ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ローマ編:ミケランジェロのポルタ・ピア門

2017-11-04 21:22:07 | 旅行
一昨日、「観光は歩くに限る」と言い、夫が悲鳴をあげたリスボン歩きを書きましたが、本日はローマ編「夫、悲鳴をあげる」であります。

ローマ行きの主なる目的はミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の絵を拝見することでしたが、この反骨精神逞しい天才が手がけたもうひとつの作品、あまり知られていないようなのですが、これをこの目でみてみたいと思ったのでした。

それが、地図を見てもパッと分からず、ついにローマを翌朝には発つという前日の夕方、その日も歩き回り、かなりくたびれてホテルのベッドに寝転びながら、「いったいどこに隠れているんや、ポルタ・ピアめ!」と、地図をぼけ~っと眺めておりましたら、おろ?宿泊中のホテルからそんなに遠くない所の観光地図の端っこに、見つけたぞ!

あったあった!この距離なら往復1時間くらいで行けるかも!ホテルから近いよ、行こう!と最後の最後まで諦めきれず、寝転びながら行きたい場所を地図で探していたわたしと違い、歩きくたびれて、もうアカンとでも言うかのように寝そべっている夫、「1時間て、どこが近いねん!君は僕を殺す気かー!」(笑)

同じ寝転がっているのでも、意味がちがいますがな。ほなら、一人でも行ってきます~と最後の切り札で、夫、仕方なく起き上がり付き合うことに相成りました。

地図を頼って歩くこと30分以上、その途中で面白いものを見つけ、小躍りして写真を撮っているわたしを、うらめしげに見ている夫でした。さは言うものの、これは偶然の見つけもので、ほんに得したのでありますが、それは次回紹介です。
さて、件のポルト・ピア門、ホテルを出て後半の道、Via XX Settembre(9月20日通り)をひたすら真っ直ぐ歩いた先についにありました。

 
ミケランジェロ晩年の建築物で、好きでもない教皇ピウス四世の命令で、ローマ市外への入り口に建設された門です。夕日を浴びて少し赤く輝いていました。この門の何が見たかったのかと言うと、門の三箇所に見られる凹みのある円形にかぶさった飾り房が付いた模様なのです。

当時の歴代教皇を始めとするバチカンの腐敗に大いに反発していたミケランジェロは、この模様を入れることで教皇ピウス4世の思い上がった自尊心に強烈な一撃を放ったのです。

実は、教皇の父親は身分の低い瀉血(しゃけつ=治療で一定量の血液を採ること)を行う旅回りの理髪師であったといわれます。奇妙なこのモチーフはなんと、旅回りの理髪師が使う一本のタオルと洗面器だというのです。

教皇は自分の出所の卑しさを公にさらされているとは気づかなかったようで、教皇庁がそれに気づいたのは100年以上も過ぎてからだとのこと。

88歳まで生きたミケランジェロ・ブオナローティの人生は、フィレンツェを出て以来、自分の作品に独得の象徴隠しての腐敗したバチカンとの闘争であったわけです。

ミケランジェロの晩年は、礼拝堂に描かれた最後の審判を始め、その裸体にバチカンからの非難があがり、一時期、修正するか取り壊されるかの脅威にさらされ、憤怒に満ちた晩年でもありました。また、死後も、大芸術家にしてはあまりにも屈辱的な待遇を受けました。

ラファエロが眠るパンテオンにも埋葬されず、辺鄙な低地の暗い建物、サンティ・アポストリ教会に眠らされることになりました。ミケランジェロがローマを嫌いフィレンツェを愛し、そこに埋葬されたいと願っていたのは周知の事実でしたが、屈辱的にも嫌いなローマに埋葬との決定が下されたのでした。

さて、これを聞いたフィレンツェの人々は、泥棒を雇い、ミケランジェロの遺体を盗み出しフィレンツェに運び、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬しました。現在もミケランジェロはそこに眠っているとのこと。ユダヤ教のタルムードやカバラを学び密かに支持していたミケランジェロが眠る教会のファサーダにはユダヤ民族の「ダビデの星こと六ぼう星」が輝いています。

20世紀に入りコンクラーベで新教皇に選ばれたジョン・パウロ2世は、かつて何度か試みて失敗したシスティナ礼拝堂の洗浄と修復を命じ、20年をかけて徹底した復旧作業が行われました。ジョン・パウロ2世は、完成したシスティナ礼拝堂のミサで、ミケランジェロと彼のフレスコ画の名誉回復を宣言しました。そのお陰で、現在わたしたちはシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロが残した秘密のメッセージを見ることができます。

自由思想が迫害され、命の危険があったカトリック教一色の中世の時代に、権力に従わざるを得ない状況のもと、持ち前の反骨精神で自分の作品に魂と精一杯の批判性を盛り込んだミケランジェロの激情は、偉大な建築家画家であったればこそでしょう。

ポルト・ピア門の皮肉を込めたモチーフを見ては、「ほんっと、絶えられないくらい嫌だったんだろうなぁ。」となんだか可笑しくなってしまったわたしでもありました。

機会があれば、いつかフィレンツェを訪れてこの大芸術家に大いなる敬意を表したいと思っています。

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