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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ポルトガルのコーヒー談談議

2018-01-06 22:25:06 | ポルトガルよもやま話
2018年1月6日

今日はポルトのカフェとコーヒーの話です。

カフェ(café)と言えばポルトガルでは「エスプレッソ」である。かつてのポルトガル植民地、ブラジル、アフリカのアンゴラ、モサンビークなどは有数のコーヒー豆の産地であり、現在でもこれらの国から多くのコーヒー豆が輸入されているのだが、ポルトガルのコーヒー文化は意外と知られていない。
同じポルトガルでもリスボンとポルトではエスプレッソの呼び名が違うのが面白い。リスボンではBICA=ビカ、ポルトではsimbalino=スィンバリーノ、もしくは単にカフェと注文する。

ポルトのsimbalinoはイタリアのエスプレッソを作るコーヒーマシーンのメーカー名、「La Cimbali」から来る。また、リスボンのBICAもエスプレッソを作る機械の蛇口を言う。
   
しかし、BICAには面白い説がある。昔、リスボンの街のダウンタウンにあるカフェで、エスプレッソが出始めたころ、その苦さに慣れていなかった客は、これまで親しんできたコーヒーの味と違うため、文句を言い出した。

そこで店主は言った。
Beba isso com açucar!=砂糖をいれて飲め!」。
(ベバ イッソ コン アスーカル)

言葉の頭文字をとってBICA以後、ビカと呼ばれるようになったと言うホンマかいなと思われる冗談のような説ではある。


上の写真にあるようにエスプレッソは普通カップ半分くらいで出される。なみなみと欲しい場合は、「café cheio(=カフェ・シェイウ=カップいっぱい)」と頼めばいい。値段は同じである。

ポルトガルのカフェはエスプレッソだけではない。 例をあげると次のようなものがある。

↓Pingo(ピンゴ。ポルトを含む北部での呼び名) ミルクが少し入った甘いコーヒー。


リスボンではPingoをGaroto(ガロート)と呼ぶ。garotoはポルトガル語で小僧、子どもの意味で、強いエスプレッソを飲むのにまだ時期尚早であるからして、小僧はこれを飲んどけ、というのでできたらしい。デミタスカップで出される。

Meia de Leite(メイア・デ・レイテ。半分ミルクの意味) コーヒーとミルクの比率が同じ。カップはエスプレッソのより大き目↓


Galão(ガラォン)

 
↑エスプレッソとあわ立てたミルクで作られる。ミルクの割合が多い。量も多く通常はガラスコップで出される。熱いので写真のように取っ手が付いてくるが、そうでない場合もある。

これがポルトガルのコーヒー類の主な種類だが、ポルトガルでは一般家庭でも食後のコーヒーはエスプレッソを飲んだりする。わざわざカフェまで出かけないで、エスプレッソマシーンを買い、ネスプレッソカプセルで楽しむ人も多い。


しょっちゅう使うわけではないが、我が家のエスプレッソ・マシーン。下は気に入っているデミタスカップ。


また、下のようなクラシックなコーヒー沸かし器もよく使われる。モカエキスプレスと言うのだそうだ。


上下二つの部分に分かれている。下には水が入り、中央部には挽いたコーヒーの粉を入れる金属製の小さな穴がたくさん開いたフィルターがついている。このまま火にかけると、沸騰したお湯が下から上に上り、上部にコーヒーが溜まる。我が東京息子はこれをポルトからもって行った。

こんなおしゃれなコーヒーマシンもある。


余談だが、コーヒーの呼び名からもお分かりかと思うが、リスボンとポルトで呼び名が違うものは他にもいくつかある。生ビールもそのひとつ。

ポルトではCerveja pressão=セヴェージャ・プレサォン(presãoは圧縮の意)、あるいはfino=フィーノ(細い、上品な、の意味がある)、リスボンではimperial=インペリアル(ビール工場の名前)と注文する。

