ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

異国でのお盆

2018-08-04 19:11:14 | ポルト
2018年8月4日 

取上げるには少し早いのですが、夏休み中ゆえ家族旅行にでかけることもありますので、ブログにあげそびれるかもしれないと思い、綴っておきます。

終戦2年目にしてわたしは父の故郷である岩手県の雫石に生まれたのですが、子供時代から高校を卒業するまでのほとんどは青森県の弘前(ひろさき)で過ごしました。

時々、その弘前での20年近くの日々を思い出すのですが、一番最初に胸に浮かんでくるのは、「我が家は一貫していつも貧乏だったなぁ」という思いと同時に「けれど、なんて当たり前な、のどかな時代だったろう」ということです。

この頃の思い出話は、興味のある方はこちらで読んでいただくとしまして、

随分前になりますが、8月の時節柄、日本語教室の二人組みの生徒さんに「お盆」の話をしようとしたら、その一人が、

「せんせい、その言葉、知っています。トレイ(tray)でしょ?」と言います。

「お、エラい、よく知っていますね、その言葉。」と、まずは褒めておき(笑)「今日話すのは、そのお盆ではなくて、祖先の霊を祀る日本の行事のお盆です。」 もっとも語源は先祖の霊に食物を供えるのに使った「トレイ、お盆」から来るとの説もあるのですがね。

外国語を学ぶには、もちろん文法も大切ですが、その国の歴史や習慣を知ることも重要だとわたしは思うので、日本語クラスでは機会があれば、日本の行事や習慣の説明を試みます。外国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことでもあります。未知の世界の扉を開けることに他ならないとわたしは思っています。

さて、日本の伝統行事では、ポルトガルとは習慣が違うわけですから、説明に色々手間取ったり、意表をついた質問が出されたりして、こちらがハッと気づかされることも時にはあったりします。自分が実際にその行事の経験があると、説明も生き生きとして、授業は盛り上がり、その余韻がわたし自身を当時の思い出にも誘うわけです。

わたしが子供の頃、お盆というと、必ずしたのが家の玄関前での「迎え火、送り火」でした。
灯かりを目印にご先祖さまの霊を「お帰りなさい。こちらですよ。」とお迎えし、送り火は、また来年までね、とお送りするのです。

祖母の家では、割り箸を二本ずつ交互に組み合わせて高くし、それで迎え火、送り火をしていました。

先祖の墓参りには、霊魂があの世とこの世を行き来するために、きゅうりやナスに割り箸を四本刺して、馬、牛の形にした「精霊馬(しょうりょうま)」と呼ばれるものを作って持参し供えました。こんな感じです↓



(画像はwikiより)

9人兄弟で長兄は戦死、残った8人兄弟の一番上がわたしの母でした。南部出身の父は、家族を放ったらかして地方競馬の騎手として岩手県盛岡市に住んでいましたので、母とわたしと妹の3人は祖母の家に、叔父叔母たちと同居し、14、5人の大家族でしたので、墓参りや、月見、お正月の餅つきなどの家内行事は賑やかで大変なものでした。

叔父や叔母がやがて独立して、祖母の家も事情で売り払わなければならなくなり、大家族はちりぢりになって後も、お盆には、それぞれが家族を連れてお墓参り、大勢が墓前で顔をあわせることになったものです。

お墓が清掃されているのや、お供え物がすでにあるのを目にしては、「千城(叔父の名前)がもう来た」などという母の言葉をよく耳にしました。

そうして時代が過ぎ、いつの間にか、一族が揃って顔をあわせるのは、結婚式か葬式になってしまいましたが、母も含め叔父や叔母もみな、ご先祖さまのお仲間入りしてしまった今は、何しろポルトガルに住んでいるもので親戚と顔を合わせることも無くなりました。

お盆が来るたびに、意味も分からず遊びながら精霊馬を作り、祖母や母、叔父や叔母たちと一族が連れ立って、墓参した子供の頃が思い出されます。

そうそう簡単に日本へ帰れない異国にいるわたしは、毎年8月になると、遠い昔のお盆を思い出し、心の中で迎え火送り火をたき、今日まで無事に生きてこれたことをご先祖さまに感謝いたします。