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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

財団康楽寺と堤康次郎の関係

2006年07月09日 11時27分31秒 | 堤義明

財団 康楽寺
西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

昭和20年10月26日北国毎日新聞(父が経営していた北陸毎日新聞と北国新聞が昭和15年対等合併して北国毎日新聞となり、その後昭和24年頃北国新聞となった。)紙上で、               
       公告 
 高尾山麓瑞雲山大東亜寺はこの度その筋の  
 許可あり瑞雲山と寺号がかわりました。  
 此の段お知らせいたします。   
   十月二十六日                 
            瑞雲山康楽寺                       
               檀家総代一同 
この公告で檀家総代とあるのは、父が日本観光や日本タイプライター等の重役連中であり、財団康楽寺の関係人である。信者の名前が名前が出てこないのは、康楽寺のお寺である本殿がまだ出来ていないからである。 康楽寺とは父個人の寺であり、父個人の資産の寄付から出来ているものである。檀家とは父の資産を預かり管理して、本殿を建築する事に合意の上、檀家となったものである。つまり父の会社の株式を預かり、父の会社を運営して父の財団康楽寺の本殿を建築し、白雲楼と一体となり、保健の殿堂、宗教の殿堂、美術の殿堂を50万坪の境内に建築する事を目的とする事に同意して檀家となったのである。  この檀家総代の中の一人が堤康次郎である。堤康次郎は父の死後、日本観光の社長桜井清次の後見人であったらしい。このことは朝香宮邸(2)で述べたように、父の死後日本観光の取締役の連中を呼んで、父の法要を毎年していたと言う。 父と堤康次郎は大隈重信と関係深く、父の妻すずが大隈公の娘であったことは既に述べた。父が辨谷家の貞造、昌造と私拓五郎に、堤義明の義をとり、義貞、義昌、義拓と命名した書面を送ってきたのが、丁度上記の公告を出した頃である。私は未だ10歳のころであり、貞造は15歳、昌造は12歳である。何故この様なことをしたかと言えば、私が未だ幼過ぎたためである。永井柳太郎の子供3人を自分の戸籍に入れたのも同じ理由からである。堤康次郎は永井柳太郎を終生師を仰ぎ、忠誠と誓っていた関係もあったろう。 財団康楽寺は資金が豊富で、堤康次郎の西武鉄道やプリンス・ホテルの資金の調達源であり、父と天皇の間に交わした康楽寺と天皇家の繁栄を目的とした康楽寺の建設と財団康楽寺は父の遺言状の内容に深く関わっていたのである。 この事は私の白雲楼のホーム・ページで記した通りである。この父と天皇との約束事は、私が実行すべき所、堤康次郎が父の遺言に違反して、堤康次郎が自分で実行したのである。 辨谷昌造が父の麻布の本邸に居住し、私に成りすまして堤康次郎と共に、ドイツ大使館に売却する手続を一緒に行ったのであることは、以前のブログで述べた通りである。 父が大東亜寺を康楽寺としたのは、私らの名前を堤義明の義ととって改名したのと同じく、堤康次郎の康をとって大東亜寺を康楽寺としたものである。

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朝香の宮邸(2)

2006年06月06日 09時58分38秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 島機械、西武鉄道、日本レミントンランド (中島機械は日本に於けるオフセット印刷機械の嚆矢であり、戦後の印刷業界の発展の元となった有料企業である。白雲楼ホーム・ページ3html参照。白雲楼ホーム・ページ

私が目黒迎賓館に入ったのは、昭和38年の夏ごろである。当時朝香の宮邸は閉鎖された状態で、外部から伺う余地はなかった。入り口は朝香の宮邸をぐるりと回り、迎賓館の玄関にはいるのである。迎賓館といっても規模的には小さく、客室も少なかった。ここのフロント係りとして入社したのだが、する事は客部屋のベッドメーキングで朝から夕方まで遣らされたのには参ったものである。するとその内私を採用した総務が私に首だといううのである。私もフロント係りで入ったのに、毎日雑役を遣らされて参っていたので、別に反論はしなかった。その頃は私は桜井清次の家を追い出され、友人の宿に転がり込んでいた。そのころ弁谷ハシが来て、桜井清次宅に呼ばれ,行ってみるとこれから堤康次郎邸に行こうを言い出すのである。目黒迎賓館に行っていた事は話して無かったが、父と康次郎氏は仲がよく、父の養子連中は父の法要の際いつも呼ばれて、父の法要をして貰っていたと言うのである。そして私のことで養子連中は康次郎氏から大変お叱りを受けたといううのだ。それでこれから堤邸え行こうとゆうのである。私はこの時初めて父と堤家の関係をしったのである。目黒迎賓館が西武で経営している事も知らなかった。当時は吉田茂氏が朝香の宮邸を使用ていたと思う。私はハッキリ堤家に行く事を断った。私が採用されていた頃、堤の御大が見えたらしい。私が従業員食堂で食事をしていた時である。わたしの前の扉が大きく開き、数人の人が居たが、瞬間扉は大きな音を立てて閉められたのである。ビックリするような大きな音である。それだけに私と真向かいの男が此方を見ていた事を瞬間判った。しかしあまりにも大きな音を立てて扉が閉められたので、何がなんだか判らなかった。戸を大きな音を立てて閉めたのは、堤の御大ではなく4~5人居たうちの一人である。御大らしき人物は唯棒立ちのまま、私を見ていた。それも扉が開いたと同時に強烈な音で閉められたのである。私はこの頃は未だ過去の記憶が下記のブログで記述した事柄を思い出せないでいたのである。 父と堤康次郎氏との関係