こうしたことから、ポルトとリスボンはなにかとライバル意識がちらつくのが面白い。

本日はこれにて。



ポルトガルのコネ社会

2018-01-01 22:12:19 | ポルトガルよもやま話
2018年1月1日

新年 明けましておめでとうございます。
本年度も拙ブログにお付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。


今日は、昨年9月まで30年間ほど狭い我が家を掃除に来てくれたお手伝いさんの話です。

週に2度、解雇したくも解雇できず、ずるずる去年まで午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んできたDona Belmiraが(ドナ・ベルミーラ)おりました。倹約のために、もう来ていただかなくてもいいかな?と思ったりすることもあったのですが、長年通って来てもらうと家族の一員みたいなもので解雇などとても出来なくなっていました。息子の小さい頃から、娘の場合はわたしのお腹の中にいた時から知っているのです。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Spacesis」と言う具合です。奥さんということでしょうか。

さて、そのベルミーラおばさん、ある日我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくし始めました。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。それ用のクリニックがあり、そこで採血してもらって後日検査結果を受け取けりに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

彼女が何に立腹していたかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのを待っていたのだそうです。

段々44番に近くなり42番が呼ばれた。いよいよ自分の番だと思いきや42番から43番、44番をスッ飛んで50番と54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。

実を言えばこういうことはよくあるのです。
看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に例えば知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッと間にいれるのでして、言うなればコネですね(笑)

しかし、ベルミーラおばさん、黙っておりませんです。なんでよ。なんで43の次が50になるの!と、早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶったそうな。

「ちょ、ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?」
「この番号札、順番でしょ?」 「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるんだぃ?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で習った。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはギャッハハと大笑いしてしまった。ベルミーラおばさんは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず仕方なく43、44と呼びなおした。しかし、Dona Yuko,その後がいけまへん。

「見てくださいよ、これ」と採血の痕がついてる腕をつきだして、「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」  見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が確かにある。

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりません。 えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、ベルミーラおばさんがプリプリ怒っているに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおられないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、夫の同業の医者や看護婦から、わたしも時々夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが残念ながら・・・ある。そのようなことを自ら頼みはしないが、夫を知っている人たちは知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。

そう思ったら、「あっはははは」とひとしきり笑った後で気がひけてしまいましたっけ・・・
いやぁ、わたしもエラそうなことは言えませんて。

ベルミーラおばさんが我が家を去って後、今は週に一度、新しいお手伝いさんが通って来ていますが、こんな楽しい話が聞けたりするようないい関係になるといいなと、楽しみにしているわたしです。

When children were small

2017-12-25 22:33:05 | ポルトガルよもやま話
2017年12月25日


 
4匹ネコのうちの一匹ゴローとクリスマス・ツリー

♪When I was small and Christmas trees were tall,
 we used to love while others used to play,
 Don't ask me why, but time has passed us by,
 someone else moved in from far away.
 Now we are tall, and Christmas trees are small....

ビージーズ、「First of May」の出だしです。邦題は「若葉のころ」だそうで、子供の頃の切ない思い出をクリスマスと5月の若葉の頃に寄せて、とても美しいメロディーで歌いあげています。

時節柄、クリスマスにまつわる思い出話をひとつ、そうです、クリスマスツリーが我が息子より大きかった頃の話です。

息子が生まれて6歳までの6年間を、わたしたちは夫の母親、そして彼の母親の姉(夫の叔母)と共に小さな家に住んでいた。

その頃は、クリスマスともなると毎年生木の杉を買って来て、傾かないようにと色々苦心し大きな鉢に立てては飾りつけ、リビングに置いたものだ。12月も半ばころになると、クリスマスツリーの下は溢れるような大小様々の贈りものでいっぱいになる。実は贈り物は大きいものがいいとは限らないのである(笑)

