財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
昭和20年10月26日北国毎日新聞(父が経営していた北陸毎日新聞と北国新聞が昭和15年対等合併して北国毎日新聞となり、その後昭和24年頃北国新聞となった。)紙上で、
公告
高尾山麓瑞雲山大東亜寺はこの度その筋の
許可あり瑞雲山と寺号がかわりました。
此の段お知らせいたします。
十月二十六日
瑞雲山康楽寺
檀家総代一同
この公告で檀家総代とあるのは、父が日本観光や日本タイプライター等の重役連中であり、財団康楽寺の関係人である。信者の名前が名前が出てこないのは、康楽寺のお寺である本殿がまだ出来ていないからである。 康楽寺とは父個人の寺であり、父個人の資産の寄付から出来ているものである。檀家とは父の資産を預かり管理して、本殿を建築する事に合意の上、檀家となったものである。つまり父の会社の株式を預かり、父の会社を運営して父の財団康楽寺の本殿を建築し、白雲楼と一体となり、保健の殿堂、宗教の殿堂、美術の殿堂を50万坪の境内に建築する事を目的とする事に同意して檀家となったのである。 この檀家総代の中の一人が堤康次郎である。堤康次郎は父の死後、日本観光の社長桜井清次の後見人であったらしい。このことは朝香宮邸(2)で述べたように、父の死後日本観光の取締役の連中を呼んで、父の法要を毎年していたと言う。 父と堤康次郎は大隈重信と関係深く、父の妻すずが大隈公の娘であったことは既に述べた。父が辨谷家の貞造、昌造と私拓五郎に、堤義明の義をとり、義貞、義昌、義拓と命名した書面を送ってきたのが、丁度上記の公告を出した頃である。私は未だ10歳のころであり、貞造は15歳、昌造は12歳である。何故この様なことをしたかと言えば、私が未だ幼過ぎたためである。永井柳太郎の子供3人を自分の戸籍に入れたのも同じ理由からである。堤康次郎は永井柳太郎を終生師を仰ぎ、忠誠と誓っていた関係もあったろう。 財団康楽寺は資金が豊富で、堤康次郎の西武鉄道やプリンス・ホテルの資金の調達源であり、父と天皇の間に交わした康楽寺と天皇家の繁栄を目的とした康楽寺の建設と財団康楽寺は父の遺言状の内容に深く関わっていたのである。 この事は私の白雲楼のホーム・ページで記した通りである。この父と天皇との約束事は、私が実行すべき所、堤康次郎が父の遺言に違反して、堤康次郎が自分で実行したのである。 辨谷昌造が父の麻布の本邸に居住し、私に成りすまして堤康次郎と共に、ドイツ大使館に売却する手続を一緒に行ったのであることは、以前のブログで述べた通りである。 父が大東亜寺を康楽寺としたのは、私らの名前を堤義明の義ととって改名したのと同じく、堤康次郎の康をとって大東亜寺を康楽寺としたものである。
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