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夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(信濃路編5)・・・八幡原古戦場【川中島決戦②】

2010年05月20日 15時40分53秒 | 旅行
4月24日 八幡原古戦場跡を訪ねた。
ここは、1561年 第4回川中島の戦いにおける最大の舞台、激戦となった地だ。
現在の八幡原は、「八幡原古戦場跡」として史跡として扱われ、公園のようにきれいに整備されている。も植えられていた。
(古戦場の桜は、もう散り桜だ)


よくよく考えれば、今から約450年前に大戦闘が行われて、数千の屍の山が築かれた地獄のような場所なのに、今や憩いの場に様変わりしている。
「夏草や 兵どもが 夢の跡 」・・・・by松尾芭蕉
この句がピッタリと当てはまる場所だ。

さて、ここ八幡原古戦場跡には、名前の通り八幡様が祭られているが、
2つの八幡神社がある。
無料でガイドしてくれる方がいて、その方の説明だと、少し古くて簡素な感じの八幡神社が、当時の神社らしく、武田信玄が本陣とした場所で、この八幡様のご加護があったから、信玄は勝てたと言ったらしい。
ガイドの方、大変親切に説明して下さりありがとうございました
(当時の八幡神社)


そして、後ろにある八幡神社が、後世に移された神社だそうだ。
(新しい八幡神社)

宿敵上杉謙信は、1561年8月15日、13000の兵を率いて善光寺平に侵攻。そして妻女山に登り陣を敷いた。対する武田信玄も海津城に立て籠もり、20日近い膠着状態となる。
1561年9月9日 ついに武田軍が動いた。
武田軍は、二手に分かれ、本体とは別の別働隊(12000人)が、夜陰に乗じて妻女山の上杉謙信を急襲し、慌てふためく上杉軍を八幡原に追い込む。八幡原では、信玄率いる本体(8000人)が待ち構え、ここで別働隊と挟み撃ちにして殲滅するという世に名高い「啄木鳥戦法」の作戦行動をとったのだ。
この戦法は、武田四名臣の一人馬場信春が献策したとも、山本勘助の献策したとも言われている。
しかしこの策略は、越後の龍に見抜かれていた。
先に紹介したとおり、妻女山からは海津城の様子が見え、逆に妻女山の様子は、海津城からは限定された場所しか見えないからだ。海津城から戦仕度のために上がる多めの炊煙が見抜かれた要因だと言われている。武田軍が動くと見抜いた謙信は、妻女山に篝火を目立つようにして掲げ、妻女山にいると見せかけ、海津城の死角より密かに下山し八幡原を目指す。
(八幡原からみた妻女山)


この決戦の日、ガイドの話によると濃霧が発生していたという。
当然信玄もこの濃霧と夜陰を利用したのであろう。
しかし、この自然現象が味方したのは、裏をかいた謙信であった。見事だ
別働隊は、もぬけの殻となった妻女山を目指している。
片や上杉軍13000は、信玄が待つ僅か8000の本陣に向かっていた。

霧が晴れる朝方(8時頃とのこと)は、武田軍にとって悪夢の光景だったであろう。
作戦が裏目に出て、まさかの上杉の大軍が八幡原に現れ、怒涛の如く攻め込んで来たのだから。
肩透かしを食った武田軍 圧倒的不利の状況であった。
さすが軍神謙信。車懸かりの陣で次から次へと隊を繰り出し、武田軍を攻める。目指すは武田本陣 信玄が首。
しかし、この圧倒的不利の状況で、もう一人の天才信玄もさすがだ。
鶴翼の陣で対抗。混乱するも巧みな采配で懸命に守る。
(武田・上杉陣形)


武田軍の本陣となった八幡神社。ガイドの方の話だと、まさかの事態に備えて土塁を築いていたらしく、その跡が今に残っている。
(本陣の土塁)


この位置は実に平らな地形で、先が良く見える。
ここ本陣から、各隊の様子を見て、信玄は采配を振るっていたのであろう。
(本陣から見える戦場)


2万の兵が殺し合い、6千の戦死者がでたという。一口に6000と言うが、その屍の数はすごかったであろう。
ここの八幡原古戦場に戦没者の首塚がある。
合戦終了後高坂弾正が、武田上杉の区別なく、戦死者を埋葬する塚を設けたそうな。その塚は当時10基そこそこあったらしいが、今に残るのは3基しかないと言う。
ここはそのうちの一つだ。
(首塚)

合戦終了の後、上杉謙信は、越後軍戦死者を弔ってくれたことに対し、深く感謝したという。このことがきっかけで、後の「敵に塩を送る」というエピソードが生まれたという。
いずれにせよ、川中島が壮絶な合戦であったことを今に伝える首塚である。
「別働隊が戻るまでは・・・」
武田軍本体は、この危機的状況の中で、この思いを胸に懸命に本陣を守っていたことであろう。
別働隊は、もぬけの殻と知り、八幡原へ「急げ」の想いだったろう。
それぞれの想いが飛び交う中、武田軍の、そして信玄の危機的状況は更に続く。。。

今年の蛍はいつ見れる??

