みんながいつも笑顔でありますように

私と家族と脳腫瘍G4の姉と

只今、2009年2月11日 5ヶ月目

2009-02-11 | はじめに
姉は現在退院して週1回の通院生活をしております。
簡単ではありますが、これからも手術から入院生活について書き記していきたいと思っています。
本当は現在の姉の元気な様子を早く書きたいんですが
それまでにどんな治療をしてきたか、という過程が大切かなと思い
過去の日記帳を手繰って綴っています。
しかし、しかし・・・
「脳腫瘍」というのは人それぞれ出る症状が違うんだな、と痛感しています。
今の姉は元気にしてはいますが
この病を抱えていらっしゃるどの方の症状にも当てはまらない様な感じで
ちょっぴり不安になる事もあります。
でも取合えず、病気と闘っているけど、元気にしています。

こうして書いていくと、、、
私自身精神的に不安定だった日が続き、プチ鬱症状だったのかな?と思う日もあったのですが
段々と落ち着いてくるのが分かります。
友人に進められて書くようにして良かった
いつまで続けられるか分かりませんが

こうして自分の内面に向かって整理することも大切なのかな、と
生きている喜び、健康の喜びを噛み締めている今日この頃です。

猪木さんのあの言葉、名言ですね。
「元気ですかー 元気があれば何でもできる
本当にすばらしい言葉だ すごい!
単純明快 その通り 

9月24日 (水) 帰国準備

2009-02-11 | つぶやき
午後7時、連絡受けてから
何をしたら良いやら、、、
もう午後7時と言えば、オーストラリアはお店全部閉まってるし
航空チケットは明日にならなければ取れないのか、と私が泣き喚いていると
夫さんが自分の勤めている会社の支店長に電話をしてくれた。

ちんっ!
「取れたよ、明日の成田行きのチケット!早く支度しよう!」
ブリスベン→成田は1日1便 早朝出発
だからまさか前日の午後8時近くに取れるとは思わなかった。
夫さんが旅行関係の会社に勤めていてくれたおかげ・・・ありがとう

私が朝からの理ちゃん実況中継により
何も食べていなかったので中華のテイクアウトを夫さんが買ってきてくれたけど、
一口、二口でもう食べる事が出来なかった。
何を持って帰ればいいか分からず、
でも緊急を要する事態で、空港からタクシーでそのまま病院に行くだろうから
ガラガラと大きなスーツケース持って行くわけにもいかん、と
手荷物にできる小さなカバンに
2、3枚の下着とちょっとした着替えを入れて準備した

「さあ、もう寝るんだ!明日は4時起きだよ 体力つけないと」
と促されたけど、眠れない。

その日は一晩中PCの前で「神経膠芽腫」について調べ
・・・・絶望的な事しか書いていない事に恐ろしさで震え、泣き
それから・・・
頑張ってこの病と闘っている人達のブログに出会いました。
自分を励まして「大丈夫だ」「大丈夫だ」と言い聞かせずーっと読んでました。
それで夜を明かしました。
本当にありがとうございました。本当に救われたんです。

夫さんは私の事を心配して起きていてくれようとしたのですが、
次の日は私を空港に送るのに往復3時間の運転だし、仕事があるし、
だから寝てもらいました。
そしたら、その間・・・愛犬のビーは私の傍らにいてくれました。
信じられないけど、犬ってこういう人間の心理が分かるんでしょうか。
いつもは布団に包まって出てこないのに。
小さいけど頼りになるなぁー
そう言えば、外国で一人で寂しい時、いつも傍に居てくれたね
ありがとう

      

9月24日(水) 午後7時 宣告

2009-02-11 | 発病までのこと
電話があったのは午後7時の事でした。
それまでに私の夫さんも帰って来てて二人で電話を待ってました。

その電話の内容は私が数時間の間に調べていた「良性」という内容とは全く違うものでした。
震えてしまいました。
普段の生活の中で、こうしてドラマのように震えて話を聞く事があるんだ、と今では思います。

・神経膠芽腫という病気であろう事
・かなり悪性と考えられる事
・搬送が遅れていたら今晩にも逝ってしまっていたかもしれない事
・妹さんをすぐに呼んでくださいと言われた事
・手術を緊急にするが、無事終わっても余命は1年であろう事

母とばあちゃんは既にお医者さんに告知を受けて、
雷に打たれた様なショックを受け、さんざん泣き、ヨロヨロとタクシーで家に帰ってきたが、
電話では私に気丈に
「大丈夫だから、大丈夫だから、落ち着きなさい」
と普通は娘の私が母に掛ける言葉を、母は私に言っていました。

振り返れば・・・
あの時は泣いているよりやらなければならない事、考えなければならない事もたくさんあったし
だから母は気丈に振舞う事ができたんだろうな、と思います。

9月24日(水) 午後3時・精神科?!

