竹端家は辨谷の親戚で子供がいなかったので、暇を持て余していた爺さんの話相手になっていた。この爺さんは私の出生のことを良く知っていたようで、お前の父親の力で辨谷栄は飯田郵便局長になれたのだと私に話したものである。私はこの話は初めて聞いて驚いたものである。
竹端家は地元一番の金持ちで資産家であったらしい。
生活費には現金を一切使わず、小作人等が持ってくる野菜や地元の海産物で、食材が足りていた。金持ちなのに、金を使わないで生活が出来ることを自慢にしていた。
竹薮に囲まれた広い屋敷には老夫婦二人だけであった。
玄関の横にある囲炉裏の部屋で、お湯をチンチン沸かしながらお茶を入れてもらってお茶を飲みながら爺さんの話を聞いた。
来客があった時は、隣の部屋で暫く待ってから爺さんと必ず話しをしてから帰った。
爺さんの話によると
竹端家は近江の出で、この上戸村まで歩いて辿り着き住み着いたと言ううことであった。
私は半信半疑であったが、堤康次郎との関係もこうゆうところから出来たのかもしれない。
私の父が昭和26年2月11日に亡くなって後であるが、辨谷栄、ハシから自分達が先に行っているから後で来るようにいわれた。
竹端家には子供の頃は良く行ったが、
中学3年頃よりは何故か行かなくなっていた。
私が行った時は話しが終わったころで、ハシが帰るところであった。栄は一つ奥の部屋の前で立ち話をしていた様であった。
私が竹端家に着くと直ぐハシが帰る様子であったが、玄関のタタキの前の部屋の敷居まで仁作が来て私に向っていうのである。
お前は弁や家の相続を放棄しろ、簡単な事だ、裁判所で私はなにも要らないと一言云うだけでよいのだ。簡単な事だ。
と竹端仁作は私に
力を入れて話すのである。
弁や家の相続のことで何で竹端の爺さんが私に熱心に説くのか理解に苦しんだ。
傍に弁や栄やハシが居るのに関わず
私を竹端家に呼んで何故爺さんを自ら私に話す必要があるのか。
私が藪から棒のようにいきなり言われて
驚いていると、次はハシに向って、どうせ減る者ではないのだからとハシに云うとハシは何故か真っ赤な顔になった。
此れは何を意味するのであろうか?
弁や栄が未だ生きているのになにを放棄するという云うのか、何故竹端仁作が私に言わなければならないのか、何故ハシはどうせ減るモノではないのだからと言われ真っ赤になったのか不思議であった
性的虐待
財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
堤操氏からの手紙
お手紙を戴きまして、此方の古い書類などを調べましたが、先生のお屋敷は宅のすぐちかくで御座いましたので、大方の事は、こちらからお屋敷に伺ったり、或いは当方の陋屋におこしになったりしてお話を済ましておりまし為に文書など見当たりませんでした。また息子もその頃は学生で御座いましたのでご高名は存じておりましたが、殆ど記憶しております事も無く、私にご返事を差し上げて呉れと申されました。その頃は私もお屋敷え堤とともにお伺いいたしました事もございましたが、堤の方は選挙の演説などにも先生の距離の金沢の白雲楼に・・・伺っておりました。あの白雲楼には立派な仏間があり、先生は大変に仏教のご信仰の厚い方であると申して居りました。・・・せっかくのお問い合わせに、何のお役にも立ちませんでした事をおわびいたします。右息子に代りましてご返事まで申し上げます。五月十九日
以上が昭和53年に堤清二氏宛てに書いて手紙の返事である。この手紙のなかに白雲楼の仏間とあるのは、白雲楼の上の山にある康楽寺のことである。この康楽寺は父の資産を全て寄付したもので、西武鉄道や東急の株式を多数所有していて、東急の五島慶太が西武との争いの中に、康楽寺を買い取りに来た事があったのである。このことにかんしては、近藤荒樹(2)私に成りすまして父の本邸の売買に立ち会った弁谷昌造の項で記載してた。 http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050630
西武と東急の争いの仲介になるため、父が両者の株式を大量に所有していたのである。今この康楽寺がどの様になっているかは、此れまでなんども書いてきた通りである。父の屋敷は今ドイツ大使館になっているところで、堤邸からは比較的近いところにあった。戦後は中国大使館になって、父は鎌倉の別邸にアメリカのMPの監視されていたが、昭和21年10月には開放されていたが、父の住まいはこの本邸に帰ることは無かった。従って堤操氏のいわれるお互いに行き来したとは、戦前から終戦直後の昭和20年の暮れまでのことである。父はこの本邸を康楽寺に寄付をしており、自分は中央区京橋の日本タイプライターのビルの五階を住居としていた。父生存の頃には、日本タイプのビルに、父を尋ねる当時の著名人が行列となるほど面会に来ていたようであるが、私が日本タイプに入った頃は社員に緘口令が引かれていた。
財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
先のプログで述べたが、康楽寺は父個人の寺であり無檀家,無信者の寺である。父は麻布の屋敷や株式等昭和25年当時で5000万千の価値のさる資産を寄付、敷地50万坪に及ぶ敷地に康楽寺の本殿を建てることとしていた。しかし父の死後父の康楽寺の財産を横領すべく、宗教法人康楽寺としたが、さきのブログでも述べたように何ら実態のない法人であり、その存在自体が法的根拠を欠いている。康楽寺の敷地はこの写真で示す一番上の高尾山の山頂から、写真のしたの赤字で書いた湯涌町の上にある玉泉湖から白雲楼を通って高尾山頂までの50万坪である。桜井能唯が法的実態のない宗教法人康楽寺から江戸村の土地を買っても、金澤市の売買契約の行為は当然無効である。将来康楽寺の本殿が出来宗教法人として登記がなされないと、宗教法人としての実態がないのである。この広大な土地を管理するには、鉄道会社か不動産会社しかない。これを委託したのは西武鉄道とコクドで、父の堤康次郎氏との関係が深く、日本観光や日本タイプライターは資本的な深い繋がりがあったのである。富沢有為男氏の著書で「雷帝堤康次郎」昭和37何版のなかに、堤清二氏との対話形式でかかれいるがその中で白雲楼のことに言及している。「今から30年の前の事として・・・金澤市郊外の大きな温泉宿で夕食のお招きを受けた。・・・久米さん、小島政二郎、川口松太郎,中野実、小林秀雄氏等と一緒だった。この温泉宿と云うのは貴方のお父さんが建てられたもので、当時としては非常に贅沢な大掛かりな宿屋でした。この時部下の人達10人ばかり引率して・・・」金澤市から湯涌まで数十キロを開鑿して河沿いに自動車道路を作り、白雲楼の下に人口の玉泉湖を作り、発電設備を設置してホテルの電力を供給するものであった。当時は世界景気が不況の中であったが、これらの工事による地元えの経済効果は甚大であった。