2010年05月18日 14時46分57秒 | 犬・自然
早いもので、もう5月も下旬になりつつある。
徐々にではあるが、いくつかの田んぼではもう水を張り、も出てきて合唱が始まっている。
そんな中、この時期、楽しみなことがある。
それは初夏を告げる風物詩 である。
ここ山梨は、田舎で不便なことも多いが、東京に勝てるところもある。
その数少ない一つが、自然ではないだろうか。
この自然にはぐくまれた蛍が、残された時間のすべてを賭けて恋の光を灯す。
実に幻想的な光で、癒される。(当の蛍は、子孫を作る為に激しいをしてるのであろうが。)
それを家の側で見れるのは幸せだ。

今夜、 家族とゆう坊で、蛍がいるか探しに行ってみた。
因みに今夜のゆう坊はこんな感じ
(ゆう坊)





残念ながらは確認出来なかった。
ゆう坊も一生懸命探してた
去年が5月20日頃確認出来たので、そろそろであろう。
ただ、今年はが4月に降ったり、そうかといえば、4月で30度を記録するなど、異常気象で、寒暖の差が激しい為、もしかしたら遅れるかもしれない。
まあ、気長に待つ事にしよう

しかし、去年の蛍を見て感じたことがある。
小生が子供の時に見た蛍の数と、去年確認した数を比べると、感覚的には1/5以下に減少した気がする。
それは、ここも近年、少しずつではあるが水田(石垣が消え、アスファルトへ)、河川、そして道路などの開発が進み、農薬などの要因もあわせて、蛍の生息できる場所が少なくなっていることが原因であろう。
だから、蛍が飛び交う場所も必然的に限定されてしまっている。
町でも数年前から保護地域に指定してくれて、十分ではないが、支援してくれている。
しかしまだまだ、昔の風景は戻っていない。

今書いていて更に思い出したことがある。
だから、この場所の位置の記載はあえて避けよう
ごく一部ではあるが心無い乱獲者がいるからだ
昨年、蛍を見に来ていた親子がいた。光景だけ見れば微笑ましい。
しかし、よく見ると子供がせっせと数少ない蛍を虫かごに入れて捕獲していたのだ。
こともあろうに、その親は子供を褒めていた。他に何人も観賞に来た人がいる中でだ
小生が出る前に、同じく観賞で来ていたおじさんが激怒して、その親に注意していた。
ここは、場所を知っている多くの町民がこの何もない川に来て、蛍の光を楽しんでいる場所だ。
その中で、何故、皆で大切に守っている、そして楽しんでいるのに、公然と人の目を憚らず捕獲する事が出来るのだろうか?
子供は仕方ないとしても、いい年した大人が利己的で、自然破壊を教えている。
こんな愚かな輩が、ここに限らず都会でも田舎でもあちこちで「親」として量産されているのだろうか?
実に嘆かわしい光景だった。

この光、子供が、小生が子供だった時と同じように楽しめるよう、いつまでも守って行きたい。そして少しずつ増やして行きたい。
蛍の時期が過ぎれば忘れがちだが、日頃から川 汚さないようにしよう。
今年の初蛍は、いつ確認出来るであろうか? 去年と比べて、増えてるだろうか? 
少しでも増えていることを信じて、日々注視して見てみよう




春のオープン戦 法政vs立正 

2010年05月16日 20時57分29秒 | ラグビー
これまで、所用でなかなかラグビーの応援行けなかったが、
ようやく本日、応援に行けた。
相手は立正大学。2部のチームだ。
天気は しかし風が強い。やや肌寒い感じ。
相手が2部と言うことで、メンバーも1.5軍と言った感じ。
しかし、相手は2部 圧倒することを期待して観戦した。
A~Dの4試合と思っていたが、A~Cの3試合であった。

