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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃、ビアハウス:「ある恋の物語・40年後の終章」

2018-02-23 13:58:42 | あの頃、ビアハウス
2018年2月23日

ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。

息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。

それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。

当時のビアハウス時代の知人たちに聴いても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友の堺みち子は堺市に住居があるので、彼女ともここ数年会っておらず、帰国を機に堺を訪ねることにしたのが昨年2017年の春のことでした。

幼い息子とわたしがかつて数ヶ月も滞在した見覚えのある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。

わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。

しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前に現れました。

「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。

昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず物が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在していた間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅうで、一体が誰の家だったのか(笑)

母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコがピアノを占領していました。

何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。

なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。

同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」

え!予想もつかなかったその展開に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた訳で、言うなればジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、周囲も心中そう思っていたはずです。

わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。

もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上もの歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。

「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいじゃないの、それで」と答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。

去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。

週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代からの宝石好きだものね^^

恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。

息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。

恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。

最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父上の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。


2002年発行


祖母が来た日


まんがとテレビの夜


紙芝居
 

紙芝居


三ノ宮駅


水辺


春の庭(幼児期のマックであろうと推測)


昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。

あの頃ビア・ハウス:第12話:「すみれの花咲く頃」

2018-02-21 10:11:49 | あの頃、ビアハウス
2018年2月20日        
    
       
♪春すみれ咲き 春をつげる
 春なにゆえ 人はなれを待つ 
 楽しくもなやましき春の夢
 甘き恋 人の心甘く酔わす
 そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 


ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われていたとも言われます。

このイントロで「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。
「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは言う。

ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはある。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックするアサヒビアハウス梅田はその魅力で未だにわたしをとらえて放さない。そして、我が先輩、宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。


宝木嬢

わたしよりずっと年上である彼女は当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、マックとの恋は周りをドキドキ冷や冷やさせながら、数年間は客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほどの一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。


一時帰国中のバイト歌姫復活時。往年の常連たちと店長(後ろ真ん中)、H大病院の外科医中川先生、そして息子。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。

「すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
忘れ君 我らが恋 すみれの花咲くころ」

この恋物語だけは、未完なのです。


追記:高齢の宝木嬢のこともマックとの恋の行方も気になり、ここ数年訪れていなかった堺の彼女宅を昨年訪ねてきました。このエピソードは次回に続きます。


あの頃ビア・ハウス:第11話:「A.D.」

2018-02-18 19:12:59 | あの頃、ビアハウス
2018年2月18日      
    

アサヒの名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていたおじさんがいました。しょっちゅう顔を出すわけではないのですが、ちょっとした風貌で人気者でした。いつも広島カープの赤帽をかぶり、ガニまたの足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光っているのです。
  
けっこうなお歳で70は行っていたと思います。頭は、これまた靴と同じく、ツッルツルのぴっかぴか!よくよく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのです。それでびっこ気味で片足をすこし引きずっていました。
      
人伝に若い頃はボクサーだったと聞きました。多くを語る人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような べらんめぇ調が入ってきます。顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか少年のような無邪気さがうかがわれ、わたしにはとても魅力的なおじさんでした。
  
独り身で、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでいるということでしたが、ADについては、誰も多くを語りませんでした。ふと見かけるADの背中には一抹の寂しさが漂っている気がして、それがビアハウスの常連に根掘り葉掘り聞くのを遠慮させたのかも知れません。
     
ステージが終わり休憩時間に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのにADの立ち席まで行ったものです。

「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
「おお、あんたも元気かい?」と返って来ます。
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

ポルトガルに来てからこのかた、一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。ある日、人伝にそのADのことが耳に入りました。ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなっていたのです。
   
路傍での孤独死だったと聞きます。誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り、彼を知る常連たちが集まっての見送りしたのだそうです。
  
わたしはしばらく落ち込みました。随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例え明日命が無くなってもいい」くらいの意気込みで、日々を、あの頃のわたしからしたら、一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか思えないような生き方をしていたものです。「たとえ路傍死しても悔いはない」との思いがあったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」その言葉に記憶があるわたしは、A.D.の死にざまに堪えたのです。
  
若い頃、ADがどんなボクサーだったのか、今となっては知る由もありません。アサヒが正に「人生のるつぼ」だと思われるストーリーではあります。
A.D.に、心をこめて、合掌します。

あの頃ビア・ハウス:第10話:「無情の夢」と「コロッケの唄」

2018-02-16 22:53:18 | あの頃、ビアハウス
2018年2月16日      
       
♪あきらめましょうと 別れてみたが
 なんで忘りょう 忘らりょか
 命をかけた恋じゃもの~
 
アサヒの常連多しと言えども、続けて2曲歌わせてもらえるのはこのお方だけです。しかも、ビアハウスのその日最後の第3ステージの「トリ」です。

歯医者の沢田先生。毎晩毎晩おいででした。身長154cmのわたしよりお小さかったです。入り口近くのテーブルにいつもひとり静かに座って、ビールをすすっていらっしゃる。

あまりおしゃべりしませんが、こと歌になると、ときどきこっぴどく意見されました。

    

