ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

マキアヴェッリに学べ

2018-08-22 14:39:55 | 日本のこと
2018年8月22日 

北海道の隣国による広大な土地購入と沖縄騒動を見ていて、これは有事の際には挟み撃ちだなぁ、と外から母国を見て焦っているのですが、みなさまはいかに?

そこで、今日はこんなことを書いてみたのですが。題して「マキアヴェッリに学べ」。


自分たちの国の運命を他国の軍事力に頼ってはならない。
まるきり人の軍事力に頼ってる日本ではある

全ての都市、すべての国家にとっては、領国を侵略できると思うものが敵であると同時に(うん、いるいる。それも大小3隣国だ!)それを防衛できると思わない者も敵なのである。 (いかにも!国内にも敵はあり
君主国であろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他国に任せたままで自国の安全が保たれると思ったであろうか。

政治上の無能は経済上の浪費につながる。(ほんとにその通り!IMFやらODAやら外国人生活保護費やら、震災復興予算費流用やらの浪費をあげつらったらきりがない

政治上の無能はしばしば節約を強いる部門の選択を誤ることにつながる。
ズバリ、レンホー氏の過去の仕分け作業

都市(国家)は、軍事力なしには存続不可能だ。それどころか最後を迎えざるを得ない。最後とは、破壊であるか隷属である。(怖いほどに感じる

普通、人間は隣人の危機を見て賢くなるものである。 (チベットを見よ!)それなのにあなたがたは自ら直面している危機からも学ばず、あなた方自身に対する信ももたず、失った、または現に失いつつある時間さえも認識しようとはしない。運は、制度を変える勇気をもたないものには、その裁定を変えようとはしないし、天も自ら破壊したいと思うものは、助けようとはしない。助けられるものでもない。

個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。 (口先と金のバラマキだけではダメ。隣国との慰安婦問題の反故などこれである。力がないから平気で協定を破られるのだ。)

都市(国家)は全て、いかなる時代であっても、自らを守るためには、力と思慮の双方を必要としてきた。なぜなら、思慮だけでは十分でなく、力だけでも十分ではないぁらである。思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、力だけならば、実行に移したことも継続することはできない。したがってこの二つが、いかなる政体であろうと関係なく、政治の根本になるのである。この現実派、過去においてもそうであったし、また将来においてもそうであることに変わりはないであろう。(力のない正義は無力だということだ

竜に一人一人順に食われていくのがいやならば、竜を皆で殺すしかない。(脱亜論にのっとる

上記、まさに現在の我が国に向けたメッセージそのものに捉えられる。が、実はこれ、以前一気に読んだ本、塩野七生氏の「我が友、マキアヴェッリ」の中からの抜粋なのです。赤字はわたしの突っ込みです。

世紀のイタリア、ルネッサンス期のフィレンツェ共和国に使えたニコロ・マキアヴェッリはさほど裕福でない中流家庭に生まれ、高等教育、今で言う大学を受けていないノンキャリア官僚だったとのことで、このあたりから引き込まれて読んだところが、んまぁ、あたかも我が国の政治家たちに言って聞かせているような、上記のマキアヴェッリの言葉であります。権謀術数のマキアヴェッリと言われるものの、至極まっとうな言葉ではありませんか。

この当時のフィレンツェ共和国は、四方を海に囲まれた島国の日本とは地理的条件は違っているものの、現在の日本同様、繁栄力の反面、軍事力を持たず、いざというときには傭兵に頼っていたのです。政府の優柔不断ぶりを、会談に於いては若きチェーザレ・ボルジアをして「あなた方の政府は嫌いだ。信用ができない。変える必要がある」とまで言わしています。このあたりも今の日本政府にそっくりそのまま聞かしたい部分です。

ノンキャリアであるがため第二書記局書記官の職以上は望めず、それでも祖国の独立を守ろうとするマキアヴェッリの東奔西走にも拘わらず、フィレンツェ共和国はやがて滅亡するのでが、読み進めながら、フィレンツェ共和国の姿が我が祖国と重なり、暗澹とした気持ちに襲われます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとはドイツ初代宰相ビスマルクが言った言葉ですが、今の日本の政治家は、自国の歴史は愚か、世界の歴史に学ぶなど及びもしないのでしょうか。手がけるべきことも何一つ進められず、「近いうちに」と無責任は留まるところを知らない。ほとほと嫌気がさしています。

