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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私と731部隊と海軍技術中尉桜井芳忠

2008年05月15日 22時33分19秒 | 桜井芳忠

私は17歳の時、金沢国立病院で種村龍夫院長の下、鼻の手術をうけた。其の時私の手術をした飯田高校教師の偽医師中村晃章がメスで頭蓋骨を私の頬の肉を切り開き、頭蓋底から頭蓋骨を強打し、私は驚愕して執刃医を見ると薄っすらと汗をカキナガラ、力を込めて私の頭蓋骨を強打するその男の顔を見たのである。確かに飯田高校の教師の中村晃章であった。このような行為は普通の神経では出来ない。過去に何度もこのようなことを行ったとしか思えない。恐怖に襲われながら、頭蓋骨が叩かれている現実に驚愕した。このことは何度も記述したけれど、この病院は731部隊と大変関係深いことを私の手術した種村院長を調べるうちに知ったのである。 新宿の国立病院の跡地から何十体もの人間の骨が出てきた事など極最近のことであったが、そこが731部隊の本部であった。そこで生体実験を戦前行っていたのを隠すため、解剖した遺体を隠したのが工事中に出てきたのである。 731部隊のことは極最近まで真相ははっきりしなかったが、ここ10年に極めて詳細な研究が色々発表されている。極最近ではキャノンの創立者が731部隊に所属、していたと報道されている。 そうゆう関係では、海軍中尉桜井芳忠は海軍軍政部のあったセレベス島のマッカサル病院長であった金沢国立病院長の種村氏と私の手術した男の三人は既知の間柄であったのである。 特に金沢は731部隊とは関係が深かった。731部隊の隊長で陸軍軍医中将の石井四郎は、四校、京大を出て陸軍軍医となり、その後731部隊を創設、金沢医大の講師として731部隊の活躍を医学校の生徒たちに講義した。その医学校の生徒の中に私を手術した男もいたのである。731部隊の石川太刀雄丸は生体実験の標本800本を持参して、金沢医大の教授に昭和18年に就任している。同じく金沢出身の二木秀夫や増田知貞などは、内藤良一とミドリ十字を設立しておりハルピンでの生体実験の成果である、乾燥血清や血漿の技術を企業化したといわれている。

 白雲楼をデザインした武田五一氏は、日本観光や日本タイプライターの取締役であった福島行信邸を設計しているが、福島氏の妻の弟である清野謙次邸を設計した関係からといわれており、云うまでもなく清野謙次は731部隊創設者石井四郎の恩師と言う関係である。従って海軍中尉桜井芳忠は戦後日本観光取締役となり、白雲楼支配人として、731部隊との関係が戦後も続くこととなり、私の鼻の手術が金沢国立病院で行われたのである。  


桜井芳忠及び辨谷貞造の悪業

2006年04月14日 08時48分57秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

瑞雲泉業株式会社の設立
百万石文化園の設立より少しまえ、昭和40年1月22日この会社を設立している。
この会社は父は所有していた能登特に、珠洲市の資産を横領する為に設立したものである。
 珠洲市上戸町に明治時代、朝鮮や中国との交易で財を成した中谷家の建物があり、父は私に与えていたものである。
父は当時川崎財閥と組んで能登の石膏の開発を行っていた。
石膏鉱山をケーブルで山を超えて結んで、石膏を運んできたのである。
当時は実務は、大宝弥男児氏が開発を行ったのであるが、辨谷家に於いても
石膏のケーブルの通る地主に賃料を支払う業務をしていたのである。
この石膏の鉱山は当時石膏の輸入が途絶えた日本においては、貴重
なセメントの材料であり、無くてはならないものであった。
その石膏の積み出し地が上戸村にあり、桟橋から沖合いの貨物船に
石膏を運搬、積み込んでいた。
その敷地内に豪商であった中谷家の大きな建物が存在していたのである。
中谷家は没落し、石膏の積み出し地にあった建物を父が買って私
名義にするようになっていた。
しかし父が亡くなった昭和26年2月11日以降には、辨谷栄は其の手続きを放棄、他人に賃貸していた。
ところが昭和40年1月22日瑞雲泉業株式会社を日本観光の資金で
設立し、父の買った中谷家を牽引して桜井芳忠の自分の出生した家の隣まで
持ってきて、新築として登記をしたのである。
この建物が「能登記念館喜兵衛ドン」とよばれるもので、桜井芳忠(後年何故か能唯と改名)の
出生した家の昔からあったものを陳列し、江戸村のような観覧料の収入を得る目的で、開業したのである。
父は地元の山林等を買収し、能登の産業の育成に資することとしたいた。
山林を育てることによって地元の漁業が発達し、地元の酒造業の発展
に寄与するからである。
水と山林を大切にするというう目的で父は地元の山林、山を買い取ったのである