きれいにラッピングされた贈り物はそれぞれ誰から誰に、と名前が書かれてある。       

この頃は後に10数年寝たきりになる義母もまだまだ元気だった。我が夫の母親は9人兄弟で、田舎に住む者もいれば、ポルトに住む者もいる。普段から人が良く、何か頼まれるとイヤとは言えない性分
の人柄だということと、夫の病院勤めを頼ってやってくるのとで、私達が同居していた小さな家は、常に客がいると言うような状態であった。

こういう人たちが、この時期になると、多くは、彼らからすれば、東洋系の顔を持ったちょっと不思議な魅力の我が息子に、とプレゼントを携えてくるのである。
クリスマスツリーの下に置かれたプレゼントには、日本のわたしの母や妹からや、アメリカに定住してしまった我が弟分のMoriからの物も毎年欠かさずあった。家族もお互い思い思いのプレゼントを買い集め、少しずつそれをツリーの下に置いていくのである。

それらの贈りものを開くことができるのは、24日クリスマスイブの晩御飯が済んだ後でなければならない。待ち切れそうになく、今にも包装紙を破って開けてしまいそうな息子を諭すのは、容易なことではなかったが、毎日ツリーの下に増えていく贈り物の数を数えてはじっと我慢して24日の夜まで待つのだ。
     
さて、クリスマスツリーの枝には、ヘタクソな字で 「To Father Christmas」と宛名書きのある、白い封筒に入った一通の手紙が乗せられてある。
それは息子が覚えたての言葉と文字で、Father Christmas(つまりサンタ・クロース。英国式ではこうなる)にあてて、自分が欲しいものを願う手紙なのであった。

Dear Father Christmas,
ボクは、今からママやパパの言うことをよく聞いて
良い子になります。
だから、ぼくに次のプレゼントを置いて行ってください。
(以下欲しい物のリストがずら~っと続く)
                      ジュアンより            
         
ザッと内容は毎年こんな具合でした。(笑) 本当に自分が欲しい贈りものは、こうしてFather Christmasに頼むのである。Fathehr Christmasはこのリストの全部を置いて行くわけではない。このリストの中から、ふさわしいと思われるものが選ばれて、24日の真夜中、子供が寝静まっている間に、ツリーの下に置いていく。

そんな訳で24日の夕食後には、たくさんのプレゼントを開けるわけですが、一番欲しい贈りものは夜中にFathehr Christmas が置いて行くので25日の朝にしか開けることはできない。

なんとかがんばって、Father Christmasがやって来るのを待とうとするのだが、幼い子にはせいぜい12時までが限度で、やがてコックリコックリ船を漕ぐ^^

さて、息子が6歳の時のクリスマス。毎年25日の朝一番に目覚めるのは彼です。
起きてまっすぐクリスマスツリーの下へ行き、目を見張って口をOの字型に開け、驚きと喜びにあふれた表情で、そこに置かれてあるデカいプレゼントに最初に飛びつき、包装紙を引きちぎる。 
ひとつひとつ開けるごとに興奮また興奮である。
       
その年は、ことの外嬉しかったのであろう。この贈りものがたまらなかったようだ。

翌日26日の朝のことである。
ガバと起きて部屋を出、まっすぐ再び、クリスマスツリーのある部屋へ突進したのには驚いた(笑)
もはや何物も置かれていないツリーの下を見ては、ひどくガッカリした面持ちでスゴスゴと再び自室に引っ込んだのだ。息子のその姿を見てわたしたち家族は大笑い。

息子よ。毎日がクリスマスだったら、いったいどうなるだろう。Father Christmas、いくら働いても間に合わないぞ。それに、1年に一度だけ、じっと我慢して待つことこそが、大きな喜びを育むことになるのだ。

その息子も今では30歳を超えた。母親のわたしより新しい大きなクリスマス・ツリーも、彼から見れば多少低いだろうか。あの頃の親戚や知り合いの顔ぶれも、随分いなくなってしまった。「オ・ジュアンズィーニュ!」(ジュアンちゃんの意)と息子を絶え間なく呼んでは可愛がっていた義母も寝たきりで94歳でみまかった。

エヴァーグリーンのクリスマスツリーの下で、月日は移り変わり、人も変わった。

♪When I was small, and Christmas trees were tall,
 do do do do do do do do do...