2009-02-11 | 発病までのこと
なかなかオーストラリアには、外出していると国際電話が掛けられず
しかし、メールでは逐一知らせてくれた母。
私も24日のその日は日本で起きている出来事をメールで追いかけ、返信し
パソコンから離れられず、午後3時。

その時のメールを今出してみると
「適応障害」についてとか、ひたすら「精神的なもの」について言及し、励ましてた・・・・

搬送先の病院からもわざわざ外に出て私までメールをくれてました。
 (後に母曰く、何かしてないと不安だったんだよね、との事)

搬送先の病院より
第一報・・・「精神科のベッドが来週の29日月曜日に1つ空くから
             取合えず、家で待機して下さいって言われてる」

  ええええぇぇぇ 
  しかし母頑張る 「せめて脳のレントゲンをぉぉぉ

第二報・・・「脳腫瘍だった! あとで連絡する」


それから数時間、私は能天気に晴れているオーストラリアの空の下、一人悶々と不安に過ごしました。

その数時間、ネットで沢山の事を調べ、色々な方々の闘病記ブログに出会い、してました。
「脳腫瘍」と一言で言っても良性のものもかなり多いとあったから、私は勝手に「良性だ」と思ってました。
私は普段マイナス思考気味なのに、なぜかその日は「良性だ」と信じて疑わなかったんです。

母もばあちゃんも理ちゃんの検査につきっきりでいたから
のちに電話が掛かってきたのは夜の7時頃でした。

9月24日(水) お昼・とうとう救急車

2009-02-11 | 発病までのこと
気丈な母は、大学病院の受付で押し問答していても、うちの娘が~
「もうラチがあかん!!救急車で運んでしまえ!」
と、車に理ちゃんとばあちゃんを押し込み家に取って返し急いで119番

こんな事で救急車を呼ばなくても、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが
それ程、切迫した状況だったみたいです。
近くに居る人間しか分からないんだと思います。

案の定、救急隊員の隊長らしき方は理ちゃんを見て、
「何で救急車を呼んだんだ」的な事を言ったそうな
家の前で救急車が止まる事、1時間
「受け入れ先がない」と危うく拒否されそうになった
  
しかし気丈な母は「絶対にうちの娘は何かおかしいんだ」と訴え続け
ようやく家から30分ほどのN・N病院に担ぎ込まれました。

数日間、我が娘を見守って来て、H内科から大丈夫と言われてもタダならぬ状況に
  「もう限界」という心境だった、と当時を振り返って言っていました。
  気丈な母ではありますが、本当に不安だったんだな、と。
  電話で私には冗談を言ったり、理ちゃんの事を
  「まーったく世話ばっかり掛ける娘だよ。ブツブツブツ」なんて言ってたけど。。

隊長の「受け入れ先がない」という言葉に耳を貸さず、
  「必死に受け入れ先を探してくれた若いあんちゃん隊員さんの顔が忘れられない」と
  今でも言ってます。
  この若隊員さんはモノマネタレントの原口あきまさ似だったらしいです。
  彼をテレビで見る度、「ありがとう」とつぶやいている私・・・。(関係ないか
 
  こーんな一生懸命な隊員さんもいらっしゃるんですねっ
  

9月24日(水) 朝一・大学病院

2009-02-11 | 発病までのこと
とうとう大学病院受診の日が来ました
この連休中はヒヤヒヤしていたけど、やっとこさ、大きな病院
それだけで 「ああ、もう大丈夫」なんて気持ちにもなってました。
 大きい病院に行けば何もかも解決する、これが当時の私の考え・・・
私はその日は仕事が休みで何か連絡があってもいい様に一日中家に居ました。

その日に決めていた事

たとえ、精神科で異常がない、と言われても脳外科も行ってみる事
    そして脳のレントゲンは調べてもらう事

これは事前に話し合ってました。

しかし・・・・

まずは家から一番近いT大学付属病院へ紹介状を持参
 「予約がないので精神科と脳外科は受診できません」と門前払い
       
  

この日は母は祖母にも付いてきてもらって病院へ行き
姉は一人で歩くのが辛そうだから車椅子に乗っていたんだけど、
それでも受診を拒否されてしまった・・・・
どうなってるんだ 一体
紹介状はあっても予約がないと駄目 H内科は何も言ってなかったぞ

確かに大学病院はたくさんの困った患者さんで溢れているけれど
ここまでとは・・・と現実を見た午前中

9月20日(土)・21日(日) 刻々と変化する症状

2009-02-11 | 発病までのこと
これまで我々は「精神面の問題」だと思っていたし、
しばらく食べなくても水だけで大丈夫、というお医者さんからの言葉もあり
土曜、日曜は静かに寝かせて置こう、という事になりました。


でも、一緒に生活している者にとってみたら
やっぱり「ただ事ではない何かが起きている」というのは感じるのでしょう。
母は何度も私に電話してきました。

そこで私が調べた時に初めて「脳腫瘍」という病名が挙がったんです。
今までの姉の症状を細かくインターネットで調べたんです。
それを母と話したのもこの時期だったと思います。

