平沼亮三氏と父(2)
平沼亮三氏が日本タイプライターの社長をされていた時は玉川電気鉄道会社の社長を兼任されていた。
玉電としてよく知られており、渋谷から玉川まで開通していた軌道電鉄である。
二子玉川園を開設運営していた。
私の生母の家がこの近くにあり、一緒に遊びに来た事を覚えている。
昭和13年に東京横浜電鉄に合併されるのであるが、平沼亮三氏は」昭和6年より昭和13年まで社長をされていた。
合併については玉電首脳部は反対して強固に抵抗していた。
しかし五島慶太による乗っ取りの意気込みが強く、玉電首脳部は平沼亮三氏や父に頼ってきたもので
流石の五島慶太氏も根を上げたらしい。
父は服部金太郎氏とは親しくしていた様で、金太郎氏の母が父と同郷の能登町の出身であったことも
関係していたであろう。
父の創立した白雲楼は昭和6年頃より、服部金太郎氏の白銀の別邸を譲り受けて開業したものである。
服部邸は高橋貞太郎氏の設計によるもので、金太郎氏は建て替えを考えていたが、古い建物が好きな
父は解体されるのを惜しみ、金太郎氏から譲りうけたものである。
その建物を湯涌に移築して本館として営業を開始した。
服部金太郎氏と言えば東急の生みの親の会社である田園都市株式会社の、出資者であり従って
東京横浜電鉄の大株主であった。
こうゆう関係で双方が納得ゆく条件で合併が合意されたものであろう。
平沼亮三氏が日本タイプライターの社長をされていた時は玉川電気鉄道会社の社長を兼任されていた。
玉電としてよく知られており、渋谷から玉川まで開通していた軌道電鉄である。
二子玉川園を開設運営していた。
私の生母の家がこの近くにあり、一緒に遊びに来た事を覚えている。
昭和13年に東京横浜電鉄に合併されるのであるが、平沼亮三氏は」昭和6年より昭和13年まで社長をされていた。
合併については玉電首脳部は反対して強固に抵抗していた。
しかし五島慶太による乗っ取りの意気込みが強く、玉電首脳部は平沼亮三氏や父に頼ってきたもので
流石の五島慶太氏も根を上げたらしい。
父は服部金太郎氏とは親しくしていた様で、金太郎氏の母が父と同郷の能登町の出身であったことも
関係していたであろう。
父の創立した白雲楼は昭和6年頃より、服部金太郎氏の白銀の別邸を譲り受けて開業したものである。
服部邸は高橋貞太郎氏の設計によるもので、金太郎氏は建て替えを考えていたが、古い建物が好きな
父は解体されるのを惜しみ、金太郎氏から譲りうけたものである。
その建物を湯涌に移築して本館として営業を開始した。
服部金太郎氏と言えば東急の生みの親の会社である田園都市株式会社の、出資者であり従って
東京横浜電鉄の大株主であった。
こうゆう関係で双方が納得ゆく条件で合併が合意されたものであろう。