クリスマスツリーがぼくより大きかった頃~♪

下記、Youtubeからです。



クリスマス・キャロル

2017-12-23 22:04:27 | ポルトガルよもやま話
2017年12月22日

「クリスマス」をポルトガル語では「Natal」と言うのだが、昔はこの時期になると、各テレビ局はクリスマスに因んだ、じぃ~んと胸に響くような物語の放映でにぎわったものです。

旧約新約聖書に基づくものはもちろんのこと、「ニューヨーク東8番街の奇跡」(原題:Battery is not included)「34丁目の奇跡(原題:Miracle on the 34th street)」「Sleepless in Seatle」 などなど、クリスマスの時期をとりあげたドラマは、枚挙にいとまがないのだが、何度見てもその都度感動を新たにするものもいくつかあります。同じクリスマス物語でも、子供たちと一緒に楽しめるヒューマンラブストーリーの方にわたしはより惹かれます。

映画だけではなく、クリスマスに関した本もたくさんある中で、この時期のわたしの愛読書と言えば、O.ヘンリーの「賢者の贈りもの」とチャールズ・ディケンズの「クリスマスキャロル」です。

「賢者の贈りもの」
ニューヨークに住む貧しい若い夫婦がお互いのクリスマスの贈り物を買うだけの余裕もなく、毎日の生活に追われて暮らしているのだが、いよいよクリスマスが近づいてきたところで、夫は自分の父親から譲り受けて、今では鎖がなくなってしまった金の懐中時計を質屋に売り、妻の美しい髪をひきたてるであろう髪飾りを買う。

妻は、夫が人前で恥ずかしげに、鎖のついていない懐中金時計を覗き込んで時間を見ているのを知っていて、自分の素晴らしい金髪を、かつら屋へ行ってバッサリ切って売ってしまうのである。(昔は女性は髪を長くしておくものであった)そして、そのお金で、夫のために金時計用の金の鎖を買う。

そうして貧しいクリスマスイブの食卓を囲み、二人は贈りものを交換するのだが、妻が贈った鎖につなぐべき夫の懐中時計はなく、夫が妻の美しい髪にと贈った髪飾りのつけるべき長い髪がなかったのである。

O.ヘンリーは最後にこう結んでいる。「この二人こそ、世界中の誰よりも、クリスマスの贈りものの真の意味を知っている」と。「賢者の贈りもの」の「賢者」とは、イエス・キリスト生誕の時、それを祝って空に輝く大きな星を道しるべに、東方からはるばる旅して贈りものを届けに馬小屋にたどり着いた三人の東方からの王のことである。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、初めてその本を手にした時から40年近くを経た今でも変わらずわたしの愛読書のトップ。 「人は変われる、遅すぎることはない」という教訓を思い起こさせます。 


           
エベネゼール・スクルージは、金持ちでありながら大変なケチで有名である。事業の共同経営者兼、世界で唯一の友であったマーレーが亡くなってからと言うもの、益々吝嗇(りんしょく)に、偏屈に、そして人間嫌いになる。「クリスマス?ヘッ!」なのである。

クリスマスの時期に慈善院や教会から寄付のお願いがあってもビタ一文たりとも出さない。長年雇用している事務職員ことボブには、最低賃金しか払わず、冬の事務所を暖める燃料の使用量さえケチって、使わせる量は微々たるもの。ボブは厳寒の中、凍えそうな両手を擦り合わせて事務を執るのである。

ボブには、足の病気を持つ幼い子供ティムがいるのだが、スクルージがくれる安月給では、ティムの手術もしてやれない。

そんなスクルージの前にある夜、過去、現在、未来の3人のクリスマスの精霊が姿を現し、スクルージに過去、現在、未来の三つのクリスマスを見せてくれるのである。

貧しかったが幸せだった子供のころのクリスマス、薄給であるにも拘わらず、文句を言わず心優しいボブ一家の貧しい食卓とティム坊やの現在のクリスマス、自分の葬式だと言うのに町の誰一人として出席者のいない未来のクリスマス。