過去の歴史にもないような、異様な姿に日本が見えるのはわたしにだけでしょうか。そうであることを願わずにはいられない昨今です。
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「思い出の弘前・つばさ食堂」

2018-08-21 00:36:53 | ペット
2018年8月20日    

「いらっしゃいませ!」
ドアから入ってくる客に威勢良く声をかけ、客がきちんと席についたのを確認して、お冷とお絞りを載せた丸盆を両手に持って、注文を聞きに行く。
     
「はい、親子丼おひとつですね。かしこまりました。少々お待ちください。」
ちょいと伸び上がって調理場に顔を覗かせ、
「おやどんいっちょう~!」
「ホイキタ合点、おやどんいっちょう~~」とオヤジさんの返事が来る。 

中学3年のほぼ一年を叔父叔母宅で過ごした大阪から弘前に帰ったわたしは、中学3年3学期の高校受験ギリギリの時期に以前通った中学ではなく、別の中学へ転入し、無事高校入学ができた。入学して間もなく、昔、下町に祖母の家があった頃、大家族14人が一緒に住んでいたおじの一人、職業がよく知れないおじが、学費に困っていたわたしにアルバイトの口を持ってきてくれたのだ。 
     
中学3年生の女の子の家庭教師である。高校1年生が中学3年生にですよ(笑)しかも、毎夕方、国語、英語、算数、理科の4教科を見る口でありまして^^;国語英語はなんとかできたものの理数系はわたしはアカンのですってば。
     
しかし、背に腹は変えられぬ。 授業料も小遣いもいるのでありますれば。せっぱづまれば人間、たいがいのことはなんとでもするものです。こうして高1から始まった家庭教師ではありますが、毎日これをやってますと、自分が勉強できなくなるのでありました^^;

そうして次に見つけたのが、上記「いらっしゃいませ!」の春夏冬休み期間中の大衆食堂アルバイトである。その名も「つばさ食堂」!
     
当時は高校ではアルバイトを禁じていたが、そんなことはお構いなしです。弘前の大きなデパート「かくは」からちょいと横道にそれた食堂ですから、知った顔が見えることはまずない。こうして始まった大衆食堂のアルバイトが高校3年間ずっと続くことになるのである。
    
オヤジさんもおかみさんも津軽弁ではなく、江戸弁なのであった。その頃には、わたしは津軽弁を話さず、中学三年の一年を大阪で一緒に住んだおじの影響で弘前にいながら、外では標準語でやり過ごすようになっていた。さしづめバイリンガルですな(笑)津軽の言葉で言えば、こんなことをするわたしは「エフリこき」、つまりかっこつけ屋だ。
     
オヤジさんはなかなか面白い人であった。どういういきさつがあって弘前くんだりまで流れ着いたかは知らぬが、上背があり、軽くびっこをひいていて、満州にいたことがあるのだそうな。

共通の言葉、標準語を話すということも幸いしたのであろうか、わたしは大衆食堂のオヤジさん、おかみさんに随分と気に入られたらしい。「あんたのその、ハイ!という返事がいい!」としょっちゅう褒めてもらった。

そうなのだ。子供のころの、消え入りそうな究極の内弁慶は一体どこへ行ってしまったのかと思われるほどの変わりようで、何はともあれ、わたしの「はい!」の返事は、自分で言うのもなんだが、大きな声ではっきりと、即座!天下一品なのである^^

褒めてもらうと人はたいがい張り切るものだ。わたしもその例に洩れず、褒められれば木にも登るというブタの口、夏休み冬休みの期間中は毎回せっせと働き、すっかり家族の一員のような雰囲気であった。

