白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

桜井芳忠及び辨谷貞造の悪業

2006年04月14日 08時48分57秒 | 桜井芳忠

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

瑞雲泉業株式会社の設立
百万石文化園の設立より少しまえ、昭和40年1月22日この会社を設立している。
この会社は父は所有していた能登特に、珠洲市の資産を横領する為に設立したものである。
 珠洲市上戸町に明治時代、朝鮮や中国との交易で財を成した中谷家の建物があり、父は私に与えていたものである。
父は当時川崎財閥と組んで能登の石膏の開発を行っていた。
石膏鉱山をケーブルで山を超えて結んで、石膏を運んできたのである。
当時は実務は、大宝弥男児氏が開発を行ったのであるが、辨谷家に於いても
石膏のケーブルの通る地主に賃料を支払う業務をしていたのである。
この石膏の鉱山は当時石膏の輸入が途絶えた日本においては、貴重
なセメントの材料であり、無くてはならないものであった。
その石膏の積み出し地が上戸村にあり、桟橋から沖合いの貨物船に
石膏を運搬、積み込んでいた。
その敷地内に豪商であった中谷家の大きな建物が存在していたのである。
中谷家は没落し、石膏の積み出し地にあった建物を父が買って私
名義にするようになっていた。
しかし父が亡くなった昭和26年2月11日以降には、辨谷栄は其の手続きを放棄、他人に賃貸していた。
ところが昭和40年1月22日瑞雲泉業株式会社を日本観光の資金で
設立し、父の買った中谷家を牽引して桜井芳忠の自分の出生した家の隣まで
持ってきて、新築として登記をしたのである。
この建物が「能登記念館喜兵衛ドン」とよばれるもので、桜井芳忠(後年何故か能唯と改名)の
出生した家の昔からあったものを陳列し、江戸村のような観覧料の収入を得る目的で、開業したのである。
父は地元の山林等を買収し、能登の産業の育成に資することとしたいた。
山林を育てることによって地元の漁業が発達し、地元の酒造業の発展
に寄与するからである。
水と山林を大切にするというう目的で父は地元の山林、山を買い取ったのである

父のこれら資産を手に入れようとして設立したのが、この瑞雲泉業のなのである
江戸村、百万石文化園及びこの瑞雲泉業のため昭和57年には日本観光株式会社
は25億を借入金をし、年間2億の金利をしはらっている。
年間売り上げが17億円、純利益が800万円である。
これが昭和60年をすぎると、借入金が45億を超えることとなる。
これでは会社は倒産に向って進んでいることは明らかである。
父と一緒に能登の石膏開発をしていた大宝氏は戦後、右翼の大物
に名古屋市にあった大宝産業株式会社が乗っ取られ、また戦後
石膏も海外から入ったため、この会社は廃業したのである。
大宝氏は銀座に事務所を持ち、仕事をしていたが、桜井芳忠等が
喜兵衛ドンの敷地は、北陸電力から、白雲楼の資金で買ったが、
尚中谷家のあった元のの土地や大宝の敷地等を買収しようとしていた。
大宝氏から買い取った、とゆうより元々私の名義
にする事になっていたので、大宝氏は桜井芳忠の買取を首肯しなかったのである。
しかし右翼の大物や地元政治家の圧力で大宝氏は妥協したのである。何故なら大宝氏の本業がその右翼に乗っ取られたからである。
この右翼の大物の処の自由に出入りしていたのが、私に鼻の手術
を執拗に勧めた高校生の同級生の弟であった。この鼻の手術によって
私の脳が破壊されたのである。これは以前に述べたが桜井芳忠も
この事件に関わっていたこたは、以前のブログで述べたが実はこのような背景があったのである。
大宝鉱業は昭和30年頃株式会社となった。
それまでは父が安宅産業等と起こした日本亜鉛株式会社及び日本亜鉛精錬株式会社の一部として処理されていたのである。
亜鉛は鉄の製造に無くてなならないもので、父は鉄鋼業と関連が深かったのである。
安宅産業は無くなったが、日本亜鉛及び日本亜鉛精錬株式会社は戦後東邦亜鉛株式会社となって現在でも業界のトップにいる。
大宝氏は愛知県の知多半島の冶水灌漑植林で、広大は土地を開発し
朝鮮や満州等にも植林等の事業を行っていた。
治水、植林は国の基本事業であり、奥能登開発興行法を制定し、
将来の奥能登の開発に父は心をくだいており、大宝鉱業の廃業後は
そのケーブルや機械等は、能登飯田港の埋め立てに使われた。
また父が所有していた興亜鉱業は戦後藤田観光の設立に預かっており、鉱業と観光、治水植林を一体化して将来の日本を考えていたのである。能登の大宝石膏が父の事業モデルであったのである。