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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃ビア・ハウス:第8話:「めんない千鳥の塩さん」

2018-02-12 14:33:14 | あの頃、ビアハウス
2018年2月12日

アサヒを語るとき、この人なくして語れません。
塩さん。梅新アサヒビアハウス黄金時代の店長でした。
  
小柄で腰が低く接客がうまかった。笑うと目がなくなるような細い垂れ目でした。ホールを動き回っていても目立たないのですが、これがああいう客商売ではいいのでしょう。ホールのどこかに塩さんの姿を見ると、わたしはなぜかホッとしたもので、アサヒビアハウスの空気に見事に溶け込んだ人でした。

先輩歌姫の宝木嬢から、一緒に歌わないかと誘われる前は、若い身空で毎日のように一人ででもビアハウスに出入りしていたわたしを塩さんは何と見ていたでしょう。女だてらに、一丁前に常連客が占領する立ち席にいるわたしに、しょっちゅうこっそりビールを持って来てくれましたっけ。もう時効だから白状してもよかろうと思い。

 
    
アサヒビアハウス梅田は、当時何度か雑誌やTVの取材を受けました。上は1977年「週間朝日2-4号」から。写真上部はシェイキーズ、そして下がビアハウス名物の5リットルジョッキ回し飲みです。前で手をたたいているのが塩さん。そして、アコーディオンのヨシさん、ドイツ民族衣装を着ているのが先輩歌姫「宝木嬢」、その横のピンクのドレスがわたし。
です。

アサヒの歌姫バイトでアメリカ移住資金を作っているわたしに「ユーコ、今日はあそこへ行こう。」と、9時半の閉店後にお初天神を通った向こう側にあるお蕎麦屋「夕霧そば」へよく食べに連れて行ってくれました。

  
いまでもこの老舗が同じ場所に存在することを確認しました。創業60年の「瓢店」です。 ここの蕎麦は本当においしいのです。最後に出てくる蕎麦つゆがまたうまかった。6時頃にオフィスを出てバイト先に直行ですから毎晩夕食抜きです。そのおいしい夕霧そばを食べながら塩さんを目の前に語るは、熱きアメリカ移住の夢。いつも黙って頷きながら目を細めて聞いてくれました。

さて、最初のエピソードでも触れましたように、アサヒでは演歌はご法度です。それでも例外はいたのでして、その一人が店長の塩さんだったのです。客入りが少ないとき、そして歌う常連もあまりいないときに、アコーディオンのヨシさんが「めんない千鳥」のイントロで塩さんを呼びます。

すると嬉しそうにツツーッとホールのテーブルの間を縫いステージへ向かって行く。ご本人は演歌ご法度を知っているわけですから、歌うのを楽しみにしているもののなかなか出番がないのです。

後年、オフィスもビアハウスも後にして、わたしは渡米したのですが、のっぴきならぬ事情で渡米半年後、ツーソンはアリゾナ大ESLコースを終えるや否や、日本に引き返し、しばらくの間アサヒでカムバックしたときには、塩さんはもうそこにおらず。それから再会まで26年の月日が流れていました。

「アサヒビアハウス」とネット検索したのがきっかけで、とある掲示板にたどり着き、かつてのアサヒの常連仲間の一人から塩さんへと連絡がつき、長い年月を経て塩さんから手紙が届いたときは、嬉しくて、次の帰国が待ち遠しかったものです。


以下、後日談。
2004年10月14日

塩さんとはこのエピソードを書いた後、かつてのビアハウスこと、内装がすっかり変わってしまい昔の面影を失った「アサヒスーパードライ梅田」で、26年ぶりの再会を果たしました。

 

店長が偶然、昔、ホールの主任をしていた人で、これも嬉しい再会でした。

80歳を超えて尚趣味の油絵を描き続けてらっしゃる。写真を見ると、んまぁ!ビアハウス時代とうって変わり、長髪を後ろで結わえたアーティストではありませんか。この夜は、かつての常連さんたちがアサヒに集まってくれ、懐かしい懐かしい一時をみなで乾杯し、再会を喜びました。



後列右端に塩さん、その隣が我がオフィス時代の上司(グッド・チーフ・バッドチーフに出てくるグッドチーフ)、板倉さん、赤いチロル帽を被るわたし、その後ろは宝木嬢の恋人マック、更に後ろが、アサヒ名物男の一人、杉ヤン。
わたしの左に前中氏、これまたアサヒ名物男のコジマ氏。前列真ん中がアコーディオン
のヨシさん、その左隣が我が先輩歌姫だった宝木嬢。



↑昔からの常連さん、前中氏。彼のハッピーな雰囲気は美味しいビールを飲んで歌って語らいあうこのアサヒなればこそ!