40歳を優に越してから、保険の外交員の仕事に就いた母までが、いつの間にかそこに出入りし、オヤジさんたちが贔屓するようになっていた。跡継ぎの娘さんがいたのだが、わたしとは歳が離れていたせいもあったか、少しも気にすることもなく、彼女もまたいろいろ食堂の仕事のことを教えてくれたものだ。

進路で悩んでいた時に、積極的に相談に乗ってくれたのもこの食堂のご夫婦であった。英語が得意だったわたしを知っていたオヤジさんは、ある日言った。「弘前の大学で学ぶんだったら、学費を出してやる。」
     
これは天からの助け舟であったのに、「田舎はもうごめんだ。都会へ出て、更にできれば外国へ行って見たい!」との、当時にすればデカイ夢を見ていたわたしは、オヤジさんの申し出を袖にし、高校3年の夏、「つばさ食堂」のバイトを振り切って、自分の力で何とかしようと、東京は江東区の新聞専売店住み込みの実習をすることになるのである。(この時の体験は「1964夏・江東区の夕日」をどぞ) 

結果は、挫折するわけであるが、時折わたしは思う。あのまま、つばさ食堂のオヤジさんに学費を借り、弘前に留まって大学まで行ったとしたら、わたしの人生は今とは随分違ったものになっていたであろう。アサヒ・ビア・ハウスの歌姫時代はなかったであろうし、そうすると、現夫に出会うこともなかった。さすれば、息子のジュアン・ボーイも、モイケル娘も生まれなかったであろう。

人生の一つ一つの選択は、わたしたちの未来をひとつひとつ積上げることに他ならない。そのときは気づかないものの、こうして歩いて来た道のりを今、立ち止まって振り返ってみると、岐路がいくつかあったに拘わらず、その時その時に選んだそれぞれの道は、今日のわたしを、わたしの家族を作り上げた
ことに繋がる。
     
人生は摩訶不思議ではあるけれども、逆らい切れない運命のようなものがあるだろうけれども、随所随所でわたし達の選択の意思が働くことを考えると、人生の多くの出来事はわたしたちの意思によって運ばれることは、全く否めようがない。

2004年に、36年ぶりに故郷の土を踏んだ時、すっかり様変わりしてしまった弘前の町で「つばさ食堂」がかつてあった場所を探してみようと思った。が、わたしは止めた。場所はもうどうでもいい。「つばさ食堂」は、我が青春の一枚の絵として、こうしてエッセイに書くことができるほど、今でも鮮やかに思い浮かべることができるのだから。そして、今の自分の人生はいつでもその起点に繋がっているのだから。                   

2011年1月後記:
記事内の「1964年・江東区の夏」でわたしは書いていないのだが、この新聞専売店住み込み実習の時に、それまで数年文通していたA君を足立に突然訪ねて驚かせたのであった。その後、どちらともなく音信不通になり、不思議な縁で一昨年45年ぶりにわたしたちは再会し文通が再開。

青春時代と現在がほぼ半世紀を経て交差するとは、あの時、誰が想像したろう。わたしは今つくづくモンテルランの言葉を噛み締めている。

人生はわたしたちを欺かない、と。
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家族の肖像

2018-08-19 19:11:03 | 思い出のエッセイ
2018年8月19日

 
墓参はもちろんのこと、ご先祖の霊の迎え火送り火も容易にできないほどの遠国に住んでしまったわたしではあるが、8月は遠く過ぎ去った夏にひとりしきり思いをよせる時期である。

一昔ほど前に横浜の叔母がみまかったのを最後に、叔父叔母である我が母方の9人兄弟はみな鬼籍に入ってしまった。父は岩手県雫石の出身だったが、どうやら若い時から家族のもてあまし者だったようで、父の存命中もその親族とはほとんど行き来がなく、我が両親亡き後はそれっきりプッツリのままであるから、わたしの思い起こすお盆はいつも弘前である。

故郷を後にして長年大阪に住んだのだが、今思ってみれば誠に残念なことに盆とてわたしは一度も帰郷していなかった。田舎の土臭さ、線香の放つ古臭さに、言うなれば因習にあの頃のわたしは精一杯抗っていたのである。そのような因習に囚われずに、精神を自由に遊ばせて生きることは流浪の旅の中にあると本気で考え、そういうことに憧れていたものだった。