まずはC戦
結果は以下の通り。
   法政C  vs  立正C
前半  7        0
後半  7        5
計  14        5
法政C勝利
圧倒どころかいい試合になってしまった。
BKは全く突破できない。ノッコンやパスミスなど多く、
実に見ていて歯がゆい。
立正のミスにも助けられた。
(法政C)


期待の1年生SH松島君は前半に出場、もう少しパス精度がよくなると上に上がれると思う。
後半のSHは同じく1年生大江君だった。1年生 勉強中だ。上を目指して頑張れ

B戦

   法政B  vs  立正B
前半 10       14
後半 33        5
計  43       19
法政B勝利
1年生では、LOで小山君、NO.8堀君、SOで山口君が先発
スコアだけ見れば圧勝だが、前半戦は
まったくダメ。Cと同じく、ノッコンやパスミス多く、ため息。むしろ押されていた感じ。
また、ディフェンスも甘く、簡単にゲインを許す。実に重苦しい感じ。
後半大幅に選手入れ替えると流れが良くなる。
(法政B)

圧巻は、後半から出場した2年のWTB松原君(報徳学園)
大爆発!!
後半だけで5トライ。とにかく速く、素晴らしい突破力。
相手の密集の中、さっそうと切り抜けトライする個人技もある。
よく守っていた立正ディフェンス陣をザルのように切り裂いた。
この試合の収穫だった
今日、もっとも法政らしいBKでのトライであった。
去年よりかなり成長した感じで、早くAに上がってきてほしい。

A戦
(スタメン)
1高橋 2草間 3荻原
4後藤 5栗林
 6吉岡   7光安
    8宮田脩
     9高城
    10玉村
  12岡本 13高野
11中山   14宮田直
    15渡邊

(結果)
   法政A  vs  立正A
前半 29       14
後半 14       12
計  43       26

トライ=後藤、中山、高野、山本、不明3)
G=岡本2 加藤2

法政A勝利
とはいえ、全く喜べない。
確かに、怪我、U20、温存などで、主力は今回あまりいなかった。
とはいえ、2部相手に圧倒すべきであったが、
どうも気迫が感じられない、前半はもっと引き離していい感じなのにミスが多く、
得点が伸びない。またディフェンスも甘く、相手モールに簡単に押し切らトライを献上するなど、どうもチグハグ。ストレスが溜まる前半。失点も多過ぎ
むしろ面白かったのは後半だ。大幅にメンバー変更。
得点だけ見れば、全然ダメだが、
何が面白いかと言うと、1年生7人を投入したのだ。
1列は全員1年生(1水本 2武田 3宇佐美)
LO新谷
SO加藤
CTB川原田、森谷
期待し、楽しみにしていた1年生のPR石澤君、SH中村君、CTB/FB猪村君が怪我なのか出場していなかったのは残念だ。また別の機会に見たいと思う。

(法政A)

1年生とはいえ、テンポがよく、見ていて面白い。
しかも2部とはいえ、上級生相手に押している。
小生期待の加藤君は流石だった。
非常に視野が広く、キック、パス素晴らしく、隙あれば素晴らしいランで
突破。トライこそ取れなかったが、軸がしっかりした走りがみれた。
是非ベストメンバーで彼のSOを見たい。
また、地元日川出身のLO新谷君も後半から出場
Aデビューおめでとう
まさかこんなに早くデビューするとは驚きだ。
しかもいいディフェンスしていたと思う。
今日の経験を生かして、大きく成長してもらいたい。
(新谷選手)


後半1、2年が主体であったが非常に将来的にも楽しみだ。
とはいえ、裏を返せば、3,4年生がもっと目立たないと秋はかなり苦戦する
今日のようなレベルでは、選手権を意識すると、東海は勿論、対抗戦の早稲田、帝京、慶応
にも大敗しそうな感じだ。
もちろん今日は、主力が少ないにせよ、このチャンスを得た控え選手達が、この隙に
レギュラーをという気迫が伝わってこないのが残念だった(当人達には内内には気迫はあったのだろうが・・・)
今の時期に主力を脅かす存在のないチームが、強豪を倒すことはできないであろう。
下級生に出る幕がないような奮起を上級生には期待したい。
来週は地元山梨で招待試合として法政明治がある。
今日より遥かに良くなることを期待したい。
頑張れ 法政

立正大戦

2010年05月14日 16時51分21秒 | ラグビー
いよいよ今週の日曜日 5月16日 小生にとっては今季初のオープン戦
法政大  立正大を観戦する

当日はA~Dの試合が組まれてるようなので、1日楽しめそうだ。

U20組はモスクワだし、山森君はHPから見るとまだリハビリ中。
ということで彼らのプレーが見れないのは残念だが、Aチームのレベルや新戦力である1年生
に注目してみてきたいと思う
天気はの予報だし、あとは秋に向けて夢を感じれるプレーを
期待したい。