もう一度、こうしてみなさんと会えるだろうか、そんな思いで大阪を後にしたのでした。


更なる後日談:

この26年ぶりの再会の1年後に、塩さんは83歳で永眠しました。

2005年年10月12日(水曜日)の日記

人生は嬉しいこと悲しいこと、日々その繰り返しです。今回の放送(電話でのNHKラジオ出演)、大したことではないけれど、聴いていただきたい人がおりました。

「あのころ、ビア・ハウス」のエピソードで登場する、我が友「塩さん」です。それを聴かずに83歳の一生を閉じられました。この方なしには、アサヒ・ビアハウスは語れないと言っていいほど、わたしが誘われてバイトで歌い始めた頃は、梅新アサヒは、最高潮の黄金時代でした。

人前で初めて歌い、慣れなくて何度へんちくりんな失敗をしでかしたことか。そのたびに「気にせんでええのや。そこがまた素人っぽくてあんたのええとこやねん」と、渡米するまで力付けてくれたものです。

昨年帰国したとき、あの頃の仲間たちが集まってくれ、その塩さんとの連絡もとれ、26年ぶりで再開しました。以後、ポルトガルへ戻って来てからも、時々電話をかけたり、あちらからかけて来たり。

「今年はもう帰ってけぇへんの?」と、塩さんが言う。
「塩さん、今年は無理よ。もいける娘が日本の大学に入ったからね。
色々物入りです。去年に続けては帰られへんのよ。そのかわり、来年はなんとか
頑張って行きます。だから、塩さんもがんばってください」

塩さんとの会話はこの電話が最後になりました。

ラジオ番組出演の放送日程の連絡をしようと思っていた矢先に、塩さんの奥様から国際電話で知らせが入ったのです。あちこち誤字があるビアハウスにまつわるエッセイ集ではありますが、その中に登場してくる常連さんもみな塩さんの時代からの人たちで、アサヒ・ビア・ハウスは塩さんとわたしの共有の思い出です。

しばらく前に、そのエッセイとあの頃の写真のページをプリント・アウトし、一冊のファイルにして送っていました。奥様の話だと、とても喜んで何度も何度も読み返して往時を懐かしみ家人にも読めと回していたとのこと。
 
報せを聞いてわたしはしばらく呆然としてしまいました。ビアハウスのあの独特な楽しい雰囲気を、わたしたち歌姫やアコーディオン弾きのヨシさん、そして常連仲間とともに、毎日当時のアサヒビアハウスを盛り上げた人です。

でも、と考えました。きっと塩さんは惜しんで涙を流されるよりも、「アイン・プローズト!」と、乾杯で送られることを喜ぶでしょう。わたしは悲しまないことにしました。

めんないちどりの塩さん、Ein Prosit!人生、 お疲れさまでした。


あの頃ビア・ハウス:第7話:「La pioggia・雨」(2)

2018-02-09 14:01:06 | あの頃、ビアハウス
2018年2月9日         
  

「雨」を歌っていた頃。余裕がなくて衣装に苦労した時代です。
            
ノンちゃんのグループは3日とあげずにビア・ハウスにやってきてはホールの一隅を陣取り、ノンちゃんの常人ならざる風貌と数人のお供を従えて来ることとで、たちまちビアハウス内で名の知られる存在になった。ゆえに、わたしは、しょっちゅうイタリア語で「雨」を歌う羽目になったのである。

どこにあったか、場所はさだかではないが、藤本儀一さんが行きつけの「zoo」というバーに時折出入りしたのはこの頃で、ノンちゃんグループとつるんでの話である。彼はアサヒビアハウスにも時に顔を出したと聞くものの、残念ながらわたしの出番にはいらしたことがない。

ちなみに言っておきますれば、藤本義一さんとこのバーでもわたしは出会ったことがない。TV、ラジオ放送が終わったら来るから待て、とノンちゃんたちが言うのだが、翌朝9時からオフィスの仕事を持っているわたしに、そんな時間まで待って「明け方の君」でいられるはずもないのである。