父のこれら資産を手に入れようとして設立したのが、この瑞雲泉業のなのである
江戸村、百万石文化園及びこの瑞雲泉業のため昭和57年には日本観光株式会社
は25億を借入金をし、年間2億の金利をしはらっている。
年間売り上げが17億円、純利益が800万円である。
これが昭和60年をすぎると、借入金が45億を超えることとなる。
これでは会社は倒産に向って進んでいることは明らかである。
父と一緒に能登の石膏開発をしていた大宝氏は戦後、右翼の大物
に名古屋市にあった大宝産業株式会社が乗っ取られ、また戦後
石膏も海外から入ったため、この会社は廃業したのである。
大宝氏は銀座に事務所を持ち、仕事をしていたが、桜井芳忠等が
喜兵衛ドンの敷地は、北陸電力から、白雲楼の資金で買ったが、
尚中谷家のあった元のの土地や大宝の敷地等を買収しようとしていた。
大宝氏から買い取った、とゆうより元々私の名義
にする事になっていたので、大宝氏は桜井芳忠の買取を首肯しなかったのである。
しかし右翼の大物や地元政治家の圧力で大宝氏は妥協したのである。何故なら大宝氏の本業がその右翼に乗っ取られたからである。
この右翼の大物の処の自由に出入りしていたのが、私に鼻の手術
を執拗に勧めた高校生の同級生の弟であった。この鼻の手術によって
私の脳が破壊されたのである。これは以前に述べたが桜井芳忠も
この事件に関わっていたこたは、以前のブログで述べたが実はこのような背景があったのである。
大宝鉱業は昭和30年頃株式会社となった。
それまでは父が安宅産業等と起こした日本亜鉛株式会社及び日本亜鉛精錬株式会社の一部として処理されていたのである。
亜鉛は鉄の製造に無くてなならないもので、父は鉄鋼業と関連が深かったのである。
安宅産業は無くなったが、日本亜鉛及び日本亜鉛精錬株式会社は戦後東邦亜鉛株式会社となって現在でも業界のトップにいる。
大宝氏は愛知県の知多半島の冶水灌漑植林で、広大は土地を開発し
朝鮮や満州等にも植林等の事業を行っていた。
治水、植林は国の基本事業であり、奥能登開発興行法を制定し、
将来の奥能登の開発に父は心をくだいており、大宝鉱業の廃業後は
そのケーブルや機械等は、能登飯田港の埋め立てに使われた。
また父が所有していた興亜鉱業は戦後藤田観光の設立に預かっており、鉱業と観光、治水植林を一体化して将来の日本を考えていたのである。能登の大宝石膏が父の事業モデルであったのである。