筑波戦で浮上するきっかけを掴んだものの、東日本大学セブンスでは不完全燃焼。
今度こそ自信を取り戻す試合にして欲しい。切なる願いである

頑張れ 法政

風林火山紀行(信濃路編4)・・・上杉謙信本陣妻女山【川中島決戦①】

2010年05月13日 16時16分26秒 | 旅行
2010年4月24日
妻女山に登った。
長野ICから国道403号を西に進むも、妻女山入口が分からず、少し苦労した。
入口から高速道路の下をくぐって途中までで行き、展望台駐車場で降りる。
とうとうここまで来た
川中島の舞台に小生も足を踏み入れた。感激じゃ!!

そう ここは1561年(永禄4年)川中島の大激戦が行われた舞台の一つで
敵将上杉謙信と上杉軍総勢13000人が本陣とした場所だ。
(八幡原から見た妻女山:写真中央の低い山が妻女山)



1553年より5度にわたって勃発した川中島の合戦であるが、武田晴信は極力合戦を避け、
本格戦闘はこの第4回川中島の合戦になる。

武田軍の北信濃侵攻とともに、信濃緒豪族は、上杉謙信を頼り、また謙信自身が治める領国越後とも隣接をするようになる。更に海津城といった拠点を築かれ、これは、上杉謙信にとってももはや看過できない状態となった。
また、関東管領になり、同じく敵対していた北条氏康を討伐すべく関東出兵するも
背後となる信濃は叩いておく必要があった。
更にはもう一つ。善光寺商業圏である。この地は、地元の人に聞くと大変肥沃の土地の上、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって、大変賑やかな土地の為、有力な経済圏を形成していた。
ある意味、この商業圏の争奪戦といった経済戦争の要素も含まれていた。

とにかく、上杉謙信は、川中島に侵攻したが、高坂弾正が守備する海津城は囲まず、妻女山に登り、本陣をおく。
対する信玄も2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
両者睨みあい、戦いの幕が開く。
その後武田方は、海津城に入る。

謙信 茶臼山・海津城を見ながら何を思ったのか?? 
さて、妻女山を登り始めるとすぐ謙信が槍で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」があった。
(槍尻之泉)

今でも水が出ている・・・

ここから更に車で進むと川中島が一望できる展望台がある。
まるでここが上杉本陣ではと思ってしまうような整備がされているがそうではない。
しかし茶臼山、八幡原、海津城周辺などが一望でき、上杉軍・武田軍の動きを示す地図もあり目を閉じると情景が目に浮かぶ。
(展望台の様子)




(展望台から見た八幡原:写真中央の森のような所)

(展望台から見た海津城:写真中央部あたり)

実際にこの展望台に立つとよく分かるのだが、下界が一望でき、武田方(海津城)の動きが見えるのに対し、海津城からここ妻女山が見える場所は限定されている。
なるほど さすが謙信じゃ!! やるのう!!と思わず感心した。
死角を上手く使って下山したのが分かる。

(両軍の動き)


さて、展望台から上への本陣までは車では行けないので徒歩になる。
道は舗装されていない。
途中、山の中を歩いていると、何かに見られているような感覚がした。
じっと止まって振り返り周りを見ると、何かが動く。よく見てみると、
なんとカモシカじゃ!!

「ワシの背後をとるとは天晴れな奴じゃ!!」
「愛い奴じゃ!!近こう寄れ 褒美(持っていた菓子)をつかわすぞ」と
声をかけたが、速攻で逃げていった。
その時小生は「勝った!!」と思った。(結構焦ったが・・・

さて、展望台から10分ほど歩いただろうか?
かなりきつい登りだ。日ごろの運動不足が身にしみる
ようやくついた本陣。ここは古墳でもある。
苦労して登った割には標識の棒が立っていただけで何もない。
実に寂しい。
(上杉本陣跡)

謙信と信玄。二人の天才。
今でこそこんな寂しい本陣跡ではあるが、謙信は、信玄と紛れもなくこの場所(本陣)から我々が想像できないような、天才同士の駆け引きを繰り広げた。
その精神的緊張たるや、ものすごいものがあったことだろう。
それを感じただけでも、この場所に来た甲斐があった。

妻女山は、今も上杉謙信の気配が残っている所だ。
決戦の時は近い。