しかし、このグループとはまったくもって、よく大阪北、南界隈を一緒に彷徨したものである。


さて、この一件から数年たって、渡米したものの移住を中止して一旦帰国したわたしは、広島に住む男友達と岡山で待ち合わせ、見知らぬ通りを行き当たりばったり歩き、外装に興味惹かれたカフェに二人で入った。

カフェは、夜はディスコに変わるのであろう。客はほとんどいなかった。店内はとても広く天井が高くて床は板張りである。面白いことに、店の片隅にイギリスで見かける赤い電話ボックスがデンと突っ立っていた。


二人でコーヒーなどをすすっていると、ボーイさんがツツ~っとわたしたちの席に向かって来、恐れ入ります。お客様にお電話が入っております。」とわたしに言う。
    
「え?お客様にって、こんなとこでわたし知り合い、いませんよ。」
「はい、ですが、外国の方とご一緒の女性は、お客様しかいらっしゃいません。
 あちらの赤電話にお出になってください。」
    
えー!だって、こんなとこに来るなんて誰にも言ってないし、岡山は初めての町だし、いったいどうなってるの?と摩訶不思議な面持ちで出た赤電話の受話器の向こうから、
  
「お久しぶりでございます。ノンちゃんグループのワダです。念願叶ってボスに岡山でコピーライターオフィスを開いてもらいました。
今日たった今、向かいのビルにあるオフィスの窓から、偶然あなたがそこへお入りになるのを見かけたので、懐かしくてお電話を差し上げた次第です。」

そうです、ノンちゃんの付き人をやっていたあのワダちゃんからの数年ぶりの、思いもしなかったコール。あの頃と同じ馬鹿丁寧な言葉遣いだ。懐かしさが胸いっぱいにこみ上げてきたのは言うまでもない。このような偶然はあるのだ。世の中広いようで、ホンマにせまいんやなぁ、とつくづく思わされた出来事であった。
    
そして、付け加えるならば、その時一緒にカフェに入ってコーヒーをすすっていた「外国の方」とは、言わずもがな、後のわが夫である。

一件落着なり。

「雨」に続いて歌いたいと思い歌詞を覚えたのが同じくジリオラ・ティンクエッティの「Non ho l'età (ノン・ノ・レタ)」。結局うたう機会がありませんでした。下記、Youtubedeで若い頃からスタートして多分60代のティンクエッティが歌っています。歌は世につれ世は歌につれ、わたしなら「歌は人生につれ、人生は歌につれ」といいたいですね。


あの頃ビア・ハウス:第7話:「La pioggia・雨」(1)

2018-02-08 10:28:32 | あの頃、ビアハウス
2018年2月8日
       
  
誰でも「世の中は広いようで狭いんだなぁ」と感じずにいられないような出来事に遭遇したことがあると思う。 今回はこの題である「雨」にまつわる、わたしの「世の中せまい」版です。


6時半から始まる最初のステージを終え、そこで楽譜を片付けていた時だ。
おそらく30代前半であろう、小柄な丸メガネをかけてスーツをバシッと着こなした男性が一輪の赤いバラの花を手に、ステージの壇を下りようと振り向いたわたしのまん前に立っていた。

「誠に恐れ入ります。わがボスが是非ともあなた様にわれらの席までお運びいただいきたいと申しております。ご迷惑なこととは思いますがいらしていただけないでしょうか。」と、そのバラの花を差し出すではないか。
当時、アサヒ・ビア・ハウスでは、歌姫やアコーディオニストが客と同席してともに楽しむ事を禁じてはいなかった。常連たちは客というよりむしろ友人とも言えた。
 
わが先輩の歌姫宝木嬢は、ゆえに、ステージが終わって後の休憩時間30分は、常連仲間とワイワイガヤガヤ、飲みながら食べながらのおしゃべりであった。客との話に夢中になって、次のステージ時間が来、アコーディオンのヨシさんが舞台にあがり、音楽で呼ぶまで居座ってしまうことしばしばだった。

わたしは、と言えば歌い始めた頃は、たいがい自分の安物の白いギターを抱えては、調理場裏の間にある、せまいホールで歌を歌って次の出番までの時間を過ごしていたものである。

さて、男性の態度があまりにも丁重ゆえ、つい断りきれずに向かったその席は6、7人の男性グループの席だ。
「ご紹介いたします。こちらがわれらのボスです。」と紹介されたのは、薄暗いビア・ハウス内だというのもお構いなくサングラスをかけたままの、40代くらいの男性で、彼もまた、スーツをビシッと着こなしていらっしゃる。
  
