西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団康楽寺である。
大東亜寺(現康楽寺)は、昭和19年5月19日読売報知紙面上で発表されその内容は下記の通りである。
「境内実に50万坪 加賀に建つ”日緬を結ぶ絆” 去る14日入京したバー・ハン博士特別調査隊がはるばるビルマから捧持して来た仏舎利は近く盛大なな贈呈式を行ったのち桜井兵五郎氏が勧請建立する加賀白山の大東亜寺と鶴見総持寺、高野山、京都東本願寺(予定)四箇所に寄遷され日緬両国民の心を結ぶ永遠の絆になって安置されるが最大の安置所と目される大東亜寺の設計図が出来上がり、規模と構想が明らかにされた。(写真は大東亜寺の鳥瞰図)
もともとこの大東亜寺は陸軍軍政の最高顧問として新ビルマ建設戦につくした桜井氏が皇室のご安泰を祈念し、併せて大東亜戦に散った行軍勇士と民族の先駆となって南方に骨を埋めた同胞先覚者の慰霊のためにラングーン滞在中同地のシュエダゴン・パコダのアレトヤ・セラト大僧正から仏舎利を祭るべく建立を計画されていた。ものである 咋秋十一月大東亜会議列席に来朝したバー・モウビルマ国家代表に桜井氏からこの計画を話したところ非常に喜び、それではビルマで最も由緒正しき仏舎利を贈ろうと約束したのが、今度バー・ハーン博士の来訪で果たされたのである。 大東亜寺の建立される位置は眼下に日本海の波濤を加賀白山連山の一峰、高尾山(海抜千二百尺)の中腹で、本殿は鉄筋コンクリート高さ百八十尺、敷地三百八十坪の白亜のパゴダである。これは周囲の背景や本堂に続く日本寺院風の回廊との調和をはかるため氏が在緬中観察したパガンの名刹アナンダパゴダの形態をそっくりそのまま移したもので、ビルマの一般的な釣鐘形とは違ってむしろインド寺院の形に近い。さらにこの大本堂の中には昨年英機の盲爆で無残に破壊されたラグーンの三大パゴダの一つポートタウン・パゴダと同形の金色燦然たるパゴダを作り、この中に今回バー・モー国家代表からの仏舎利とさらにシュエダゴン・パゴダから贈られたものとを併せて祭遷することとなっている。 本堂の前には清らかな池をしつらえ、その上面には二階作りの楼門が建てられ、回廊内の全敷地は本堂の建坪を含めて千二百坪に及ぶ。この白亜の大本堂とぞの海抜三千五十尺の山頂にはさらに奥殿を建造し大日如来の尊像を祀ることになっている。本殿と奥殿との間のの二里の間の山腹の巌石には支那山東省の千仏山を模し仏像千体を刻んで日本の千仏山を現出させることになっており、これら全体を併せた大東亜寺の境内は実に五十万坪にわたる広大なものとなる。本堂とその他の建立費は三百五十万円にのぼり、桜井しが資財を投げ出しすでに昨年から十二ヵ年計画で着手し、仏像、仏財、仏具が集められており、今年は基礎工事を行ふ。
桜井兵五郎氏談仏舎利は仏徒八万人に領ち与えられたといわれております。印度でかって仏教厭迫の時代にこれら仏舎利が殆ど全部ビルマに運ばれ、それが国外に持ち出される事無く現代までそれがビルマ国内に伝えられている、このたび渡来した仏舎利もボーウダウタン・バゴダものを始めアロムバヤ王、ボダバヤ王、ミンゴン王、ミンドミン王、同妃などビルマ各王朝が祭祀してきた由緒正しいものばかりです。大東亜寺の建立を十二ヵ年計画にしたのは本堂等を大東亜戦争の勝利をまって堂々たるものにする考えからです。建立費は某会社に信託し、落成まで仏舎利の安置所としては越後の某名家を買い取り、内部を改造仮堂の建築もできている。私の畢生に事業としてすべて万全を期してをります。」
以上が康楽寺の財団の発表である。
担当官庁の認可を受け財団大東亜寺が設立され、上記写真の本殿が建築されてかられてから財団法人となるものである。
本殿の建築が完成するまで、父の財団への寄付行為で、父の資産を出損することを約束して、父の資産等を信託銀行等に預け
又桜井能唯等父の会社の役員の約束を担保として、戦後は財団