ただ、理ちゃんの場合
痙攣発作がない
頭痛はあるけど、激痛ではなく、じんわり
嘔吐も木曜日の1回限り(→しかも”やる気を出す薬”の副作用と言われていた)

その頃、母がテレビでちょうど、脳の病気についての特集番組も見ていて
やっぱり理ちゃんの症状があてはまらなかったんです。
だから 
「脳腫瘍ではないよねぇ・・・。でも分からないね」
という話になっていました。

もう一つ私が調べた中では
「パーキンソン病」もしくは「適応障害」という病名も挙がりました。

結局、私たちは「適応障害」ではないか?という素人判断を下し
休みが終わるのを待ち、もっと大きな病院に行こう、と決めました。

「適応障害だったらしばらく休養してストレス因子を取り除いてあげれば早い人だと半年で元気になるんだって!」
「また仕事も出来るよ
なんて言っていたのを覚えています。

そして母は22日(月)にH内科に行って大学病院の紹介状をもらって来る事になったのです。

23日(火)は秋分の日でどこも休みです。。。。
本当だったら22日(月)には行きたい所でしたが、紹介状がないと駄目と言う事で
「とにかく24日(水)には解決するよ
と遠いオーストラリアから励ましました

でも母はどんなにか不安だったでしょうか。
何度も救急車を呼ぼうと思ったらしいですが、その度に理ちゃんが止めたそうです。
私も「日本へ帰るよ」と言っても
「とにかく病気が分かるまでは、このままで。大した事ないかもしれないんだから」
そんな風に会話して長い秋の連休は過ぎて行きました・・・・。

9月19日 (金) 心療内科へ

2009-02-11 | 発病までのこと
朝一番で市立S病院へ行きました。
「心療内科」に診察券を出して待ちました。
そんなに長い事掛からず、順番が回ってきて受診。

お医者さんが今までの事を細かく聞いてきたそうです。
  病状はもちろん、理ちゃんの経歴も。
それによって多分、どんな精神的ダメージを受けたか、という事を知ろうとしているんだろうけど。。。

それに姉はちょっとだるそうにではありますが答えていたそうです。
ただ、質問した内容とは違う事も何度か答えたりもしたそうですが、
お医者さんは大して問題にしなかったみたいです。
  それって問題じゃないのかな・・・

診断結果;急を要するものではありません。少し様子を見ましょう
         次回11月5日にもう一度きて下さい。
         それでも心配なら精神科クリニックを紹介します。


頭痛を訴えても、昨晩吐いた、と言っても、ずっと寝たきり、と伝えても専門外のお医者さんには分からないものなんですか

自分自身で「自分はこういう状態だから○○科に行かなくちゃ!」
と明白な判断力が必要なんですかね。。
素人には難しいです 


9月18日 (木) 2日間寝たきりに

2009-02-11 | 発病までのこと
特大のから揚げ定食を平らげた(火)から、この日まで水分しか摂っていなかったので
母は無理やり、おじやを食べさせました。

体の大きな理ちゃんはお医者さんから
「これだけの体をしてるから、1週間水でも死にやしないよ。
 だから食べたくない、と言ってるなら放って置いても大丈夫だから」
と言われていました。
でも毎日一緒に生活している母親からしたら、そんな娘を放って置けるはずがありません
夜に無理やり食べさせたんです。
そしたら、食べた間もなくトイレへ駆け込む理ちゃん。
食べた物をすぐ噴水のように吐いてしまったそうです。

毎日毎日、母とで話はしていました。
さすがに私もアメリカ旅行をキャンセルした事や、吐いた事で
「そこまで辛いのか」と現状を把握するようになりました。

ただ、そこでの勘違いは誰しもみんな、お医者さんも母もKさんも私も
「精神的なもの」
と他の病を疑っていなかったことでした。
離婚のストレス、激務、環境の変化、等いろいろな事が半年で起きたからな・・・。

で、次の日、朝一番で必ずH内科より大きな市立病院の「心療内科」へ行く、という事に決めて
みんなそれぞれ夜が明けるのを待ったのでした・・・。

9月17日(水) 突然のキャンセル

2009-02-11 | 発病までのこと
びっくりしました。
母から この頃は電話がなると「何かあったか」と思うようになったかも。
「友達のKさんから今お母さんとこに電話があって、
 ≪理ちゃんから ”ごめん、行けない”とメールが入りました、
 でもKさんは今仕事中でキャンセルに行けないから、お母さん代わりにやってくれないか≫って」

本当にびっくりしました。
母は”スイミング”に燃えており、大会にも参加してます。で1日の大半はスポーツクラブに行っているので、
母もびっくりして急いで家に帰ると、
「ここら辺が痛い」とおでこ辺りを人差し指でグルグルと指し、
「救急車呼ぶか?」と母が聞くと
「やだぁー、大丈夫だよ~、薬も飲んでるし、、ただアメリカはKちゃんに迷惑掛けるから・・・・」
と言ってたそうです。

その日も頭痛と共に気持ち悪いと言っていたのですが、吐くまではいってませんでした。