わたしがいぶかったのは、当時の、しかも、その年齢にしては珍しい肩までたらした彼らのボスの長髪だった。「なにか怪しい感じだぞ・・・」とは思ったものの、今更、退くわけには行かず席に座ってしまったのが運命の始まり、べんべんべんべ~ん。笑。


後に、われらが「ノンちゃん」と呼ぶことになる彼は、市内にオフィスを構えるコピーライターなのであった。彼の周囲に控えていたのは、シナリオライター、カメラマン、照明係で、いんぎんな態度を決め込んで、わたしを誘導したのは「ノンちゃん」の付き人、兼コピーライター志望者のワダちゃんであった。

その「ノンちゃん」のたっての願いで、リクエスト曲として覚えて歌うことになったのが、1969年にイタリアのサンレモ音楽祭で16歳のジリオラ・ティンクエッティが歌って大ヒットした「la pioggiaー雨」。

  ♪sul giornale ho letto che
   il tempo canbiera le nuvole son nere in chielo e
   i paseri lassu non voleranno piu
   chissa peruche
        
   空には黒い雲、天気は変わると新聞では言ってるけれど
   雨が降っても わたしの気持ちは変わらない。
   まったく変わらない
  
と、歌っている。


今ではボロボロになりセピア色に変色してしまった楽譜。捨てきれずに未だに持っている。
         
レコードを買い、イタリア語の歌いを耳で覚え、レコード店で楽譜を探し出してビアハウスに持ち込み、アコーディオンのヨシさんに演奏を頼んで歌い始めたこの歌は、ジリオラ・ティンクエッティの声があまり高音でないのが合っており、リズム感もよく、わたしの「リクエストが一番多い歌」になったのである。
                  
「雨」Part 2へ。

下記、音源が古いですが、よかったらティンクエッティの「雨」をどうぞ。

あの頃ビア・ハウス:第6話:「モンテカルロの一夜」

2018-02-05 16:06:07 | あの頃、ビアハウス
2018年2月5日
                  
♪Eine Nacht In Monte-Carlo (モンテカルロの一夜)        
一夜さ モンテカルロ 
しゅろ茂る 葉隠れに
君がかいな取りて 共に歩まん
一夜さ モンテカルロ
星降る空を見 
君が熱きくちづけに酔わん

      
これが、オペレッタ「狂乱のモンテカルロ」の中のヒット曲だと知ったのはずっと後年です。昭和8年製作とありますから、遠当然わたしは、まだまだこの世に生を受けておりません。しかし、これはわが先輩歌姫こと宝木嬢の持ち歌の中でも、わたしが好きな一曲なのです。
      
仮想の王国ポンテネロの巡洋艦長、のんびりと魚つりを楽しんでいるところへ、女王陛下の地中海遊覧の命令が入ります。そんな窮屈なお役はご免とばかりに、艦長はモンテカルロへ向けて出発してしまう。

女王は艦長を懲らしめるべく、先回りして妖艶な仇し女に変装、その女王にまんまと引っかかり、二人は艦長室で一夜を明かすのである。
翌朝、パリッと女王陛下の制服で現れたのを見て艦長は仰天、巡洋艦からざんぶと海中にとびこみ、ハワイに向けて出向する外国船に乗るのだが、女王さまも負けじと命令一下、巡洋艦をハワイに向けて追跡させるのである。

        「世界映画名作全史戦前編」引用

さて、歌姫宝木嬢がこれを歌うと、必ずや曜日常連のI氏とお連れの女性が歌に合わせてステージ前の小さなスペースで、タンゴをちょっとおふざけ気味に披露してくれる。
      
二人の踊る呼吸は実にピッタリ。ベレー帽がトレードマークのI氏は当時70をとうに越していたと思うが、かくしゃくたるものであった。お連れの女性は女医氏と聞いた。
  
思うに、ダンス教室の帰りにビアハウスに立ち寄ってタンゴを遊びがてら披露していたとわたしは推測している。なぜなら、タンゴは上手なはずなのに、片足を挙げたりして多少おふざけが入っていたからだ。

                  
写真は1977年、女性セブン6月16日号に掲載されたアサヒビアハウス。アコーディオンのヨシさんと、マイクを持っているのはわたし。「モンテカルロの一夜」「夜のタンゴ」が歌われると、必ず踊り出す、常連の中でもひときわ目立つカップルでした。I氏ももう故人です。