康楽寺となったのである。勿論康楽寺の檀家である堤康次郎との約束も担保されていた。
白雲楼
財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
西武鉄道や東急鉄道については、父の財団康楽寺が深く関係があったことは此れまで述べたと通りであ る。と同時に西武の箱根軽井沢の開発にも又プリンス・ホテルにも深い関係があったのである。 今回の北陸鉄道は今では名古屋鉄道の支配下にあり、金沢市は名古屋の財界によって支配されている といっても良いであろう。 しかし父は戦後日本は観光開発の必要性をを痛切に感じており、北陸開発に乗り出すのである。それには先ず北陸鉄道を掌中にし、白雲楼をその北陸鉄道の経営にする事を発表した。昭和20年10月21日に北陸毎日新聞紙上で、今回北陸鉄道の子会社北鉄興行により白雲楼が経営さ れる事となり、11月1日より開業する公告をだしている。それと同時に金沢大學前より、富山県城端に至る電気軌道を施設することを発表している。 金沢では市電もいち早く姿をけし、北陸鉄道も電気軌道は殆ど姿を消している。能登線も今や廃線に近い状態で、自動車道路が無尽に貫通して、モータリーぜーションの波にのってい る。しかしあの懐かしいチンチン電車を懐かしむのは、年老いた人間だけになってしまった。しかし一方では昔の路面電車の復活をしている都市もある。 国鉄は今や民営化されてしまっている。もし父の富山城端線が出来ていれば、岐阜、名古屋等に繋がった電気軌道になって、観光客が湯涌や白雲楼に集まって来た事だろう。そこにはスキー場ありゴルフ場あり、宗教の殿堂あり、温泉地あり、国際的にも知られた一大観光地と なっていたであろう。 富山の城端には今回世界遺産に指定された五箇山があり、世界からの観光客には北陸鉄道の湯涌城端線は北陸の大きな観光資源開発の交通手段であり、日本えの観光客の海外からの来客が期待された。
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富山県城端軌道計画
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金沢市民に開放されている医王山麓地のスポーツセンターhttp://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050615
桜井能唯等より白紙委任状をとり、白雲楼の運営を委託した。http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050901
財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
堤操氏からの手紙に、白雲楼の仏間と表現されていたが、父の個人の寺として認可され、石川県庁の台帳に記載されていたが、私が鼻の手術の際、頭蓋骨に穴を明けられ、人間失格になり父の相続を略奪された事は、これまで何回も記述してきた。 その一番大きな原因は父が寄付していた康楽寺の資産を狙われた事である。先ず一番には、堤康次郎が康楽寺所有の西武鉄道や西武不動産の株を狙ったのである。それは東急との争いの具にされたのである。五島慶太が康楽寺を買い取りにきたことを話した。しかし堤の方は貞造、昌造等と組んで、康楽寺を地上から消すことであった。そのため彼等は父の戸籍上の子供を旨く操り、利用してきた。この子供等を相離反させ、互いに争わせ、父の会社を滅亡に追い込んで行ったのである。私はもはや彼等の罠にはまった、瀕死状態の生き物でしかなかった。 康楽寺については、父は私が後を継ぐ事にしていたのだが、戸籍上の子供を旨く使い私を除け者とし、私の状況を絶えず監視の網を張り、ある時は脅し,ある時は言葉巧みに誘導していたのである。 父は康楽寺の本殿を何処に建てるか、三案を考え土地を買収した。