それにいくらか似たような若い時代を経て、やがて人並みに結婚し、二人の子育てもほぼ一通り終わったのだが、この間の異国での暮らしは、それまでのわたしをゆるく大きなうねりを描くように、人生の学習をせしめ、近年再び故郷に向かう心を取り戻させたような気がする。

「子を持って親の心を知る」と昔から言われるが、わたしは遅まきながらこの言葉を今噛み締め、祖母や母の心に、故郷に、思いを馳せるようになったのである。

次男坊だった父がその昔、彼を獣医にしたいという地主の父親の元を出奔したのは10代だと聞く。思春期には黙した態度で目一杯父に反抗し、弘前から大阪への家出を繰り返した13、14のわたしは、何のことはない、しっかりとこの父のDNAを引き継いでいるではないか^^;

それまで競馬騎手だった父が、その職を諦めるべき時期になり、盛岡から弘前に来て親子四人がともに暮らし始めて以来、わたしには長い間、両親の仲良い姿が記憶にないのであった。

南部生まれの競馬騎手だった父が異郷の地、津軽に生きるには難しかったこともあったろう、昭和30年代も半ば、その日食うのにも苦労する貧しい家庭は周囲にいくらでもあったし、父が無職がちだったわたしの家族もそうであった。その日食べるために、母はできうる限りのことはなんでもし、父はよく酔っては暴れていたものだ。

ある年の春、帰国した折に、横浜の叔母の遺品の中から出てきたと妹が持ち出してきた、わたしたちが見たこともない古い数枚の写真の中に、こんな一枚があった。





父と母の、恐らく40代前半の写真であろう。なんにしても、馬なりバイクなりと「乗る」のが好きな人であった。このバイクで、あんな時代に父はモトクロスまがいのことをしては周囲の眉をひそめさせていたのであろう。そう思うと、なぜか父の姿と重なる若いときの自分がちらちら見えてくる。

写真を撮ってあげるとおだてられて、「いごすじゃ。」(いいわよ、遠慮しとくわ、の意味)としり込みする母を無理やり乗っけでもしたのだろうか? 仲良く写っているではないか。

この写真一枚を見るにつけ、もしもわたしがあの頃、もう少し素直でかわいらしい心根をもった少女だったら、もう少し気の利く少女だったら、わたしたち家族の肖像は、もう少し違っていたのではなかったろうかと、わたしはこの歳になってふと思うことがある。

子どもに責任はないと言うけれど、過ぎ去った遠い昔の時間を取り戻すなど無理なことではあるが、あの頃に今の気持ちを持つわたしを置いてみたい、そして、家族4人が「あっはっは」と心から笑ってみたいとの見果てぬ夢を見る。

失って長い時間がたたないと見えてこないものが人生にはある。お盆はわたしにとって父母を偲ぶ懺悔の時期でもある。
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終戦記念日:忘れてしまったもの

2018-08-18 08:26:14 | 日本のこと
2018年8月18日 

今年の8月15日は旅行中だったため、終戦の日への思いを綴らぬままになってしまいました。
世界のどこかでまだ戦争が行われているという悲しい事実はあるのですが、終戦後に生まれ育ち、少なくとも今、戦争がない国に住んでいる自分の幸運を噛み締めています。この幸せは、過去の歴史で命を落とした人たちの犠牲に立っているものだと、わたしは思っています。

そして、8月になるといつも思い出される話があります。2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談です。記事をプリントアウトしていますので、自身のための戒めとして今日はその記事を二つ載せたいと思います。長文になりますが読んでいただけたらと思います。

【忘れてしまったもの】

・靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
 
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
 
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。

それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
 
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

・焼き場の少年

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。(この物語は日本の中学生の国語教科書でも紹介されており、ポルト補習校時代に担当の子どもたちと学んだことがある)



Wikiより

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
 
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
 私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
 
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本が物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)