白雲楼管財人及び旧経営陣の責任

2006年05月27日 11時16分11秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

父と西武との関係は之まで、本ブログの各所で述べてきた。日本タイプライター、日本観光の倒産は西武抜きには考えられないのである。日本タイプライター、日本観光が倒産する事は、堤康次郎,義明抜きには,真実の究明が不可能となる。 特に今回白雲楼が取り壊される事は、旧取締役の犯罪を隠蔽するものせあり、西武鉄道やコクドとの父桜井兵五郎の関係を隠蔽することになる。 私のホームぺ-ジがYAHOOに乗っかってていたが、2~3日で削除せられた。そのかわり白雲楼の廃墟のページのアクセスが上がり、白雲楼の取り壊しが規定のスケジュールとして、破産管財人や旧取締役の責任を追及を封殺している。白雲楼は違法な取引で抵当権を設定せられたもので、不法に取得した他人の財産を公共団体が取得する事は許されるはずがない。白雲楼を食い物とした旧経営陣、白雲楼を裸にして内部の装飾品を競売にして、最後は放棄するとは管財人としては許されない行為である。他人の財産を勝手に売買した事と同じである。 現在の」白雲楼 白雲楼を地元観光協会が金沢市に寄付したと言うカラクリ


朝香宮邸について

2006年05月24日 10時01分16秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 朝香の宮邸は現在東京都庭園美術館となっているが、昭和22年皇族臣下の際、莫大な資産税の為、陛下が大変心配されたのである。朝香の宮殿下は日本タイプの古くからの株主であり、父とも関係があったのであり、軽井沢の別荘や白銀の本邸を手放されたのである。西武不動産が買い取ったとされているが、実質は父桜井兵五郎の日本タイプからの資金が使われた。父は資金が豊富であった。西武にはそんな資金はなかったのである。この朝香の宮邸がプリンスホテルの始まりである。当初は父桜井兵五郎が西武を系列下に於いて、ホテル事業を始めるつもりであったが、当時は戦後早々であり時期尚早であったのである。父の死後は堤康次郎が桜井清次の後見人となり、日本観光を支配していたといえる。私が桜井清次の家から追い出されたのは、日本タイプを止めてから直ぐである。このことは流転するサラリーマン時代に詳述した。このころ白銀の迎賓館の募集があった。この白銀の迎賓館とは、朝香の宮邸の横に新築したいわばホテルで、当時迎賓館は無かったのである。吉田茂元首相が朝香の宮邸を官邸として使用していて、朝香の宮邸の敷地は西武の名義となっていた。このころドイツのアデナウアー首相が吉田茂外務大臣兼務に新書を送り、ドイツ大使館の土地の斡旋を依頼していた。ドイツ大使館は当時は現在の国会図書館の所在地にあり、連合国に敵国財産として没収されていたのである。そこで堤康次郎が父の死後の麻布本邸を仲介の申し出をしたのである。父の本邸は康楽寺の財団となっていたのであるが、かくして私は金沢の国立第一病院で鼻の手術の際、脳天を強打して人間破壊を受けることとなったのである。 私は自分の記憶を喪失し、日本タイプに入った頃記憶が少し戻ったのであるが、このため桜井清次宅より追放され、白銀迎賓館の募集に応募したのである。 父の財団 http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-05-14 http://homepage2.nifty.com/hakuunrou/index.html


差し押さえ禁止財産

2006年05月01日 11時02分21秒 | 辨谷貞造

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

起雲閣、白雲楼、日本タイプライターは破産法で言うところの、差し押さえ禁止物件である。
白雲楼については、既に述べたところである。下記のブログを参照
http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050526

起雲閣についても同じことなのであるが、三和銀行から借財した関係で
三和銀行が日本観光の倒産の申し立てをている。
しあし日本観光は父の一人会社であり、康楽寺と一体となり、財団を形成していたのであるから、抵当権は無効である。
三和銀行はこの実態を知らないわけはなく、ここに辨谷貞造との共謀
で倒産を運んだ経緯があることも既に下記のブログで記述してある。

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/d/20050529

日本タイプのキャノンに売り渡した株式も上記のように、父個人の寺
康楽寺に寄付したもので、キャノンに売却は不可能である。

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/m/200509
この件についても上記のブログで記述した。

 

父の財団
 http://homepage2.nifty.com/hakuunrou/index.html