白雲楼倒産及び康楽寺の敷地、建物の収去事件の真相

2006年04月10日 08時29分46秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井能唯は昭和47年に日本観光株式会社の社長になった。
それまでは桜井清次が社長であったが、日本観光株式会社が違法な
二倍半の増資をした時に、桜井清次より桜井能唯に変わったののである。
これを主導したのは辨谷貞造である。
それと同時の富士銀行から来ていた日本タイプの高見社長が相談役
に格下げされ、桜井繁雄が日本タイプの社長となったのである。
この目的は何かと言えば、日本タイプと日本観光の分離を図ることに
あった。
日本観光が日本タイプの親会社になっていることに、上記の関係者は
危惧を持っていたのである。このまま行けば父の子供に、両会社を渡さななければならないからである。
日本観光が違法な倍額増資の背景には、父の遺言があったからである。
会社を分離し会社を倒産させれば、父の資産を自分の物と出来る。
これが彼等の発想である。
従って日本タイプは桜井繁雄が、日本観光は桜井能唯が主導して
父の資産を横領する手はずを整える必要があったのである。
先ず最初に上記の日本観光の日本タイプえの、違法な株式割当である。
これによって桜井能唯が日本観光の過半数の株式を取得することが可能うとなったのである。。父の個人の寺である康楽寺を乗っ取るため、上記の康楽寺収去事件を起こし、康楽寺の日本観光株式
十万株と、日本タイプに割り当てた株式十四万株及び父が桜井能唯名義とした株式一万数千株で、日本観光の過半数の株式二十五万五千株を自分名義として、父の資産を横領したのである。
一方桜井繁雄は日本タイプはキャノンに身売りすることが可能となったのである。日本観光と日本タイプの取締役は兼務であったから、お互いに牽制しながらも、会社を分割し父の資産を横領する話し合いが、出来たのである。
しかし日本観光の桜井能唯、辨谷貞造はモット欲深かったのである。
 桜井能唯が社長になるや、江戸村を日本観光の資金を流用して立ち上げ、父の康楽寺の敷地に古い屋敷を移築、文化財と称して展示し始めるのである。
また壇風園と称して、広大な土地を日本観光の資金を流用して取得、
百万石文化園としたのである。
これらは全て日本観光の資金で賄われ、日本観光は莫大な借り入れをし、一年の売り上げ二十億で安定していたが、
、借り入れ金の金利だけで、年間一億円以上の金利を払い、会社の利益は僅か八百万円となったのである。
それから平成初年に掛けて、違法に取得した株式を桜井能唯は自分のものとし、会社の株式の過半数を取得したとして、会社を売却するのである。
日本観光の資金を違法に流用し、百万石文化園を創立し、会社を以上のような違法な手段を使って、
桜井能唯の個人のものとしたのである。
しかもこの違法に取得した父の資産である白雲楼や康楽寺を、金沢市に五億四千万円で売却、同時に日本観光を倒産させたのである。
金沢市は文化財と称する建物は寄付せよとして、金沢市のものとしたのであるが
こんな違法な取引を地方自治体がするとは、自治体の遵法精神を
踏みにじるものでしかない。
地方自治法では、法律に違反した自治体の取引は無効としているのである。
 


康楽寺敷地を等5億4千万で金沢市に売却事件

2006年04月02日 10時17分32秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

平成10年3月25日桜井能唯は金沢市に康楽寺本殿の建築地金沢市
湯湧町へ19番地等父の名義の土地を含め、5億4千万円で売却
する契約をし、市教育委員会が管理することがきまったのである。
昭和40年から江戸村の建設が、日本観光の資金であはじまり、
昭和42年には北陸鉄道から、8万4千3百平米の土地を、日本観光の
資金で買い、壇風園として、百万石文化園を日本観光の子会社として
設立、古い建物などを金沢市や福井市とうから移築し、見世物として
経営を始めた。
本来なら市町村が古い建物を管理し、観光の目玉とするのが普通
だが、ここは延命順作の仲間である、名古屋鉄道の明治村に倣って
江戸村を建設し始めたのである。
このアイデァは延命順作からきていることは明らかである。
延命順作は父の京都工作機械等を売却した資金で、能登で能登観光、能登
興行等を立ち上げ、日鉄の社長や、名鉄の社長、藤田観光の社長を
仲間に入れ、地元で幅を利かせていた。
延命順作は日本タイプの乗っ取りが旨くいかず、その子分が柳田村
の役場や京橋税務署の放火容疑で逮捕されると、責任を取って
日本タイプやレミントンランドの会社の社長を座を降りたが、日本タイプ
の顧問として父が保有していた元の日本タイプの本社の土地等を
支配して、三和銀行と一緒になって父の資産を自分のものとし、上記の諸会社を設立し、日本タイプや日本観光に君臨していたのである。
この延命順作の発案で明治村に倣って、江戸村を日本観光の資金
で建設を始め、壇風園の土地も日本観光の資金で購入したのである