先ず第一は金沢市の医王山麓一帯の、現在医王山スキー場や金沢ゴルフ場付近であり、この地一帯を買収した。第二は白雲楼の奥山一帯の50万坪であるが、これは既に買収済みであった。第三は現在の朝日テレビの一帯の土地である。今の六本木ヒルズのちかくであり、父の麻布本邸とも近く、ここに康楽寺の本殿を建てる気持ちが相当強かったのである。しかしこの土地は昌造の入った東映が朝日テレビが創立される際、この土地を提供したのである。この土地は勧業銀行の名義となり、朝日テレビとなったのである。この売買の手続きは父の本邸の売買と同じく、堤と私になりすました昌造が行ったのである。昌造は東映の社長の秘書をしており、その後その媒酌で結婚するが、私が結婚式場に到着すると弁谷一家と東映社長が輪を組んで話中であったが、私が来ても皆知らん顔をして社長に紹介もせず結婚した両家の紹介を東映の社長がしたのであるが、私の番になると私は今海外に出張中であるとして私を飛ばして両家の紹介を終わったのである。
この写真は六歩木ヒルズ近くに建つ計画のあった康楽寺の本殿である。 もしここに康楽寺の本殿が建っていたならば間違いなく、東京の名所となっていたであろう。
この康楽寺本殿と父の麻布の本邸は、中国、アジアの仏像等や文化を紹介展示した日本のと東南アジア
中国の民間人による外交ルートとなっていたであろう。
財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
堤操氏からの手紙
お手紙を戴きまして、此方の古い書類などを調べましたが、先生のお屋敷は宅のすぐちかくで御座いましたので、大方の事は、こちらからお屋敷に伺ったり、或いは当方の陋屋におこしになったりしてお話を済ましておりまし為に文書など見当たりませんでした。また息子もその頃は学生で御座いましたのでご高名は存じておりましたが、殆ど記憶しております事も無く、私にご返事を差し上げて呉れと申されました。その頃は私もお屋敷え堤とともにお伺いいたしました事もございましたが、堤の方は選挙の演説などにも先生の距離の金沢の白雲楼に・・・伺っておりました。あの白雲楼には立派な仏間があり、先生は大変に仏教のご信仰の厚い方であると申して居りました。・・・せっかくのお問い合わせに、何のお役にも立ちませんでした事をおわびいたします。右息子に代りましてご返事まで申し上げます。五月十九日
以上が昭和53年に堤清二氏宛てに書いて手紙の返事である。この手紙のなかに白雲楼の仏間とあるのは、白雲楼の上の山にある康楽寺のことである。この康楽寺は父の資産を全て寄付したもので、西武鉄道や東急の株式を多数所有していて、東急の五島慶太が西武との争いの中に、康楽寺を買い取りに来た事があったのである。このことにかんしては、近藤荒樹(2)私に成りすまして父の本邸の売買に立ち会った弁谷昌造の項で記載してた。 http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050630
西武と東急の争いの仲介になるため、父が両者の株式を大量に所有していたのである。今この康楽寺がどの様になっているかは、此れまでなんども書いてきた通りである。父の屋敷は今ドイツ大使館になっているところで、堤邸からは比較的近いところにあった。戦後は中国大使館になって、父は鎌倉の別邸にアメリカのMPの監視されていたが、昭和21年10月には開放されていたが、父の住まいはこの本邸に帰ることは無かった。従って堤操氏のいわれるお互いに行き来したとは、戦前から終戦直後の昭和20年の暮れまでのことである。父はこの本邸を康楽寺に寄付をしており、自分は中央区京橋の日本タイプライターのビルの五階を住居としていた。父生存の頃には、日本タイプのビルに、父を尋ねる当時の著名人が行列となるほど面会に来ていたようであるが、私が日本タイプに入った頃は社員に緘口令が引かれていた。