2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より
                                     
本日はこれにて。
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異国でのお盆

2018-08-04 19:11:14 | ポルト
2018年8月4日 

取上げるには少し早いのですが、夏休み中ゆえ家族旅行にでかけることもありますので、ブログにあげそびれるかもしれないと思い、綴っておきます。

終戦2年目にしてわたしは父の故郷である岩手県の雫石に生まれたのですが、子供時代から高校を卒業するまでのほとんどは青森県の弘前(ひろさき)で過ごしました。

時々、その弘前での20年近くの日々を思い出すのですが、一番最初に胸に浮かんでくるのは、「我が家は一貫していつも貧乏だったなぁ」という思いと同時に「けれど、なんて当たり前な、のどかな時代だったろう」ということです。

この頃の思い出話は、興味のある方はこちらで読んでいただくとしまして、

随分前になりますが、8月の時節柄、日本語教室の二人組みの生徒さんに「お盆」の話をしようとしたら、その一人が、

「せんせい、その言葉、知っています。トレイ(tray)でしょ?」と言います。

「お、エラい、よく知っていますね、その言葉。」と、まずは褒めておき(笑)「今日話すのは、そのお盆ではなくて、祖先の霊を祀る日本の行事のお盆です。」 もっとも語源は先祖の霊に食物を供えるのに使った「トレイ、お盆」から来るとの説もあるのですがね。

外国語を学ぶには、もちろん文法も大切ですが、その国の歴史や習慣を知ることも重要だとわたしは思うので、日本語クラスでは機会があれば、日本の行事や習慣の説明を試みます。外国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことでもあります。未知の世界の扉を開けることに他ならないとわたしは思っています。

さて、日本の伝統行事では、ポルトガルとは習慣が違うわけですから、説明に色々手間取ったり、意表をついた質問が出されたりして、こちらがハッと気づかされることも時にはあったりします。自分が実際にその行事の経験があると、説明も生き生きとして、授業は盛り上がり、その余韻がわたし自身を当時の思い出にも誘うわけです。

わたしが子供の頃、お盆というと、必ずしたのが家の玄関前での「迎え火、送り火」でした。
灯かりを目印にご先祖さまの霊を「お帰りなさい。こちらですよ。」とお迎えし、送り火は、また来年までね、とお送りするのです。

祖母の家では、割り箸を二本ずつ交互に組み合わせて高くし、それで迎え火、送り火をしていました。

先祖の墓参りには、霊魂があの世とこの世を行き来するために、きゅうりやナスに割り箸を四本刺して、馬、牛の形にした「精霊馬(しょうりょうま)」と呼ばれるものを作って持参し供えました。こんな感じです↓



(画像はwikiより)

9人兄弟で長兄は戦死、残った8人兄弟の一番上がわたしの母でした。南部出身の父は、家族を放ったらかして地方競馬の騎手として岩手県盛岡市に住んでいましたので、母とわたしと妹の3人は祖母の家に、叔父叔母たちと同居し、14、5人の大家族でしたので、墓参りや、月見、お正月の餅つきなどの家内行事は賑やかで大変なものでした。

叔父や叔母がやがて独立して、祖母の家も事情で売り払わなければならなくなり、大家族はちりぢりになって後も、お盆には、それぞれが家族を連れてお墓参り、大勢が墓前で顔をあわせることになったものです。

お墓が清掃されているのや、お供え物がすでにあるのを目にしては、「千城(叔父の名前)がもう来た」などという母の言葉をよく耳にしました。

そうして時代が過ぎ、いつの間にか、一族が揃って顔をあわせるのは、結婚式か葬式になってしまいましたが、母も含め叔父や叔母もみな、ご先祖さまのお仲間入りしてしまった今は、何しろポルトガルに住んでいるもので親戚と顔を合わせることも無くなりました。

お盆が来るたびに、意味も分からず遊びながら精霊馬を作り、祖母や母、叔父や叔母たちと一族が連れ立って、墓参した子供の頃が思い出されます。

そうそう簡単に日本へ帰れない異国にいるわたしは、毎年8月になると、遠い昔のお盆を思い出し、心の中で迎え火送り火をたき、今日まで無事に生きてこれたことをご先祖さまに感謝いたします。

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