先のブログで説明したように、日本観光と日本タイプの取締役は兼務であり、
日本観光が親会社であった。
これら取締役達が集まり、日本観光を売却する同意を互いに取り交わしている。
この時は日本タイプは既にキャノンに売り渡した後である。
日本観光を如何に処分するかがこれら取締役の最大の関心事であった。
先ず日本タイプをキャノンと業務提携に見せかけて売り渡し、その際日本タイプに
不法に割り当てた日本観光株14万株を、桜井能唯が社長の百万石文化園が取得、
勿論その金は日本観光の資金を充当したものである。
次に康楽寺の株式10万株を同会社が取得するのである。
勿論この株式は父が財団康楽寺に寄付したものである。
そこで康楽寺は全て桜井能唯に資産を奪われたのである。
康楽寺の建物は勿論父のものであり、その土地も父の名義であったが、昭和56年に父の
戸籍上の妻子をあいてに、生前の父がこう言っていた、ああ言っていたとして
弁谷栄、ハシの書いた、康楽寺本殿計画が取りやめになったとした偽造文書を
証拠書類として提出、父が生前、康楽寺の土地はお寺の土地にしなさいといっていた
と勝手なことを
桜井能唯や弁谷貞造が証言、貞造は日本観光の総務部長として
つまり実務者として、土地のことは前任者より引き継いでいると証言、父の土地を裁判所をだまして横領してしまったのである。
しかし康楽寺は父個人の寺であり、その相続人は祭祀相続人である私である。その後日本タイプをキャノンに売り渡し、日本観光の所有していた日本タイプ株式
即ち父が康楽寺に寄付していた株式をキャノンに売り渡したのである。
その後上記の取締役が集まって、日本観光を如何に処分するかを相談し、桜井能唯が社長の座を吉田宏明に渡したのである。
この男は父の死後、桜井清次等が裁判認知をさせたもので、この場面に出番が来た
のである。
日本観光が既に40億円以上の借財があり、それに吉田宏明が60億の借り入れを
行い桜井能唯より株式25万5千株を上記の手段で、一旦日本観光の子会社百万石文化園の所有とし,ついで百万石を自分の会社とし、つまり横領したのである。
会社は当然倒産の運命にあったが、康楽寺を処分することが出来ず、上記の裁判を金沢地裁におこしたものである。


父の資産を横領した政治的背景 堤康次郎 竹田儀一(永井柳太郎)-清和会

2005年06月24日 10時36分15秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

これまでのブログで父の資産を横領するため如何にして狡猾な手段を用いてきたを述べた。 しかしその背景には政治的大物がいて、桜井能唯や弁谷貞造等が言葉巧みに利用してきた。 父の戸籍上の子供は永井柳太郎の子供である事は既に述べた。 永井柳太郎は早稲田騒動で早稲田を追放されたが、大隈重信はその才を惜しめ、父に政界進出の 助力を依頼、父が中心となって永井柳太郎の政界進出を図った。 それに便乗したのが堤康次郎で、永井柳太郎亡きあとは私の父はその隠し子まで引きとって自分の戸籍に 入れたのである。 永井柳太郎の秘書をしていたのが竹田儀一で、父の各種会社の取締役をしており永井柳太郎の 資金パイプであった。 堤康次郎は永井柳太郎には頭が上がらなかった。 永井柳太郎の秘書竹田儀一は戦後は厚生大臣等を歴任病院関係には強い繋がりがあった。 父の背景には堤康次郎があり、父が永井柳太郎の子供を認知した関係で、堤康次郎は父の 家の内情にくわしかった。 一方戦後の政界で著しい発展をしたのが,益谷秀次で戦前は父と同じ選挙区でライバル関係にあり いつも父のみ当選していた。 この益谷秀次と弁谷家はいくらか親戚関係であった。 この関係は桜井能唯と同じ程度の間柄であった・ この永井柳太郎の秘書竹田儀一は保守本流の派閥の資金団体の代表で、昭和48年死亡するまで 政治資金団体の代表であった。 この世話人の中に本ブログの冒頭で述べた三和銀行の頭取渡辺忠雄氏がいたのである。 こういった人脈の中に父の村役場に放火させた延命順作がいたのである。 これだ父の資産の乗っ取りの背景が判ろうというものである・ ぞの相手が金澤国立病院で脳天を叩かれ馬鹿になった私一人であるから、事は簡単である。 しかし戸籍上の子供を私のように脳天を強打して、馬鹿にすることは出来ず、父の会社を 地上から消してしまう事であった。 しかし最後まで消す事が出来なかったのが、康楽寺の仮殿であり、父の遺言である康楽寺の 本殿建築計画であった。 これが先のブログで述べた金澤地裁に提訴した康楽寺た建物収去事件である。 本プログの写真は康楽寺仮殿の裏を撮影したものであるが、先のブログの図面とは全然似たところ がない。 また康楽寺の仮殿は未登記物件であるから、登記簿謄本があること事態が嘘であることを証明している。 従って金澤地裁に提出した康楽寺の建物の登記簿謄本は偽者であることは明白である。


康楽寺本殿の敷地が江戸村(百万石文化園)に搾取された経緯(2)

2005年06月22日 10時28分17秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

これまでのプログで康楽寺の本殿の敷地がいかに公図を変更し、公文書を偽造しているかを記述 した。 公図は土地と土地の繋がり方を公証したもので、これによって土地の所在が判るようになっている。 先のブログの写真で示したように、康楽寺の仮殿の前の広場は康楽寺本殿の建築地であって、いつでも工事が着工できるようになっていた。 即ち康楽楽寺本殿の建築地は金澤市湯涌町へ19番地である。 この土地が康楽寺の本殿建築の土地で、父が亡くなる頃は未だ土盛り整地の途中で、ほとんどは完成していたが、康楽寺と白雲楼の山の谷間を少し埋めて整地する部分のみ残されていたのである。 しかし昭和41年ごろよりこの敷地に江戸村の建物が建ち始め、本殿建築地を占拠していくのである。 本殿建築の所在地である金澤市湯涌町へ19番地は山林であったが平地に開鑿してあり、 登記上は山林となっていた。 この地籍は9、000坪あったが、文筆、文筆でこの敷地の彼方に少しだけのこっているが、 大部分が湯涌町32番2号に合筆され、康楽寺の仮殿の所在ちが湯涌町33番地3号に変更され 湯涌町32番地2号には江戸村の松下家や山川家と称する金澤市内にあった旧商家をここに 移築したのである。 それで昭和63年になってから公図を偽造して湯涌町へ19番地を湯涌町32番2号に変更したのである。 これは先のブログで説明したとおりである。 この康楽寺本殿の土地は父の持ち株会社北陽産業株式会社の所有で、即ち日本観光株式会社 の所有となっている。 康楽寺も日本観光も父個人の所有になるわけで、本殿建築の上経営は一体となって行なうこと を意味している。私が父の後を相続して康楽寺本殿の建築を行なう様になっていたが、金澤国立第一病院で頭蓋骨を強打され人格を喪失させた後、桜井能唯や弁谷貞造等が共謀して、それぞれの役割を分担して父の康楽寺計画を無視して、父の」資産を横領したのである。即ち組織的犯罪行為である。 このブログの写真は一番上が康楽寺の仮殿で手前の江戸村の建物が松下家、山川家の金澤市内 の旧商家を移築したものである。