年老いたスクルージは、生まれて初めて自分の生き方を激しく後悔するのである。
そして目覚めた彼は・・・・
              
という話なのですが、写真はわたしが1973年11月9日に大阪で買った英語版の「クリスマス・キャロル」の表紙。もう色も黄ばんでボロボロになっています。クリスマスの精霊と寝巻き姿のスクルージです。わたしは、この絵のスクルージに何故かとても惹かれるのです^^

幼い頃、若い頃の貧困から抜け出すために、守銭奴になったのでしょうが、根っからの守銭奴ではなく、本来は人恋しいという人間性がこの絵の表情に表れているような気がしてなりません。
 
近年クリスマス番組もすっかり変わってしまいました。このような物語は心が洗われる気がするわたしですが、お涙ちょうだいものは、今の世では受けないでしょうか。 賑やかなコメディものもいいのだけれど、古くからの真のクリスマス精神をこういう時期にこそ紹介してくれ、引き継いで行けたらたらいいのにな、と、クリスチャンでもないわたしですが、思います。

メリー・クリスマス!
神を信じる者も信じない者も、今日のこの日祝福がありますように。

ポルトガルのお歳暮&アフォンソとマチルダ

2017-12-07 08:33:38 | ポルトガルよもやま話
2017年12月7日
 
お歳暮という意味合いの言葉こそポルトガルにはありませんが、12月の贈答はそれに相当すると思います。
  
日本と比べて違うところは、職場の上司や仕事関係のお得意先へという義理がらみの付け届けはほとんどないという点でしょうか。また、わたしたち日本人は早く義理を果たしてしまいたいとでも言うように、お返しは早々に果たしてしまおうとします。ポルトガルでは一年を振り返ってみてお世話になったと思われる人に、クリスマスの贈り物を届け感謝の気持ちを表すのです。

どういうものが贈られるのか、ちょっと興味があるところでしょう。
ワイン、ウイスキー等は日本と変わりませんね。ポルト・ワインやウイスキーは高価なものを贈りますから、たいてい一本ですが、Vinho Verde等のテーブルワインとなると、ドバッと10本から20本が届けられます。これなどは日本で言うビールを贈る感覚でしょう。
そう言えば、こちらではビールがこういうお届けものに使われることはまずもってないのが面白いです。



また、この時期にはデパートや大手のスーパーではクリスマス贈答品コーナーが備えられ、ワインを始め、チーズ、生ハム、缶詰などが入ったcabaz(カバス=果物等をいれるカゴ)がたくさん並びます。

その他、贈り物として室内の飾り物、クリスタルのデキャンタ、銀製品、そして不景気な今からは考えられませんが、たまに金の装飾品などもありました。これらはかなり高価なものになりますから、受け取る方も多少躊躇します。銀製品の菓子皿、ぼんぼん入れ、燭台などは3、4万円はくだりません。

食べ物としては、「バカリャオ=bacalhau」と呼ばれる大きな鱈を開いて干したものを贈り物に。これは、肉類を食さないクリスマス・イブと、そして大晦日にポルトガルの習慣として他の野菜と茹で上げて食します。また、豚の足一本からなる生ハム、これも贈答用に使われます。