それぞれ強い個性を持つ 常連が多い、愉快な大人の集いのビアハウスでした。

モンテカルロはカジノとF1レースの国である。 1980年代にわたしは家族と一週間ほど滞在したことがある。ホテルはモナコ王室も利用し、F1レースが催されるときは、部屋のバルコニーから、いながらにして観戦できるというところだ。
      
しかし、それよりもモンテカルロでの忘れられない思い出は、そこで野外に大きなテントを張ったドイツのビアホールがあったことである!もちろんドイツからビアソング楽団が来て演奏しており、わたしは夫を説得して引っ張って行った。
  
バイトとは言え、ビアハウスで歌っていながら本場のビアソングを聴いたことなし見たことなしのわたしだったのである。初めて体験した本場のビアソング楽団!見知らぬ隣席の、どこの国の人とも知れぬ人たちと、アサヒビアハウスで常連たちが興に入るとするのと同じように、テーブルをたたき肩組んで、楽団のビアソングに、そしてビールに酔いしれた夫とわたしの「モンテカルロの一夜」だった。

「モンテカルロの一夜」をお楽しみください。



あの頃ビア・ハウス:第5話:「しゃれこうべと大砲」

2018-02-04 10:45:08 | あの頃、ビアハウス
2018年2月4日        
  
    
♪ 大砲のうえに しゃれこうべが
  うつろな目を開いていた              
  しゃれこうべが ラララ 言うことにゃ 
  おふくろにも 会わずに死んだ

春が来て 夏がすぎても
だれも花をたむけてくれぬ
しゃれこうべが ラララ 言うことにゃ
人の愛も知らずに死んだ
     
なんという歌!と思う人もいることでしょう。この歌はイタリア・パルチザン(革命・戦争などのため、一般民衆によって組織された非正規軍)の歌であるとともに、シシリー民謡とも言われています。
      
題、歌の内容とも、少しどぎつい感じはするけれども、メロディーはいたって明るく、アコーディオンにタンバリンを入れて、さらりと歌い流します。わたしの持ち歌で、この歌のファンがしっかりといたのを、実は最近知らされたのでした。

インターネットの醍醐味のひとつは、私の場合、とあるコミュニティのメンバーと毎晩チャットルームでとぐろを巻いて愉快な話ができることではあったけれど、もうひとつ、ある日偶然に検索にひっかかって、どういうわけか古いなじみにぶつかったりすることです。
これは海外にいて、なかなか人との連絡がとれにくい生活条件のなかでは、とても嬉しいことです。
      
さて、上記の話にもどって、ある日、かつてのアサヒビアハウス常連のコミュニティ掲示板でびっくりするカキコミを目に下のであります。「ん?あれ?そ、そでさん?しゃれこうべと大砲?」と。

アサヒビアハウス梅田でわたしは二通りの愛称で呼ばれていまし。たおじさん連中からは「ゆうこちゃん」、同年代もしくはちょっと敬意を払ってくれる連中からは「そでさん」と。

おじさんたちのガードが固くて、若い男性客がいっぱいいたと言うのに、ビアハウス内での恋愛沙汰とは無縁の時代ではありました。また、この頃はアメリカ移住のための費用を必死で貯めていた時代でもあります。

 
その書き込みを読んでみると、なんと投稿者はその当時独身で「しゃれこうべと大砲」のファンでだったと告白しているのであります。
「アサヒ広しと言えども、そでさんのこの歌を今でも憶えているのはこのわたしだけ!」と、自慢までしていらっしゃる。(笑)
今にしてみると、直接ではないけれど、人を通して時々この歌のリクエストが入ったのを思い出すのでした。

聞けば、わたしが歌っていた1970年代後半の梅新アサヒビアハウスは、現在は「スーパーアサヒドライ梅田」と、ビルが改築されたのを機に変身してしまったけれども、70年代のビアハウスのファンは根強く、ついに彼らは同好会を立ち上げ、このスーパーアサヒドライの一室を占領し、月に1度、第2土曜日には昔と同じように、あのころの雰囲気そのまま、今でも集っているとのこと。
       
みな、歳を重ねてはいるでしょうけれど、このわたし同様、心は今でも「あの頃、ビア・ハウス」のまま^^次に帰国した折には、是非わたしもその同好会とやらに参加したいと、またひとつ夢を持つにいたっているのです。     

今日も読んでいただき、ありがとうございます。