ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

家族の肖像

2018-08-19 19:11:03 | 思い出のエッセイ
2018年8月19日

 
墓参はもちろんのこと、ご先祖の霊の迎え火送り火も容易にできないほどの遠国に住んでしまったわたしではあるが、8月は遠く過ぎ去った夏にひとりしきり思いをよせる時期である。

一昔ほど前に横浜の叔母がみまかったのを最後に、叔父叔母である我が母方の9人兄弟はみな鬼籍に入ってしまった。父は岩手県雫石の出身だったが、どうやら若い時から家族のもてあまし者だったようで、父の存命中もその親族とはほとんど行き来がなく、我が両親亡き後はそれっきりプッツリのままであるから、わたしの思い起こすお盆はいつも弘前である。

故郷を後にして長年大阪に住んだのだが、今思ってみれば誠に残念なことに盆とてわたしは一度も帰郷していなかった。田舎の土臭さ、線香の放つ古臭さに、言うなれば因習にあの頃のわたしは精一杯抗っていたのである。そのような因習に囚われずに、精神を自由に遊ばせて生きることは流浪の旅の中にあると本気で考え、そういうことに憧れていたものだった。

それにいくらか似たような若い時代を経て、やがて人並みに結婚し、二人の子育てもほぼ一通り終わったのだが、この間の異国での暮らしは、それまでのわたしをゆるく大きなうねりを描くように、人生の学習をせしめ、近年再び故郷に向かう心を取り戻させたような気がする。

「子を持って親の心を知る」と昔から言われるが、わたしは遅まきながらこの言葉を今噛み締め、祖母や母の心に、故郷に、思いを馳せるようになったのである。

次男坊だった父がその昔、彼を獣医にしたいという地主の父親の元を出奔したのは10代だと聞く。思春期には黙した態度で目一杯父に反抗し、弘前から大阪への家出を繰り返した13、14のわたしは、何のことはない、しっかりとこの父のDNAを引き継いでいるではないか^^;

それまで競馬騎手だった父が、その職を諦めるべき時期になり、盛岡から弘前に来て親子四人がともに暮らし始めて以来、わたしには長い間、両親の仲良い姿が記憶にないのであった。

南部生まれの競馬騎手だった父が異郷の地、津軽に生きるには難しかったこともあったろう、昭和30年代も半ば、その日食うのにも苦労する貧しい家庭は周囲にいくらでもあったし、父が無職がちだったわたしの家族もそうであった。その日食べるために、母はできうる限りのことはなんでもし、父はよく酔っては暴れていたものだ。

ある年の春、帰国した折に、横浜の叔母の遺品の中から出てきたと妹が持ち出してきた、わたしたちが見たこともない古い数枚の写真の中に、こんな一枚があった。





父と母の、恐らく40代前半の写真であろう。なんにしても、馬なりバイクなりと「乗る」のが好きな人であった。このバイクで、あんな時代に父はモトクロスまがいのことをしては周囲の眉をひそめさせていたのであろう。そう思うと、なぜか父の姿と重なる若いときの自分がちらちら見えてくる。

写真を撮ってあげるとおだてられて、「いごすじゃ。」(いいわよ、遠慮しとくわ、の意味)としり込みする母を無理やり乗っけでもしたのだろうか? 仲良く写っているではないか。

この写真一枚を見るにつけ、もしもわたしがあの頃、もう少し素直でかわいらしい心根をもった少女だったら、もう少し気の利く少女だったら、わたしたち家族の肖像は、もう少し違っていたのではなかったろうかと、わたしはこの歳になってふと思うことがある。

子どもに責任はないと言うけれど、過ぎ去った遠い昔の時間を取り戻すなど無理なことではあるが、あの頃に今の気持ちを持つわたしを置いてみたい、そして、家族4人が「あっはっは」と心から笑ってみたいとの見果てぬ夢を見る。

失って長い時間がたたないと見えてこないものが人生にはある。お盆はわたしにとって父母を偲ぶ懺悔の時期でもある。