とまぁ、本題「アフォンソとマチルダ」の前置きが大部長くなってしまいましたが、色々な頂き物の中には「こりゃ困った」と言う物も多々ありました。

さて、これはわたし達一家が現在の我が家、フラットに引っ越す前の古い小さな庭つきの家に住んでいた時の出来事で、子供たちが小学生だった頃のこと。
夫の仕事柄、この時期にはお届け物が参ります。12月のある日のこと、田舎の方と思し召すセニョールが玄関の前に立ちました。
「だんな様に大変お世話になった。どうぞこれを。」と言って大きなのダンボール箱を置いていきました。
「あらら、なんでしょ」と、中身が生ものであっては後で困りますので箱を開けてびっくり、玉手箱!ナマモノもナマモノ、生きた二本足を紐でくくられた二羽のトリではないですか!一羽は真っ赤なトサカを冠しており、もう一羽は見事な七面鳥です。12月は七面鳥の季節でもありますものね。
しかし、これ、どうするのよ?自分・・・
よく見ると可哀相に、この2羽、足をくくられたままでとても辛そうです。で、いやだったんですが、恐る恐る両手を差し伸べて抱きあげようと両手を出しましたら、騒ぐこと騒ぐこと、そのけたたましさといったらありません。
こちらの方がビビッてしまいましたが、思い切って抱き上げました。その柔らかい体を通して体温が伝わってきます。

庭には昔の鳥小屋がそのままほったらかしでありましたから、庭まで運び、くくっていた紐をほどき、二羽を庭に放して見ました。子供達が帰宅して、特に動物好きの娘は大喜びです。早速にこの二羽に牡雌も分からないと言うのに「アフォンソ」「マチルダ」と名づけました。アフォンソとはポルトガル王の名前ですから、ひどい話ではあります(笑)

夕方になると、今度は庭中追い掛け回して二羽をひッ捕まえ、一時しのぎの鳥小屋に入れるのですが、これがまた一仕事です。あちらは必死で逃げ回るし、こちらはこわごわ追いかけ回すわけです。庭には好きなバラをたくさん植えてましたし、大きなあじさいの木もありましたから、それらの陰に入ると捕まえるのにこちらは手や腕が傷だらけです。

こういう悪戦苦闘の数日が続いたのですが、クリスマスがいよいよ近づいてくると、さて、ここで問題が持ち上がりました。こうして名前までつけてしまうと、とてもとても潰して食卓に載せることなどできましょうか・・・
名前はつけるべきではなかったのです。娘など、よもやそういうことには考えが及ばないでしょう。夫もわたしも、つぶせるわけはなし。

しかし、このまま庭で飼っておくというわけにもいかないのです。なにしろ、我が家には犬のポピー、そして数匹の猫たちもいるのです。このまま飼って行くと、アフォンソとマチルダを守るために四苦八苦、そのせいで毎日クタクタになるのが目に見えています。

一日一日と延ばし延ばしになり、ついに決心を迫られる日が来ました。我が家で始末するわけには参りません。ネコや犬たちが騒々しさや血の匂いできっと怖気づいてしまうに違いありません。こ裏に大きな畑を持つジョアキンおじさんの飼っているブタが、悲鳴を上げて鳴くことがままあるのですが、わたしには何が起ころうとしているのか想像できます。そのときの我が家の犬猫たちは「なにごと?!」とでも言うかのようにみな揃ってあっちへすっ飛びこっちへすっ飛び。その不安な様といったらありません。

子供達に、「これはアフォンソとマチルダです、頂きましょう」と言えるくらいの気概が哀しいかな、わたしには当時ありませんでした。

結局、週に2度、我が家の掃除にくるお手伝いのドナ・ベルミーラに2羽とも上げました。不意に手に入った素晴らしいご馳走です。嬉々として2羽を抱えて帰って行ったお手伝いさんの後姿を見ながら、わたしはちょっと複雑な思いでした。こんな気持ちになるのなら、肉類はもう口にしなくてもいいや、なんて偽善的な思いが頭を横切ったものです。

生きる、ということは、そのために生かされてる命があるのだ、ということに思いを馳せる出来事でありました。子供達には、一言「お手伝いさんにあげましたよ。」それで十分伝わったでしょうか。

モイケル娘の複雑な表情を打ち消すかのように、わたしはクリスマス・ソングのCDをボリュームアップでかけたのでした。

ごめんよ、もいちゃん、そしてアフォンソとマチルダに合掌。