みんながいつも笑顔でありますように

私と家族と脳腫瘍G4の姉と

結局、再発なし? もし あの時、ああしてれば・・・ たら ればの世界

2014-06-11 | 旅立ち

この神経膠芽腫は手術しても再発率と浸潤性が高くて

いくら手術して放射線治療をしても

抗がん剤を服用しても

イタチごっこで 追いつかなくて・・・

と言う事で

姉も2008年9月に手術して

新しい年を迎える事は難しいと言われ、

新しい年を迎えたら今度はあと1年ですと言われ・・・

命の宣告は数カ月刻みだった

 

でも姉は

5年と10カ月

生き抜きました。

そして、再発らしき再発 というのはなかったのです。

 

姉は 「肺炎」 で眠るように息を引き取りました。

肺炎は今年に入ってからずっと患っていて

2月から入院をしていたのだけれど

良くなったりまた高熱が出たりの繰り返し

 

だから「肺炎」だけれど「衰弱」だと思う。

入院した2月から一切食べ物を受け付けなくなり

みるみる痩せて行った。

 

4月頃から胃ろうを試していたんだけど

どうも受け付けず逆流してしまい

結局 静脈から点滴を入れて栄養を流し込んでいた4カ月間

 

もし、姉の腫瘍が前頭葉という場所ではなかったら

もっと姉らしく生きる事ができたのか。

我々ともっと意思疎通ができ、歩けて・・・

姉の病気に対する考えや気持ちを聞く事ができたのだろうか。

 

どうやって生きていくのか

 

それさえも姉と話す事ができなかった闘病生活

5年10カ月

 

我々が試行錯誤を繰り返した日々

姉はどう思ってたんだろう

笑顔の奥の奥の奥の方で

叫び声をあげてなかった?

 

「生きる」 

それに対して納得がいき、満足いくなんて

それは健康な人でも難しい中で

この難病になってしまった姉に

もっと他に選択肢はあったんだろうか

 

そう考えずにはいられない

5年10カ月

そして

これからも そう考え続けるんだろうと 思う。

 

あの時の私たちの選択が違うものだったら

まだ姉は居ただろうか

 

そう 考えてしまう。

 

そして いつも辿り着く所は

姉のあの2008年の夏のこと

 

もっと早くに見つけることはできなかったんだろうか

 

姉が亡くなってこの1週間

姉の親友のKさんとお話する機会があったのだけれど、

2008年の夏の様子を聞いてみた。

 

母からも姉の様子がおかしい事は聞いていたけれど

Kさんが印象に残っている事は

姉のおかしな行動よりも

「7月の終わりくらいからずっと風邪が治らなくて 

少し頭が痛いんだよね」

という言葉だという。

ずっと病院通いをしていたんだけれど、、

先生も姉もそして周りもみんな風邪をこじらせたと思ってたんだ・・・。

私だって傍にいたらそう思うんだろうな。

 

そして母ともそんな事を話していたら

「そう言えば2008年の2月に虫歯で歯を抜いたんだけれど

その時の痛み止めが効かなくて辛い 辛い

って顎をずっとさすってたなぁ・・・ 

あの時から病気は始まってたんだろうか」

 

当時の記録を読んでも

先生の答えは 「NO」

その時期に誰も影響が脳の方だとは思わないし

普通の内科医も脳だとは分からないだろう

とのこと。

これがマヤカシなのか真実なのか分からないけれど・・・

 

 

もし放射線治療をしなければ、

あそこまでひどい痴呆症にはならなかったのか。

もし代替医療をしなければ・・・

 

「もし」 「・・・たら」 「・・・れば」 の世界

考えても仕方がないし

考えた所で何の結果も見れない

不毛に精神を擦り減らすことだけれど

考えずにはいられない世界

 



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