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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

平沼亮三氏と父(2)

2006年11月28日 14時49分06秒 | 私の父
平沼亮三氏と父(2)
平沼亮三氏が日本タイプライターの社長をされていた時は玉川電気鉄道会社の社長を兼任されていた。
玉電としてよく知られており、渋谷から玉川まで開通していた軌道電鉄である。
二子玉川園を開設運営していた。
私の生母の家がこの近くにあり、一緒に遊びに来た事を覚えている。

昭和13年に東京横浜電鉄に合併されるのであるが、平沼亮三氏は」昭和6年より昭和13年まで社長をされていた。
 合併については玉電首脳部は反対して強固に抵抗していた。
しかし五島慶太による乗っ取りの意気込みが強く、玉電首脳部は平沼亮三氏や父に頼ってきたもので
流石の五島慶太氏も根を上げたらしい。

 父は服部金太郎氏とは親しくしていた様で、金太郎氏の母が父と同郷の能登町の出身であったことも
関係していたであろう。
 父の創立した白雲楼は昭和6年頃より、服部金太郎氏の白銀の別邸を譲り受けて開業したものである。
服部邸は高橋貞太郎氏の設計によるもので、金太郎氏は建て替えを考えていたが、古い建物が好きな
父は解体されるのを惜しみ、金太郎氏から譲りうけたものである。
 その建物を湯涌に移築して本館として営業を開始した。

服部金太郎氏と言えば東急の生みの親の会社である田園都市株式会社の、出資者であり従って
東京横浜電鉄の大株主であった。
 こうゆう関係で双方が納得ゆく条件で合併が合意されたものであろう。

 

平沼亮三氏と父

2006年11月17日 11時27分20秒 | 私の父
平沼亮三氏は父が昭和26年2月11日亡くなると、日本タイプで行われた会社社葬の
葬儀委員長をされた。
同氏は日本タイプライター株式会社の取締役会長、社長、相談役として父と生涯
の友人であった。
年齢も平沼氏が父より1年上であたが、昭和34年79歳までご健在であり、横浜市長
の現役のまま逝去されたのである。
 大仏次郎氏の評「人柄もスマートで、フエアーなひとでした。政治も運動の精神から
学んだものでしょうか,公正で非のうちどころのない人でした。いまになってみれば私は
野球を通じて平沼さんを知りその立派な人柄に敬意を表しています。」
父もこういった平沼氏と生涯交際が深かったのであろう。
 父が亡くなってからも奥のとの弁や家には、毎年年賀状が届いていた。
何故か毎度年1月の10日前後に届くので、私がその年賀を見る事が出来たものである。
毎年何百枚と年賀が着ていたが私には隠されていた。
しかし私は平沼亮三氏からの年賀だけは見る機会をえたものである。
 小泉信三氏評「平沼亮三氏はどんな年の人でも対等に友人付き合いをした人だ。
まじめな反面軽妙,洒脱な座談の名手であった。」
 私が日本タイプに居た昭和33年頃、平沼亮三氏が私の働いているところに来られ
私が席を離れた時、私に丁寧に挨拶をされ、何か聞かれた事があった。
私が席に戻ってもジーとその場所を離れず、私の方を見ていられたのである。
平沼亮三氏は喉を患っていられて余り声が出なかったので、カスレタ声で話された事を
覚えている。
その内本間社長が上から降りてきて、平沼氏を連れ去ろうとしたが、同氏が動かないので
声を大きくして、同氏を連れ去ったのである。
 後で私の直属の上司であった後の逸見監査役が、私に向ってなんで清瀬衆議院議長が
来たのだろうと私に問いかけたものである。
 私の反応を試すため幹部から言われたのであろう。
平沼亮三氏の生い立ち記で「大体横浜といううところは早稲田の土地で改進党から進歩党にはいり
市会の副議長をしていた父なども、島田党「島田三郎」の旗頭で、昔大隈公の処に度々
行ったものである」と書いておられる。
 大隈公の立憲民生党の発祥地は横浜で、横浜から関東一円に大隈民権が広がった
と言うことで、父は横浜財界、政界との繋がりが深かったのである。
この写真は平沼亮三氏が昭和34年2月13日なくなられる3年前の第10回国民体育大会
開会式の聖火の最終ランナーの時の映像である。

加賀正太郎氏と父

2006年11月02日 14時27分30秒 | 私の父
この写真は加賀正太郎氏が大正6年に白雲楼と名付けた山荘で、京都の大崎山に建築した一階ロビーから階段を写したものである。
この建物は熱海起雲閣の別館に非常によく似ている。
玄関から入ったロビーの二階えの階段の形が非常に似ている。
今はその存在を知る人が、少なくなったかって存在した熱海起雲閣別館の
階段の幅はもう少し広くて、もう少し長く且つ少し急な階段であた。
しかし建物の気品がそっくり熱海起雲閣の別館ににている。
加賀正太郎氏と父の接点は、日本タイプの重役であった星野行則氏である。
同氏は大阪クラブの常任理事であり、広岡商店の重役であった。
広岡久衛門氏は加賀正太郎氏と茨城カンツリークラブを創立、星野氏は広岡商店
の銀行、信託、生命保険の総支配人であった。
広岡系の銀行、信託は野村系に合併され、加賀正太郎氏は証券業を営み、戦後
三菱証券に吸収されている。
この様な関係で父とも親しく、且つ日本タイプの株主でもあった。
戦後札幌から東京に工場が来た際、父が買収していた現在の六本木ヒルズの跡地
にニッカウイスキーの工場が出来たのである。


桜井工業高校(2)

2006年10月20日 15時41分24秒 | 私の父
昭和15年5月8日  北国毎日新聞

私費300万円を投じ工業高校を開設 川崎に校舎3万坪
6月から仮校舎で授業
「気鋭エンジニアの払底時代
桜井高等工業学校
政界実業界に勢力以って活躍する同氏が聖紀を祈念して教育報国に乗り出したもので
3万坪を買収し認可のあり次第校舎建築に着工開校する予定
本科 航空、機械、電気

柳田村にも5万円
企業引退の土産に7日朝新緑の麻布の邸に於いて語った

私は来年8月で還暦になるので、これを機会に17、8の会社に関係しているのを引退したい
と念じていたので、幸いにも各会社にも立派な後継者も出来たので,この機会に実現したい・
日本タイプライターもこの5月の総会で社長の椅子を専務に譲り、単に会長となって第一線
を退く考えである。

父が桜井工業高校を設立

2006年10月12日 15時37分59秒 | 私の父

昭和18年3月28日ビルマ新聞(読売新聞がビルマで発行しいた)立川市砂川町で、学校を私費で開校した昭和工業学校は既に3年を経過し二千名の生徒も成長したので、高等工業及び工業大学を建設することになり隣接する石川島造船所の2万坪の買収交渉を開始したと発表された。 http://homepage2.nifty.com/hakuunrou/newpage4.html

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