この時点で桜井能唯等の間には、日本観光、日本タイプの父の資産の分配
方法がきまり、それぞれの役割も決まっていた。
日本観光は桜井能唯が社長となり、日本観光の資金で百万石文化園
を設立、日本観光は40億以上の借り入れを行い、本体である日本観光は僅か800万円の利益で、1億以上の金利を支払っていたのである。
日本観光は当時は20億を下らない売り上げを上げていたが、
その利益は百万石文化園に振り替えられ、または事業投資組合
日本観光の利益を付け替え、百万石文化園に付け替えしていたのである。
その結果百万石文化園はいつの間にか桜井能唯の個人の所有物と
なったのである。
残ったのは日本観光の多額の借財と金利であり、桜井能唯の資産の
増加であり、弁谷貞造の妻の多額の資産の増加である

それと康楽寺の存在であった。
康楽寺は膨大の父の資産をゆうしていたのである。
この康楽寺も事実上、金沢市に売却したのである。
金沢市は日本観光が倒産する直前に百万石文化園を買い取ったのである
平成10年5月15日に日本観光は自己破産の申し立てを東京地裁に提出した。
つまり金沢市が百万石文化園を買収りたのが同年3月25日であるか
ら、その直後のことである。
しかも日本観光は破産申し立ての豫納金700万円が支払えず
三和銀行が代わって平成10年12月9日に代納している。
その間平成10年9月から金沢市は百万石との売買契約を完了
平成10年10月9日には江戸村等の金沢市としての今後の利用再開発方法を次々に発表し、既成事実化している。
日本観光の社長は平成10年12月に脳溢血で倒れ、上記三和銀行が
700万円を代納して、日本観光の自己破産が
平成11年2月15日
に漸く決定をしたのである。



白雲楼、康楽寺乗っ取り事件

2006年03月31日 11時18分56秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私は本件の乗っ取り事件の主役桜井能唯が終戦後、弁谷家に軍服を
付けサーベルを帯びて、来たことを覚えている。
軍隊で覚えた敬礼をしたもである。
何故弁谷家に挨拶をしにきたかは、今後の身の処し方を相談に来たのであろう。
その後祖母の養女であった弁谷ハシの妹と結婚するこのになるのだが、
それによって康楽寺、白雲楼を乗っ取ることになる。
金沢地裁の康楽寺建物収去明け渡し事件を起こしたのは、この様な
背景があってのことである。
又この事件をおこした背景には、康楽寺、白雲楼を処分するために予め
金沢市に江戸村を売却する必要があり、その手続き上この裁判を起こしたものである。
この時起雲閣、白雲楼を経営する日本観光株式会社は百数十億の負債を抱えて、倒産寸前であった。
日本観光が倒産する前に、康楽寺の問題を片付ける必要があった。
裁判所で和解の勧告が出るまで、桜井能唯と弁谷貞造は馴れ合いの
裁判を平成6年から平成9年まで19回の口頭弁論を行っている。
その中身は空疎で、壇徒や信者もいない実質二人だけの空疎な口頭弁論に終始
している。
康楽寺の本殿の建物の位置は当時の宗教団体法により、仏舎利を本尊とする本殿の建築する位置であり、即ち
金沢市湯湧町へ19番地であるが、未だ本殿が建築されて
いないのに、建物の所在地は湯湧町へ19番地、ト27番地にに登記が
されているとして、登記簿謄本を提出している。
康楽寺は昭和19年に父個人の寺として、財団としての認可をえている
ものであるから、父個人の寺は登記の必要が無く、その土地は父名義
であり、財団の後継人がその資産を受け継ぎ、父の遺志に従い事業
即ち康楽寺の本殿を建築しなければならないのである。
現在の康楽寺は宗教法人ではなく、父個人の寺に過ぎない。
これを誤魔化すために、延々とマコトシヤカニ訴訟を馴れ合いで行っていたのが実情である。