写真、左から二人目が沢田先生

先輩歌姫の宝木嬢が名前を呼んで指定する必要がないくらい、ヨシさんの弾くアコーディオンのイントロが鳴ると、まるで全てが最初から打ち合わせができているかのように、座っていた席から急がずゆっくりとステージに向かって歩んで行きます。

そして、タイミングよくステージにあがり、「あーきぃいらぁめぇまぁしょおと~」が始まるのです。このタイミングの良さは、長年の経験で常連歌い手と息を合わせることにかけては、抜群の腕を持っているアコのヨシさんの人知れぬ配慮でしょう。沢田先生はこの歌を一番しか歌いません。続いてすぐ、「コロッケの唄」が続けられるのです。

♪嫁をもらって うれしかったら
 いつも出てくるおかずは コロッケコロッケ
 今日もコロッケ 明日もコロッケ~~
 
「明日もコロッケ~」の後に、ここで文字では表現不可能な愉快な笑いが入るのですが、沢田先生、これが実にうまい!
もうこれだけで、先生、お客さんをしっかり掴み大拍手を受けます。

沢田先生の歌い方は堂にいったもので、もしかしたら若いとき歌手の道を目指したことがあるのかな?と何度か思ったものですが、とうとう最後までそのようなことは聞かずじまいで、ポルトガルに来てしまいました。

アサヒビアハウスが改装され、「アサヒスーパードライ梅田」となった後、一度もお名前は耳に入って来たことがありません。あの頃ですでにお歳でしたからね。

今日もコロッケ、明日もコロッケ。日本のコロッケがいかに繊細にできていて美味しいものか、この唄を思い出すにつけ、異国のポルトガルに住んでつくづく思ったものです。

次回はこれまたアサヒの名物常連「A.D.」についてです。

あの頃ビア・ハウス:第9話:「Stein Songとムカデ行進」

2018-02-13 11:05:27 | あの頃、ビアハウス
2018年2月13日

Stein Song( 乾杯の歌)
  
  ♪さかずきを持て さぁ 卓をたたけ                             
   立ち上がれ 飲めや 歌えやもろびと
   祝いの杯 さぁ なつかしい
   むかしのなじみ 心のさかずきを
   
   飲めや歌え 若き春の日のために
   飲めや歌え みそなわす神のために
   飲めや歌え 我が命のために
   飲めや歌え 愛のために! ヘイ!

     
誠に楽しきビール飲み、酒飲みの歌である。この歌こそは、往年のアサヒビアハウス梅田をそのまま表す歌とも言えよう。飲むごとに人は楽しみ、飲むごとに歌を楽しみ、隣席の人の肩たたき合い、テーブルをたたいて興、盛り上がる。なかにはテーブルの上に乗ってうかれ
てしまう者もいるが、無礼講でお構いなし。
                                 
この「Stein Song」が盛り上がるとムカデ行進へと続く。ステージのヨシさんのアコーディオン、宝木嬢の愉快なビアソングにあわせて、先頭に立つのはわたし、もしくは朝○放送のコジマ氏である。


タンバリンか角笛を吹きながら、座って飲んでいる客たちを手招きしたり、肩叩きしたりして、この列に誘い込むのは先頭の役目で、わたしはよくこれをしたのものだ。コジマ氏はというと、調理場からフライパンを持ち出してきて、叩きながらの行進である。

最高潮時には全員がムカデ行進に加わり店内の席を取り囲むようにして長蛇の列の輪ができる。気がつくと誰一人として席に座っている客がいなくなるほどだった。


写真は、歌姫バイト・オフの日にビアハウスに遊びに行ったときのムカデ行進。後ろが我が親友、みちべぇ。その後には当時のAB社のおエラいさん、故高松氏、そして常連の杉やんと続く。ムカデ行進の音楽は「ビア樽ポルカ(ロザムンデ・ポルカとも言う)」を中心に数曲続く。

この最高潮の夜にわたしは初めてオフィスの同僚たちとここに入ったのであった。見知らぬ客同士がビールと音楽を通じてひとつになるわずか数分の一体感であるが、これは本当に楽しかった。このような雰囲気には、そうそう度々なるものではない。そして、このムカデ行進の時に、たまたまこのビアハウスに足を踏み入れていたとすると、その人はこの愉快な雰囲気に当てられ、アサヒの常連になること、請け合いである。この熱にやられてしまうのだ。
        
上述の朝○放送のコジマ氏は、取引先が職場へ電話すると、「コジマさんはここにおりまへん。何時頃やったらおるか?わかりまへん。けど、どうしても連絡つけたかったら、夕方、梅新のアサヒビアハウスへ行っておくんなはれ。あそこやったら絶対おりますさかいに。」と言う逸話があるくらいの毎日常連の一人である。
               
もちろん持ち歌はある。カンツォーネ「オ・ソレ・ミオ」と「ラ・スパニョーラ」だ。歌うときはよくアジョッキを手にし、口を大きく開けるので、歌姫宝木嬢は「扁桃腺が見えるくらい!」と呆れていた。
       

先輩歌姫宝木嬢がいない日は、「ラ・スパニューラ」を共に歌わされ、声域がアルトのわたしは高い音程に苦労したものだ。

ビアハウスには欠かせない、個性強い一人であった。

下記「ラ・スパニョーラ」をどうぞ。